« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

リヒアルド・クーヘンホフ=カレルギー

Photo

このところ毎日のようにギリシャの財政危機に端を発した金融問題でヨーロッパ中が揺れているニュースを耳にする。

EUの創始者と云われているリヒアルト・クデンホーフ(Richard Nikolaus Graf Coudenhove-Kalergi,1894-1972)はクーデンホーフ光子の二男である。

20071月、ブルガリアとルーマニアを加えた27カ国によって欧州連合が誕生した。総人口49000万、公用語は23言語の多民族、多文化経済国家連合の誕生が見られてより5年弱、今、共通通貨“ユーロ”の維持が危険にさらされている。

ユーロ構想(oneness)は古く、1923年頃からリヒアルト・クーデンホーフ(別名:青山栄次郎)を中心に「汎ヨーロッパ主義」思想のもと80年以上もかかってようやく共同の通貨を持つ経済圏として日の目を見た。

明治初期、オーストリー・ハンガリー帝国の駐日代理公使、ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと骨董商の娘、青山光子の結婚は有名である。

ハイインリッヒクーデンホーフ=カレルギー(1859~1906)と光子の出会いは、ハイリッヒが路上で落馬し、怪我を負ったとき、光子が彼を献身的に世話を見たことから始まったと云われている。(ハインリッヒ、33歳、光子18歳)

1896年(明治29年)、ハインリッヒに帰国の命が下り、一家は2人の息子、光太郎、栄次郎を連れてクーデンホーフ家のボヘミアの領地の居城、ロンスペルウに還ることとなった。

その当時の日本は、極東の島国であり、云わば、土着民の娘がシンデレラ姫(伯爵夫人)になったように見られていたに違いなかった。

その後に生まれた子供5人を加えて、計7人の子供達を立派に育てたことは光子の偉業と賞されるべきである。(木村毅著:クーデンホーフ光子伝、1986年参照)

リヒアルトは1913年(19歳)の時、18歳年上の女優、イダ・ローランと出合い、母親の反対を押し切って結婚する。

彼は、1923年「汎ヨーロッパ主義」を著し、センセーションを起こす。間もなく現れたヒットラーに嫌われ、第二次戦争中、ヨーロッパを逃げ回って、スイス、ポルトガルを経てアメリカに亡命した。

ハリウッド映画「カサブランカ」の中で、イルザ(イングリット・バーグマン)の夫、ラズロ(ポール・ヘンリード)のモデルとなった人物が、リヒアルドその人だと云われている。(Renaissansjapan.www.Unicef org)

フリーメーソンであったリヒアルドは亡命先のアメリカで、同じメンバーであった、チャーチル、ルーズヴェルトの支援を受け、1943年、ニューヨークで開催された第5回パン・ヨロッパ会議で”One World”を唱え、その後トルーマンからの支援もあって、194857日のハーグ会議から「欧州会議」、その後、英仏折衝を経てCE(欧州協議会)の結成にまでこぎつけた。

その後、リヒアルドは欧州統一の成立を見ることなく、19727月スイスのシュルンス(Schruns)で志半ばにして生涯を閉じた。(享年78歳)

1992年、マースリヒト条約が調印され、欧州連合(EU)の発足が決定された。

ギリシャの債務問題の中にあって、独仏が中心になり欧州連合共通通貨の防衛に必死になっている様子を観察していて、筆者は成程と思った事実を見たように思った。

”One Europe”(タイムス誌1943・11・19発行)の中で、リヒアルドが父、ハインリッヒ・クーデンホフ=カレルギーが生前から唱えていた”oneness”と云う、血統で繋がったヨーロッパの特異な考え(思想)があることに気付いた。

詰まる所、クーデンホーフ家は、オランダ、ベルギーの出自であったが、フランス革命の結果、ハプスブルグ家を含め、ヨーロッパ貴族に大混乱が起こった。

カレルギー家の血筋は、実は、クレタ島、即ち、ギリシャの最も古い血筋の流れを組む旧家であるとのことを知った。多くのギリシャの旧家(貴族は北方の国々とも少なからず関わりを保っていることも確かである。

トルコとギリシャ、特にクレタとは、永らく犬猿の仲であることを考慮した場合、ここでバッサリとギリシャを切り捨てることに苦慮しているユーロ国家の事情には複雑な“バックグラウンド”があると筆者は考える。

