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ニューヨーク市長、ラガーディア

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個性的な3人のニューヨーク市長(1)

世界一番の商業都市であるニューヨークの市長であり続けるには、強靭な精神と個性を持ち合わせた人物でないと務まらないことは当然である。

20世紀になり、ニューヨークは名実ともに世界最大のメトロポリスとなった。

年を追うごとに増え続けるヨーロッパから押し寄せる移民の待遇だけ考えても、我々の想像力では考え付かない多くの問題を包含している大都会、ニューヨークを取り仕切る「市長」の職は只者では出来ない仕事である。

筆者はこれまでの数多のニューヨーク市長の中で、特筆に値すると思われる個性豊かな3人を選んだ。

その3名とは、(1)フィオレロラグアーディア(Fiorello Enrico(Henry) LaGuardia,18882-1947),(2)ルドルフ・ジュリアーニ(Rudolph William Louis Giuliani lll,”Rudy”,1944-)、(3)ミッチェル・ブロンバーグ(Michael Rubens Bloomberg,1942-)である。その理由は前に述べたごとく、これら3人とも、それぞれ、驚異的に強い個性の持ち主だからである。

ラグアディアは1882年、ニューヨーク市生まれ。父はイタリア系のカトリック、母はオーストリア系ユダヤ人で、共に1880年の移民である。

彼はどちらかと云うとイタリア系を名乗り、ユダヤであることは表に出さなかったと云われている。

1900年、18歳で初めて政府の仕事を得て、ブダペストの領事館勤務となる。しかし、ユダヤ系への偏見に怒った彼は職を辞して帰国、ニューヨーク大学に入学、片手間にニューヨーク港で移民者の通訳として働いた。

暫くして、彼はユダヤ人が働く衣料の縫製職人や浮浪者の仲間から人気を得る。

1922年、下院選挙に立候補、ニューヨーク選出の初めてのイタリア系議員となる。

1933年、ニューヨーク市長に初当選、ヒットラー嫌いとして名を馳せる。

1929年に始まった大不況のなか、名目上共和党員だったが、党派を超えて人気物となり、当時ニューデール政策の支持者、フランクリン・ルーズヴェルト大統領を支持、代わりに大統領はニューヨーク市に多額の資金援助を実施した。1941年には現職市長でありながら民間防衛の全米指導者となった。

1946年市長を辞任、連合国救済復興機関の事務総長を務めた。

ラグアーディアの身長は150センチで小柄だったため、「小さな花」を表すイタリア語“フィオレ(fiore)のあだ名で呼ばれた。

一時はイタリア・マフィアの巣窟の異名をとったニューヨーク市であったが、彼はニューヨーク市を再生させ、民衆の信頼を取り戻した。

1854年から、ラグアーディア市長就任の前年の1932年まで、移民居住地区を票田に市制を牛耳っていた悪の居城「タマニー・ホール」(註:参照)関係者から市制を取り戻した功績は特筆すべきである。

その他、ラグアーディアは市の交通網を統合し、安い公共住宅、多くの公園の開設、空港建設とともに警察機構の再築と雇用の安定に寄与すること大であったと云われている。

専制的市制をしいた、云わば独裁者のような市長であったラグアーディアは、かえって気まぐれなニューヨーク市民の感性を刺激、人気を高めた。

腐敗した集票組織を破壊、ワイロが横行していた状態を糺して、能力本位の雇用システムを再確立した。

彼は特に移民と少数民族を擁護、以前に於いて政治システムから疎外されていた人々の集団にもてを差し伸べた。

ラグアーディアの自叙伝を手掛けたトーマス・ケスナーは「彼は並はずれた人物で、目標に突進、専制的統治を行使して敢えて顧みなかった性格の持ち主」と批評している。

敢えて言うならば、ラグアーディアのやり方は、現代では到底受け付けられない程荒っぽいものだったと言えそうである。ニューヨーク国内線用空港La Guardia Airportは1942年の開港である。

註:Tammany Hallとは1790年代から1960年まで、200年近く存在したアメリカ民主党の派閥関連機関、Tammany Societyのこと。ニューヨークでの移民、移住地区を票田に持ち、貧民を助けながら勢力をのばし買収及び供応を含む移民に対する集票工作を展開、悪名を馳せた団体。19世紀半ばのwilliam tweedが最も有名である。

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