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日本人”コンデ・コマ”

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通称コンデ・コマ、日本名、前田光世、講道館4段(1878-1941)国籍はブラジル。

元青森県中津軽(現弘前市)の出身。

青森県第一中学校を中退後、上京、早稲田中学で相撲、野球を学び、明治10年(1897)講道館に入門、講道館四天王と呼ばれた。

嘉納治五郎講道館初代館長に見染められ、明治37年(1804)、アメリカ政府からの柔道指導者の派遣要請により、11月、柔道使節の一員として渡米した。(当時4段、身長163センチ、70キロ)

滞在費捻出のため、異種格闘他流試合を求めてアメリカ中を歴訪、ボクサーやプロ・レスラーとのエギジビション・マッチに挑んだ。

とき正に、日露戦争中、珍しさもあって好評を博し、当時の大統テェオドール・ルーズヴェルトに招かれ、ホワイト・ハウスで模範試合も行った。

賞金1000ドルを謳って挑戦者を募集、アメリカ中を巡って挑戦してきたボクサー等を片っ端に退けたと云われている。

アトランタ(ジョージャー州)では、世界一の力持ちと云われた、ブッチャー・ボーイ(Butcher Boy、身長185センチ、体重110キロを僅かに8秒で体落としと巴投げの合し技で下した。

この前田の快挙に観衆も仰天し、始めて見た「柔術」の評判が一挙にひろまった。

その頃、日露戦争の行方を世界が注目していた頃、「東洋の小国日本」を脅威の眼差しで注視するようになった。日本ブームが巻き起こり、その頃発刊された新渡戸稲造著「武士道」もあって日本の存在が俄かに評判になった。

その後、前田は突如アメリカに巻き起こった「排日運動」に嫌気して、メキシコやヨーロッパを行脚、異種格闘マッチ行脚をかさね、最終的にはブラジルに落ち着くこととなった。柔道着着用試合では2000勝無敗の成績を残したと伝えられている。

ブラジルでは“コンデ・コマ”(伯爵)を名乗り、アマゾン開拓事業にも参加、カルロス・グレーシーを援助して「グレーシー・柔術アカデミー」の設立に努力、民間大使として日本とブラジルの親睦のかけ橋の役割を担った。

前田は一度も帰国することなく、1941年、63歳で当地、ベレンで亡くなり、その後あまり顧みられなくなったことは残念である。

今日、ブラジルから多くの柔道家を輩出しているが、これは一に、前田光世の存在があってからこそと筆者は考える。

関連図書:横田順弥{明治バンカラ怪人伝}、前坂俊之「痛快無比!ニッポン超人図鑑」等

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