トルコはかねてよりヨーロッパ連合の一員になることを望んでいるが、そのことについてドイツは強い警戒心を抱いていることは確か。トルコはヨーロッパからすれば何時までも異邦人である。

|

「風評テロ」の恐怖

Photo

“東京都足立区、東淵江小学校のプール機械室の雨樋の下で、毎時3.99マイクロシーベルトの高い区間放射線量を測定」した”と云うニュースを本日早朝、筆者は確かに耳にした。(1018日)

又、さらに、千葉県舟橋市の「ふなばしアンデルセン公園」で、国の除去基準を上回る放射線量が検出され、同市は14日までに、線量の高い園内3か所の土壌の除去作用を行った。

この結果、最大で毎時1.55マイクロシーベルトだった線量は基準値よりも低い、0.120.30マイクロシーベルトまで減少したが、その日(14日)に2000人の入園予約が、キャンセルが相次いだがために約900人と減少した。

舟橋市は今後「利用者に安心を与えるため園内の放射線量を公表したいと発表」(20111014

筆者は気になるため、本日の新聞(京都、毎日、産経)誌上を探したが、東京足立区の小学校の事件のニュースは見当たらなかった。これら二つの事件が何らかの理由でテレビで流されたなったことで筆者の疑惑はさらに高まった。

先日の世田谷でのラジューム放射線事件、横浜のマンション屋上での「ストロンチューム事件」、いずれも福島原発から数百キロも離れたところで、短期間にかくも多くの説明のつかない不可思議なことが起こることに心中穏やかならざるものを覚える。

今回は、東京都、千葉県、神奈川県と云う、東京湾を取り巻く地域でこのような「悪い事件」報告があった、これら3地点は東日本の国際港、空港が集まっている場所で、云わば、日本経済の最重要地帯に他ならない。

前号の拙稿で筆者は“風評テロ”が恐ろしいと述べたが、実際に関東地方で連鎖的に流されている悪い報道は、果して確報なのか誤報なの、又は黙視しても良いような些細な事件だったかどうかを知りたいと願っている。

  

|

風評テロの脅威

Photo (セシュームの検出現場)

住民からの情報を受け、東京世田谷区弦巻歩道上で高い放射線量が検出された。

世田谷区が通報を受けて10月4日に27か所の放射線の量を測定した。その結果,    一か所から1時間当たり、約2.7マイクロシーベルトの放射線量を検出した。

この放射線の値は、福島県の計画的避難区域、飯館村役場付近で見られた、2.1マイクロシーベルトより高い数値であったと云う。

福島第一原発から250キロも離れた横浜市のマンションの屋上でも、ウランが核分裂した場合できる放射線物質「ストロンチューム」が検出されていたことも或る民間検査機関と分析で判ったと云う二つの出来事は一体何を意味するのだろうか?

世田谷区が受けた「或る住民」、横浜での「或る民間検査機関」をもっと克明に特定できなかいか、は筆者の知りたいニュース。

上記二つの事件は果たして福島原発爆発事件に因果関係を持つものかどうかを是非はっきりと知らせて欲しいと思っている。

世田谷区の誰が何時、何処へ放射線の調査を依頼したのか、又、横浜のマンションの屋上に限って何故「ストロンチューム」反応が出ていて、それを誰が知ることになったのだろう?

今や、世界の目が日本中で最も中心的な地域、東京都と横浜にそそがれることとなった。

このニュースを知らされてから、「これは大変なことが起こった」と思い始めた。福島の火の粉が250キロも離れた、日本の貿易の中心地まで飛び火した。

セシュームやストロンチュームと云われて、それが何を意味するのか判っていない一般大衆は、我が子の将来の健康を気遣っている。

此の際、この分野の専門の科学者はハッキリと、こんな現象は普通、起こり得ないのか、又、起こっても不思議でないのかを国民に明らかにして欲しい。

筆者は、これがもし悪意で仕組まれた「風評」であれば、恐ろしいテロ行為となるのではと思った次第である。       

|

日本人”コンデ・コマ”

Photo

通称コンデ・コマ、日本名、前田光世、講道館4段(1878-1941)国籍はブラジル。

元青森県中津軽(現弘前市)の出身。

青森県第一中学校を中退後、上京、早稲田中学で相撲、野球を学び、明治10年(1897)講道館に入門、講道館四天王と呼ばれた。

嘉納治五郎講道館初代館長に見染められ、明治37年(1804)、アメリカ政府からの柔道指導者の派遣要請により、11月、柔道使節の一員として渡米した。(当時4段、身長163センチ、70キロ)

滞在費捻出のため、異種格闘他流試合を求めてアメリカ中を歴訪、ボクサーやプロ・レスラーとのエギジビション・マッチに挑んだ。

とき正に、日露戦争中、珍しさもあって好評を博し、当時の大統テェオドール・ルーズヴェルトに招かれ、ホワイト・ハウスで模範試合も行った。

賞金1000ドルを謳って挑戦者を募集、アメリカ中を巡って挑戦してきたボクサー等を片っ端に退けたと云われている。

アトランタ(ジョージャー州)では、世界一の力持ちと云われた、ブッチャー・ボーイ(Butcher Boy、身長185センチ、体重110キロを僅かに8秒で体落としと巴投げの合し技で下した。

この前田の快挙に観衆も仰天し、始めて見た「柔術」の評判が一挙にひろまった。

その頃、日露戦争の行方を世界が注目していた頃、「東洋の小国日本」を脅威の眼差しで注視するようになった。日本ブームが巻き起こり、その頃発刊された新渡戸稲造著「武士道」もあって日本の存在が俄かに評判になった。

その後、前田は突如アメリカに巻き起こった「排日運動」に嫌気して、メキシコやヨーロッパを行脚、異種格闘マッチ行脚をかさね、最終的にはブラジルに落ち着くこととなった。柔道着着用試合では2000勝無敗の成績を残したと伝えられている。

ブラジルでは“コンデ・コマ”(伯爵)を名乗り、アマゾン開拓事業にも参加、カルロス・グレーシーを援助して「グレーシー・柔術アカデミー」の設立に努力、民間大使として日本とブラジルの親睦のかけ橋の役割を担った。

前田は一度も帰国することなく、1941年、63歳で当地、ベレンで亡くなり、その後あまり顧みられなくなったことは残念である。

今日、ブラジルから多くの柔道家を輩出しているが、これは一に、前田光世の存在があってからこそと筆者は考える。

関連図書:横田順弥{明治バンカラ怪人伝}、前坂俊之「痛快無比!ニッポン超人図鑑」等

|

「東京スカイツリー」は何?

Tst

「東京スカイツリー」が2012年春に出来上がるそうな。先日、大林組の技師のこのプロジェクトと技術の問題の説明を聞いた。

しかし、その技師は「東京スカイツリー」(以下、TST)が何故必要なのか、その建造費がいくらかを説明しなかった。、もし説明されたとしても筆者には、それの「本当の意義」は解釈できないだろうと思う。

“東京に一つ新しい名所ができようとしている”、“それは地上634メートルで、世界一の高層建築物となる”“これは21世紀のピラミッドである”等々宣伝文句を聞くが、それが何の目的で建てられるのかについては、唯「電波塔」と云うだけでは、如何にもお粗末と云わざるを得ない。

渡された説明書にも、構造の説明はされているが「目的」の説明が欠落している。

今年の東日本大地震の時には最上階での揺れは5メートルにもなったが被害はなかった。

何故そんなに揺れるものを作らなければならないのか?

技術力の誇示だけならあまりにも幼稚ではないかと思うのだが、如何なものだろう。

TSTが完成すれば、どれだけの集客力があり、周辺のビジネスの形態が変わるだろうとばかりマスコミは報道しているが、地方に住むものにとっては、それについてあまり関心が湧かない。

土木、建設等の技術力に於いて日本が優れていることは既存の事実。

今更そんなことは二の次の問題で、同じお金を使うのならもっと意義のあることに使って欲しい。

それが一民間企業が事業目的をもって行う商行為とすれば、誰も反対する権利はない。

今、東海新幹線が日本縦断高速鉄道を企画していると聞いている。

これも筆者の考えからすれば同じ範疇に入るものと思っている。

しかし、鉄道の建設はTSTより遥かに罪が深い。

これの建設費はともかく、これを許可すると、果してどれだけ自然に影響を及ぼすことだろう。

東京⇒大阪を10分所要時間が短くなってもあまり意義を感じない。

これには、どんなことがあっても国は許可を与えるべきでないと思っている。

|

捨てる決断、アップルの教訓

Steve_jobs

去る10月5日、コンピュータ会社マッキントッシュ(アップッル)の前のCEOであったスティーヴ・ジョッブ氏(Steven Paul Jobs,1955-2011)が他界した。

驚いたことにジョブス氏逝去のニュースは全世界に大きな出来事として報道された。

ジョッブスは一度アップル社を解雇(1996年)されたが、2000年頃再び復職している。

丁度10年前頃アップル社は内紛や、商品戦略の失敗が重なった為、殆ど倒産の寸前にあった。

そのユーザーをライバルのマイクロソフトに持っていかれて、世界の大勢から孤立、何時倒産してもおかしくない状態にまで追い込まれていた。

会社経営の責任者として、その頃のジョッブス氏の心労は察ししてあまりあるものだったと想像する。

その頃、彼がカリフォルニア大学のバークレー校で多くの学生を前に語った標語”Stay Hungry, Stay foolish”は死を意識して、精いっぱい自分の心情を吐露していたのではと筆者は思っている。

自分の経営する事業の崩壊を目前にして、彼は“駄目でもともと”と云う心境に至ったのではと筆者は考える。

ジョッブス氏が実行に移した行動とは、全く普通の人間では考えも及ばないものであった。

彼はライバルでもあり、知人でもあった、マイクロソフトの会長ビル・ゲイツに正面から出向き、二つの事柄を頼みこんだと云われている。

日経新聞昨年の10月26日の記事によれば、それとは,①マイクロソフト製「ワード」の応用ソフトをアップル製機種でも使えるよう改良して欲しい。

②資金援助をお願いしたい。の二つであった。

人間が極限にまで追い詰められ、これ以上、後に引けないと思ったなら、諦めるか、さもなければ「敵前突破」に出るかしか術はない。

常識で考えても、その時、ジョブスがとった戦術は”foolish”と他人には映ったことだろう、特に相手が彼にとって、最大のライバル、ビル・ゲイツであったら、尚更である。

前述の日経の記事「一目均衡」は、“その時のジョッブ氏の心境を、”自分を捨てる決断“をしたと解釈している。

アップル社は2001年に従来の基本スフト(OS)に見切りをつけ、「OSX」と呼ぶ新OSに切り替え、全面刷新を試みた。これをすることで、以前のOSに準拠した応用ソフトとともに、これまで使用してきた人達の「熟練も水泡に帰す」ことも判っていた。

これは、今になって判ったことだが、昨年頃から旋風を起こしている”iPad”を操作すると、それはパソコンと云うより、テレビに近い感覚であることに気づく。(但し、当時すでに、ジョッブス氏の頭にそのようなアイディアーがあったか否かは不明)。

スティーブ・ジョッブスの突飛な懇請を正面から引き受けたマイクロソフト会長(当時)の腹芸も見上げたものだが、売れないOSに見切りをつけて“全てを捨てる”決断で事に当たった経営責任者ジョッブスのハングリー精神こそあっ晴れだったと拍手を贈りたい。

当てもないのに過去を捨てることは自殺行為だが、未曾有の環境変化や難問を多く抱える日本の政治家諸君、「捨てないリスク」に考えを致し、国家の改革に努力することを望みたい。

|

中国の宇宙ステーション

Photo

産経新聞、10月6日「正論」で中国軍事専門家、平松茂雄の“すぐに中国宇宙軍の時代が来る”と云う見出しで、宇宙空間に米国の弱点を見出した今後の中国の動向に注目すべきことに注意を促している。

グーグルの論説では天宮1号発射の状況の撮影に成功したことを以下のように報じている。

「中国が9月29日に打ち上げた同国初の宇宙ステーション無人実験機「天宮1号」を、地上の望遠鏡で撮影することに、富山市天文台の林忠史・主査学芸員が成功した。
天宮1号は全長約10メートルで、約340キロ・メートル上空を飛行しているという。7日午後5時14分ごろ、天宮1号が富山市上空を通過するところを、同天文台の口径1メートルの反射望遠鏡で約40秒間追跡し撮影した。2枚の太陽電池パネルが広がっている様子も確認出来た。
中国は来月にも、宇宙船「神舟」を無人で打ち上げ、天宮とのドッキング実験を行う予定。林さんは「順調に飛行しているのが確認でき、中国の宇宙技術の高さを感じた。今度は神舟とドッキングしているところを撮影したい」と話している。」

この宇宙ステーションは、2020年の建設を目指して計画が進行している。

天宮1号はその雛型で、、今後3回打ち上げられ、宇宙船とのドッキング技術を確立する予定らしい。

我が国が宇宙での実験を生物や人体物理学等に限定して研究していると聞いているが、中国の場合、それら研究以外に軍事方面への利用を重視していることを忘れてはならないと平松氏。

平松氏は、将来の戦争は、地上での「平面戦争」から空間での争奪を目的とした、宇宙空間で優勢を占める「立体戦争」が予想されるべきと論じている。

空間争奪戦で優位を保ち、同時に在来型の陸海空の「力」と相まって、自国の優位を保つ新戦力が確立する「宇宙軍戦略」こそが重要との説らしい。

これは中国が既に20年以上前から着想し実験を始めている。1999年1月の「神舟1号」(回収成功)、2001年1月、02年3月、同12月と立て続けに打ち上げ、いずれも回収に成功。

3年10月には、有人宇宙船「神舟5号」、その後、5年の10月、8年の9月と合計3回、事件し、全て回収に成功している。

今後の予定では、2020年までに、「神舟8号」、9号、10号が宇宙船にドッキングして、予定の宇宙基地を建設する。

アメリカが今後、宇宙船の実験中止をしない模様だが、その間、中国はアメリカの弱点を突いて「負けない国家」の戦略研究を開始したのではないだろうか?

平松茂雄氏はさらに、“我が国も宇宙開発には多額の国民の血税をつぎ込んでいるわけだから、アメリカ等と共同で研究すべきである”と強調している。

我が国と米国間の安全保障条約は、たたただ、アメリカに頼るだけでなく、自国の防衛を真剣に考え、少なくともアジア、太平洋地域を共同で防衛する気構えがなければならないと筆者は切望する。

|

京都の謎の謎

Photo Photo_2 写真:上、平安神宮、下、平城宮

最近奈良に「平城宮」が復元されて人気が出ていることを聞き及んでいる。

これは、考古学者たちが慎重に調査して、1300年以前にあったと思われる場所を選んで「大極殿」を復元した。

筆者は最近「京都の謎」(高野澄著)と云う小冊子を読み偶然に気が付いたのだが、明治28年、遷都1100年の記念行事として左京区岡崎に建てられた「平安神宮」は、最初は模擬大極殿として建造された事実を知った。

成程、それは一見して最近できあがった奈良の「平城宮」と良く似ていることが判る。(写真)

京都では「羅生門」(羅城門)址が東寺の南に残っている。この場所が朱雀門のあった場所で、大極殿の南に位置する。

従って、京都の大極殿は現在の千本丸太町の西北に存在していたと考えるのが常識である。

歴史の記述では延暦13年(794)10月22日が長岡京から平安京に遷都された日である。

平安神宮建立の刺激となった理由は「橿原神宮」であったらしい。それは明治23年(1890)、その祭神は神武天皇。

それでは、京都は桓武天皇で行こうと云う結論になったのではと著者は述べている。

ここに三つの案件があった。京都遷都1100年記念祭。第4回内国博覧会。琵琶湖疏水完成記念。

東京遷都以来、京都市民を鼓舞するためには遷都1100年記念祭は是非とも必要であった

それと「琵琶湖疏水と水力発電所」を目玉として内国博覧会を開催して、天皇の行幸を願うと云うことで結論を出したのが、農商務大臣に就任したばかりの佐野常民であった。

博覧会の開催場所は竣工したばかりの琵琶湖疏水に近い、岡崎地区がふさわしいとして突如決定したらしい。

その時点では「平安神宮」はあくまで疑似の大極殿建設を考えて施工が開始された。

平安神宮百年史編纂委員会「平安神宮百年史」にも:

   平安京の大極殿の模型をつくる。

   大内裏の絵図をつくる。

   京都全体の絵図をつくる。

   大極殿の模型の背後に一棟の社殿をつくり、これを平安社と呼ぶ。

ここでハッキリとしていることは、「平安社をつくる」と云う構想でしかなかった。

それが、次第に構想が変化して、「官幣大社・平安神宮」の出現となったのである。

明治の初期では仏教が排斥され、反対に国威高揚のため「神社」が幅をきかせることとなったことは自明の事実であるが。古来の京都の町並みを破壊してまで、巨大な平安神宮が必要であったのだろうか?

京都の歴史、考古学に関心をもっている筆者には、時代考証を無視してまで、間違った場所にモンスターのような派手な社屋を建てることは正にナンセンスと映る。

無責任な小説家達が興味本位に歴史をでっちあげる罪も許せないが(例:吉川英治著、「宮本武蔵」)、官憲の都合で間違った「史実」を国民に押し付けることは慎んで欲しいと考える。

|

世界を席巻した家庭ゲーム「モノポリー」

Monoopoly1

“Monopoly”(モノポリー、独占、専売)と云うゲームをサイコロを使ってお正月に、家族全員で楽しんだ経験のある人は多い事と思う。

このゲームが最終的に“モノポリー”と呼ばれることとなるまでには、      “Banking”(1883)、“Landlord’s game”(1904)、”Finance”(1932)、のように名称が変わっているが、それら,すべて似たりよったりのゲームで根本的なコンセプトは変わらない。

要するに、二つ折りのボードの上で、土地を購入したり、家を建てたり、家賃をとって貸したり、売ったり、自分の土地にホテルを建てながら自己資産を増やして家族全員で楽しむバーチャル・ビジネス取引を楽しむ「ゲーム」である。

このゲームが大々的に市場に現れたのは、世界大不況の未だ収まっていない、1935年であった。(写真)

この遊びが大ヒットとなり、今日までに5億セットが売れたと云われている。

この発明者はチャールス・ダロー(Charles B. Darrow18891967),この遊びは世界中の多くの人々を魅了して「世界の最大ヒット」商品であり続けている事実は驚きの他はない。

このゲームのパテントは、2026082(US),19351231日、発明者はダロー氏である。

前述の通り、現在の様式に決まるまでには、数々の紆余曲折があった。

これのオリジンとなるフォームを作りだしたのは、リジー・マギーと名乗る女性で、彼女は”Land Lord’s(地主)の名称で類似したゲームを考案して1904年にパテントを取得している。(パテント番号:748626

しかし、このゲームは資産持ちの家主だけが稼いで、テナントが貧乏になることで、あまり受けなかったと云われている。

始めの頃は、殆どが手製で、アメリカ中東部のフィラデルフィアー、アトランティック・シティーやインディアナポリスで盛んに遊ばれるようになり、次第に広がっていった。

実際にDarrow氏が最初の頃売りだしたときは一点の価格は4ドルであった。

ところが、このゲームが売れに売れて、次第に一人では賄いきれなくなったので、彼は、これをパーカー・ブラザース会社(Parker Brother’s Co.)

に持ち込んだところ、この買収交渉が成立、パーカー・ブラザースはマギー($500他、全ての関係する業者を買収、ダロー氏を発明者として“モノポリー”の独占販売権を手にした。

パーカー・ブラザースは類似ゲームであった、“ファイナンス”や“インフレーション”の名称で販売されていたものをも買収したが、それらの中には一万㌦を支払って迄して裁判沙汰を納めた事件もあったと云われる。

モノポリーが永遠のベストセラーになったのは、それが世界大不況中に売り出されたこともあったが、このゲームの真髄は、相手をこっぴどくやっつけても、負けて破産した方も痛くもかゆくもなく、みんなで楽しめるところが、特にアメリカ人に受けたのではないだろうか?

|

米ドルと英ポンドの価値についての私案

Photo (写真:us$2.00)

ヨーロッパ中がギリシャの財政危機とデフォルトの憂いから抜けきれないでいる模様。

ユーロ圏内で財政危機を起こしているのが、「ラテン系」と「カソリック」を共通点としている。これは何故なのだろうか?

今年の3月に未曾有の災害と原発爆発と云う不幸に見舞われた日本の通貨が他の世界主要通貨に比較して「値」をあげていることは何故なのだろうか?

前世界戦争後にIMFで決められた通貨協定(ブレトンウッズ協定)に従って邦貨「円」は対ドル、360円、対英ポンド、1080円と定められた。

その時のポンド対ドルの比較は知らないが、日本円を介して比較すると、それは不思議にも丁度3対1の比率であった。

これは余談だが、もしその時、10ポンド(1万800円)を日本の郵便貯金にして残していたとするなら、複利計算でどの位の残高になっているだろう?

現在の交換レートでは、英ポンドは120円、米ドルは76円、終戦直後の交換レートから見て、英ポンドの価値は1/9、ドルのそれは約1/5となった。

グーグルのサーチエンジンによると現在のところ、米ドの価値は英ポンドの半値に相当するとのこと。(1.9ドル=1英ポンド)

それを基準に筆者が、日本円の価値を媒介として、英米の通貨の単純換算を試みたところ、761.9=英ポンドの価値は14440銭となり、反対に米ドルの価値は約73円と現在の76円より下回る数値となった。

こんな計算は玄人から見れば何の基準にもならないように云われるかもしれないが、将来の外貨価値上昇を見越して投資を考える場合、筆者の見るところ、此の際、米ドルを購入するより、英ポンドに賭ける方が少しは安全なのではないかと思うのであるが、如何だろうか?

現在ユーロ圏で危険視されていることは、各々の国がどれ程のギリシャ国債を保持していることである。この点でも、アメリカはギリシャに武器供与や国防費援助を行っている可能性もあり。アメリカ通貨価値の将来にはあまり希望が持てない。

|

ロバート・リー将軍の皮肉な運命

Photo

アメリカ南北戦争(1861~1865)は当時「テリトリー」と呼ばれた西部の準州地域における奴隷制度拡大への反対を、党の綱領として掲げる北部共和党の候補であったエブラハム・リンカーンが大統領になると、1861年2月、南部の7州が連邦を脱退、南部連合(confederate)を結成、同年、4月12日、サウス・カロライナ州チャールストン港沖のサムター要塞で合戦となり、その後、4年間にわたる南北戦争(civil war)がおきた。

エブラハム・リンカーン大統領は1861年、ロバート・E.リー(Robert Edward Lee,1807-1870)中佐を戦争勃発にあたり、北軍(Union)の総司令官になるように要請した。

ところが、リー大佐は南部ヴァージニア州出身であったため、ヴァージニア州が連盟を脱退することを知って、故郷と運命を共にするべく、リンカーン大統領の要請を辞退した。

アメリカ独立戦争当時の英雄を父に持つリーは、1829年ウエストポイント・陸軍士官学校を次席で卒業、46年から48年のメキシコ戦争に従軍して武勲を立てた。52年には母校、ウエストポイントの校長を務め、55年には中佐に昇進、当時騒乱が続いていたテキサスに赴いた。1859年に西ヴァージニアで勃発した黒人暴動鎮圧にも活躍した。

南北戦争勃発の年の4月20日、リー中佐は合衆国陸軍を退役、同4月23日、ヴァージニア州軍の陸軍少将に任命され、同軍の総司令官となった。

戦争勃発直前に大統領より北軍の総司令官に要請されたリー中佐は、数か月もたたないうちに敵方(南軍)の総司令官に就任する。これほどまでに敵味方から同時に総司令官就任を嘱望された、ロバート・リー将軍とはどんな人物だったのだろうか?

周知のごとく、1865年4月、南軍は北軍に降伏、4月9日、ヴァージニア州、アポマトックスの裁判所に於いて南軍は北軍総司令官ユリシーズ・グラント将軍(Ulysses S. Grant,後の第18代大統領)との間に降伏文書を交換した。

リーは南部人ではあったが、奴隷反対論者で、終生南部人からのみならず、全アメリカ人からも深く慕われ、紳士的振る舞い、そして彼のキリスト教的価値観を持ち続けた職業軍人として、グラント将軍以上に高く評価されている。

リー将軍にまつわる興味のあるエピソードとして記録されている事実は、彼の先祖をたどると、初代大統領、ジョージ・ワシントンに直接たどりつく歴史的事実である。

ワシントンは国家を一つに仕立てたあげた偉人であったが、リー将軍は故郷への愛着心を捨て切れず、皮肉にもアメリカ合衆国を敵にして戦わざるを得なかった運命の皮肉に終生苦しむこととなった。

アーリントン・ハウス(Arlington House)はロバート・リー将軍夫妻が30年間住んだ家であったが、その邸宅は奇しくもジョージ・ワシントンの義理孫であったジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(George Washington Parke Custis,1781-1857)の建てた家で、リー将軍夫人、マリー・カスティス・リー(mary Anna Randolph Custis Lee,1808-1873)パーク・カスティスの娘であった。

アーリントン・ハウスはアメリカ合衆国の歴史的記念建造物に指定されている。

|

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »