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中国の脅威的宇宙開発

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去る4月29日、北京郊外の「北京紅天城」で内外記者団が招かれ有人宇宙船の訓練施設や、宇宙船とのドッキング実験用の無人宇宙実験室、天空1号が紹介された。

これは明らかに対外用の宣伝色の濃いもので、中国の宇宙事業の発展は宇宙空間の平和利用であると云い、この面での国際協力はこの分野のさらなる発展に有益であることを弁公室の楊利偉副主任は述べた。

中国の宇宙開発は人民解放軍の総装備部の担当、2003年の中国初の有人飛行で楊氏は脚光を浴びた。

楊氏は空軍パイロットの出身、1970年の軍事用衛星打ち上げの頃から関わっていると云われる。

ここで注目されなければならない事は、宇宙船打ち上げロケット技術は大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射技術と基本的に同じであることである。

有人宇宙船の打ち上げ成功の実績でもって、中国は現実にアメリカを核ミサイルで正確に攻撃できる能力を持ったことになる。

未来のサイバー戦争を想定して、宇宙空間の制覇を念頭に中国は又一歩アメリカに近ずいたことになった。

既に中国は有人宇宙飛行技術では米、ロに次いで世界で3番目と思われる実力を備えた軍事国家と認められる。

これが中国が目指している「制天権」

“空天一体化の宇宙戦略”と呼ばれているらしいが、これで中国は空軍、海軍の力だけでなく、宇宙戦で世界的に優位な立場を確保しようと試みていることが現実になりつつある。

2004年の7月、空軍と宇宙開発を統合した「空天一体化」作戦を中国は策定済みである。

空軍用教材には、制空権確保のみならず、宇宙の戦場における総合的な統制権の確保し、作戦行動の拡大を目指すことを任務するよう書かれているとのこと。

既に中国は20年から30年以内に、戦闘機や衛星、ミサイル攻撃兵器の開発を通して衛星情報システムを完備させて「周辺地域の制空権を含めた軍事的優位性」の確立に向かっていることが判る。

空軍指揮下に「航空宇宙作戦指揮センター」を設立し、空軍を中心に将来の宇宙軍のための兵士の養成に」とりかかる作戦。

衛星の打ち上げ実績は既に120回を超え、2003年10月には宇宙飛行士が搭乗の「神舟5号」の打ち上げに成功、07年には老朽化した自国衛星の破壊実験にも成功した。(宇宙衛星を破壊する技術は他国にとっては正に脅威)

今年、11月上旬の無人宇宙船「神舟8号」と無人宇宙実験室とのドッキング実験も、総指揮官、常万全中央軍事委員会委員の指揮で行われた。

宇宙ステーションの建設の実力だけでも脅威の成功と云わなければならないが、

中国の目指す宇宙の平和利用以外のフィールドでの躍進には今後世界の注目の的になることは必定と考える。

(人民解放軍の表と裏、“軍主導の宇宙開発、京都新聞11/30/11)

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フェートン号事件

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「温故知新」の戒めとして、我々は、寛政の世に生きて、仙台藩に国是に刃向かった廉で禁固刑を受け、そのまま死んでいった、林子平(ハヤシ・シヘイ、1738~1793年)の教訓を21世紀に再び学ぶ必要を感じる。

林は、高山彦九郎、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」として知られ、別号を「六無斎主人」と云った。

その由来は、林が晩年、蟄居中に“親もなし、妻なし子なし、版木なし、金もなけれど死にたくもなし”と云う遺文を残して死んだところから由来している。

林は生前、全国を行脚して悟るところあり、外敵に備える必要を説く為、自費出版で、「三国通覧図説」「海国兵談」「富国策」などを著して、我が国の外敵に備える必要性を説いたが、仙台藩には取り入れられるどころか、逆に危険分子として捉えられ、無念うちに一生を閉じた偉人であった。

林子平の没後、15年後の文化5年8月(西暦では10月)、長崎で大事件が起こった。

それが世に云う「フェートン号事件」である。

イギリスが、ナポレオンを幽閉した後、フランスの属国であったオランダがそれまで殖民地として支配していた、シンガポールを始めとする、現在のインドシナ地方、及び東南アジア諸国を自国の支配下に置いた。

幕府に商館の設置を許されていた「長崎の出島」は、イギリスは、当時、オランダが治外法権を持つ殖民地と考えた。

1808年10月4日、湾内のオランダ船の拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート“フェートン号”(イラスト)はオランダ国旗を翻し、国籍を偽り、長崎の港に入ってきた。

何の疑いもなく自国の商船の入港と考えたオランダの商館員(2名)は、慣例に従い、長崎奉行の通訳を伴って出迎えたところ、フェートン号はオランダの国旗を降ろして、替わりにオギリスの国旗を揚げ、オランダ船を求めてボートで港内を捜索、その時捉えたオランダの商館員を人質として派遣、奉行所に薪水の他、食糧(米、野菜、肉)の提供を要求した。

長崎奉行の松平康英は、湾内の警備係、鍋島藩、福岡藩にフェートン号の焼き打ち、もしくは拿捕を命令、同時に大村藩らにも派兵を促した。

オランダの商館長ヘンドリックス・ズーフは、長崎奉行に諫言、速やかに退避して戦闘回避を訴えたが、聞き入れられず、翌日になってイギリス側が、要求が入れられない場合は、港内にある一切の船を焼き払うことを告げた。

ここで、ようやく事の重大性を悟った奉行所の役人達は、フェートン号船長の要求を受け入れ、要求品一切を提供し、オランダ側からも、豚と牛を送った。

そこで、イギリス側はオランダ側の人質を釈放、翌日そこを立ち去った。

満足な兵力を持たず、無断で侵入してきた(国際法違反)イギリスの要求に、屈服せざるを得なかった松平康英は国威を辱めたとして自ら切腹、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩の家老数名も、同じく責任をとって切腹して果てた。

さらに、江戸幕府は鍋島藩主鍋島斎直に100日の幽閉を命じている。

その後も、周辺にイギリス船の出没が絶えなかったため、幕府は1825年(文政8年)「異国船打ちはらい」の命令を出すにいたった。

イギリスは1811年、インドから遠征軍を出して、ヴァタビア(現在のジャカルタ)を攻略、やがて東インド全域を実力支配するに至った。

鍋島藩は「フェートン号事件」を教訓として、その後、近代化に力を注ぎ、明治維新の頃には九州では、島津藩に次いで外敵に強い藩に生まれ変わっていた。

その後、隣国で「アヘン戦争」が勃発(1840年)したことを知り、長州は高杉晋作を清国に派遣して、具に事情を探索させている。

“備えあれば憂いなし”は古い言いならわしであるが、これこそが“温故知新”の精神である。

尖閣諸島で受けた侮辱を教訓に、野田民主党も覚悟を新たに、如何にすれば、国家の安泰を保持出来るかに心を致して欲しいものである。

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野田民主党は中国に遠慮するな!

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大手防衛産業会社の代表格である三菱重工業が何処からか“サイバー攻撃”を受けたと云う事件に関して、政府は9月下旬に、中国国内に、この発信元がある可能性が大きいとの見方から、中国政府に捜査協力を要請していたことが11月26日判明した。

この日本政府の要請を受け、中国側は“関係当局に連絡する”と返事したまま、既に2か月が経過したのに未だに放置している。

この件で、先日、アメリカは日本へのサイバー攻撃の発信元は青島付近であると発表している。

新聞報道では、来月の野田首相の訪中の際、この事件について、胡錦涛主席に直接質問することを日本政府が迷っていると報じている。

政府民主党は既に尖閣諸島事件でも中国に対して失策を犯し、今度の事件で相手に対し、曖昧な態度で追及することを避けたならば、今度こそ中国は、完全に日本の足元を見透かして、決定的に高圧的に接してくるであろう。

日本政府は、昨年9月、警察庁のサイトへ大量のデーターが送られてきた事件について、今年7月(10か月後)中国へ捜査の協力を依頼したが、同様に中国から黙殺されたままであるとの事。

本日(11/27)の京都新聞は、三菱重工、衆参両院、中央官庁に広がった、中国からのサイバー攻撃被害について、中国政府は一切の関与を否定していると書いている。

アメリカの諜報機関が断定し、日本政府が現実に受けたサイバー攻撃が中国からの発信に依るものと疑っている事件の捜査協力に応じない国、中国に、何故「親善訪問」しなければならないのだろう。

三菱重工に対するサイバー攻撃は、8月中旬に発覚、これにはウイルスを仕込んだ「標的型メール」を送りつけ、感染したコンピューターを通して情報を盗み出す手法だと関係者は断定している。

2008年の中国製毒入りギョーザ中毒事件では、何の理由か、彼等は捜査に協力したが、尖閣での漁船での暴行、最近での2度にわたる「サイバー攻撃」事件、これら全てが中国の我が国に及ぼした被害である。

来月の訪問で、何故彼らが我が国に非協力的」なのかを、野田主将が胡錦涛に直接聞くことを遠慮するくらいならば、今すぐにでも野田首相の訪問中止を外務省を通じて相手に通告すべきであると筆者は強調したい。

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珍種「ブータンのあげは蝶」

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黒色の羽に白の紋が入って、それぞれの羽の下部に赤い、丸い斑点があり、羽の先に三つの尾の様な羽突起がある、「ヒマラヤの貴婦人」の名で知られる世界で最も珍しい蝶の標本が先日、日本に国賓として訪れたブータン国王夫妻から国にお土産としてもたらされた。(写真)

つい先日、NHKの総合ニュースで、日本蝶類学会の専門チームが、この幻の蝶の生体を突き止めるために、ブータンを訪れて悪戦苦闘の末、この蝶と、蝶の卵を持ちかえった時のドキュメンタリーを見せてもらったばっかりだったので、国王夫妻がもたらしたものが如何に貴重なものかを知っていた。

「アゲハ蝶の白地図」(五十嵐 邁著、世界文化社)によると、この蝶が、イギリス人、リダデール博士(Lidderdale)が、1868年(明治元年)に現地で発見したことを述べている。(学名:Bhutanitis Liddeerdale

1890年、インドのダージリンから三つのグループからなる派遣隊が送られた。

第一グループは現地人に全装備の略奪にあい挫折、第二グループは熱病に罹って一人が死亡、第三グループは、虎に襲われて、結局この全ミッションは敗退したと云われる。

標高2000から2600メートルの高地に群れているこの蝶の捕獲は至難と思われていたところ、偶然に現地の警官が捕まえることに成功して、イギリスに持ち帰られたと云われている。

1891年のイギリス動物学会誌に紹介されて以来120年の間、この蝶の生態は未知のままであったところ、この度、日本の学術隊が最新技術を駆使して克明に記録、公表できたことは朗報である。

1864年から65年にイギリスは、ブータンと一戦を交えている。

結局この国は、インド内に領有していた土地や外交権をイギリスに譲渡の形で失い、以後ブータンは世界地図上から消されてしまった。

その後、何時頃から世界地図上に復活したかは知る所でない。

パックス・ブリタニカの時代の出来事で、英国はこの国に好意的な一瞥も与えることをしなかった理由として、ブータン人が口数が少なく、外地人に無愛想だったからだと云われている。(アゲハ蝶の白地図、196ページ参照)

この蝶は、標高1000メートルから2000メートルの高地にしか生息していない為に今まで捕獲できなかったと云うより、ブータンが永い間、「鎖国」に近い状態にあったことによるのではと筆者は考える。

インドと中国と云う大国に挟まれるようにある小国、ブータンとしては、なるべく外界との関係を絶って、自らの発展を望まなかったからではないだろうか?

この度のブータン国王夫妻の訪日によって、日本がブータンの平和的な自立維持と、近代独立国家としてのポジション確立に何らかの貢献が出来ることを希望するものである。

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日本の農業政策の特殊性

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我が国の教科書では“日本人は米を常食”とする民族だとか、“日本人の主食はコメ”と書かれているが、はたしてその通りだろうか?

主食と副食をわけて考えるのは日本人だけではないだろうか?

「米の消費量が急激に下がっている」、「我が国は米余りに困っている」のに、何故、国は国民に米農家を守る為に消費者に負担を強いるのか?

米、乳製品には高い輸入関税をかけ、米より遥かに生産規模が大きい野菜、果実の関税が低いことは、野菜や果物の関税を撤廃しても影響を受けないからである。

米に対する関税を世界の標準にまで下げても政府が心配するほど「外米」は入って来ないと筆者は考えている。

日本人の食に対する考え方は半世紀前とは大きく変わっている。全人口の何%が米なしでは生きていけないかを調査すべきだと考える。

もし、最近進歩した冷凍技術をもって、米を半永久的に保存できるならば、我が国のコメ事情は大きく変わるのではないだろうか?

米問題が解消して最も困るのは農家ではなく、これまでこれをメシの種にしてきた代議士だろう。

農業問題が貿易交渉で常に混乱するのは、我が国の特異な農業保護のやり方に原因がある。

政府が農家に補助金を交付する「財政負担」、消費者(国民)が安い国際価格ではなく、高い国内価格を農家に支払うことで農家を保護する「国民負担」(内外の価格差に生産量を掛けた額)のは無駄だと思われる。

政府は農家に永い間「減反」を要請しながら、それでも生産する農家対して何故交付金を出し、国民に無駄な“つけ”を押し付ける必要があるのだろうか?

米が無くなれば国が滅ぶと考えている為政者は、即刻考え方をなをすべきと筆者は思う。

“米がなくても日本は困らない”くらいに考えを変えるべきである!

今の日本人には、既に「主食」、「副食」の観念はない。

戦後、半世紀の内に我々は雑食人種に変貌した。殆どの若者は米の替わりに“ラーメン”を主食と考えるようになっているのではと思う程だ。

2006年の統計だが、農業保護の為の各国の負担は、米国が293億ドル、EUは1380億ドル、日本は407億ドル、その内の消費者負担では米国が17%、EUが45%に対し日本は88%である。

これで判ることは、日本の農業保護は殆どが国民負担で賄われていることである。

農業生産額に占める財政負担の割合は、米国の65%に比較して日本は27%と可なり低い。

日本の保護政策は財政ではなく価格で、特殊。

農家受取額に占める消費者負担も含めた農業保護の割合は、米国15%、EU33%に対し日本は55%である。

以上で判るように日本国民は、いわば、国家のいいなりになって苦しんでいるが、その間に、特殊な産業に従事している国民を必要以上に保護している事実に注目すべきだと筆者は思う次第。

(統計数字は独立行政法人:経済産業研究所調べによる)

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4面来油

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中国胡錦涛主席は、去る11月23日、北京でトルクメニスタンの大統領ベルドイムハメドフと会見した。

その目的は、今後中国が同国に投資拡大を約束する見返りとして、トルクメニスタンから現在の輸入量の2倍の天然ガス、650億立法メートルを購入すると云う内容である。

中国は最近、天然ガス輸送のパイプライン建設を急速に速めている。

新疆ウイグル自治区などを経由して既に広東省までの輸送施設が延伸され、来年までには同じ方法で、それを香港まで完成さようとしている。

11月24日に広東省でその貫通式が挙行され、それにトルメニスタンのベルドイムハメドフ大統領も出席している。

トルクメニスタンの天然ガス埋蔵量は世界第4番目の量で、この交渉の妥結によち、今後、中国は、天然ガスの対ロ依存態勢から抜け出せると考えているとみられる。

今年の中国国内総消費量見込みが約1300億立方なので、今回のトルクメニスタンとの交渉が実現すれば、今後、その50%のエネルギーが確保されると云うことになる。

中国は米国主導の「中国包囲網」による資源の枯渇を恐れている。

西で国境を接しているトルクメニスタンからのエンルギーの大量確保(50%)は中国にとって、” very good news”と言える。

このほか、中国はカザフスタン、ウズベキスタンからも、それぞれ年間100億立法超の天然ガスを輸送する計画であるとのこと。

「四面来油」(4方面から石油をもたらす)と云う触れ込みで、03年頃から中国は、エネルギー戦略を打ち立て、南東からの海上ルート、南西からはミャンマー経由、北からロシア、西からは中央アジア諸国と云うように、正に4方面からのエネルギー確保に努力を重ねて、今日に至っている。

これまで、天然資源は完全に「白人連邦」の支配下にあったことは確かな事実。

我が国が不本意ながら第二次世界戦争を開始せざるを得なくなった事例を具に検証していた中国の世界を直視した現実路線には脱帽せざるを得ない。

最近、南、東シナ海での領有権問題の根差すところは、領土問題よりも資源の確保が重視されている。

海底の掘削に無駄な投資をすることよりも、何処からも邪魔されることなく、中国の勢力圏、新疆ウイグル自治領に隣接する上記3国から、直接パイプラインで、将来にわたり国家消費量の半分にあたるエネルギーが確保できると云う話題は、中国にとって、たとえ話を半分に考えても捨てがたい朗報であると思考する。(11月28日、産経新聞)

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タバスコ(tabasco)

Tabasco_gallon_bottleタバスコ大瓶)

「タバスコ」は最近我が国でもピザやスパッゲティーもしくは、目玉焼きタマゴに振りかけて楽しむ人も多くなった、戦前では馴染みの薄い調味料であった。

白い菱形のラベルの上に緑色の文字、赤唐辛子と酢の混じった独特の香りと、ピリカラの赤いソースはメキシコ原産と思いがちだが、実は、これがアメリカ南部、ルイジアナ州の商品なのである。

南北戦争で北軍がニューオーリンズに侵入してきた1862年、銀行家、エドモンド・マックレニー一家は、郊外ケジャン郡のエーヴリー・アイランドに非難した。

マックレニーはその場所が岩塩の丘であることを偶然発見した。

当時、塩は食肉の貯蔵に必要だったので南軍がそれを使っていたが、やがてそこは北軍に占領されて、マックレニー一家はテキサスに逃れた。

戦後、そこに戻ってみると、荒れ果てた我が家の庭に以前友人から贈られた唐辛子が実を付けていた。

エドモンドはそれら唐辛子の実に塩を振りかけ、酢と麦芽汁を加えて、暫く熟成させることとした。

出来上がった赤い汁をオーデコロンの瓶に詰めて、最初、知り合い達に配ったところ、それが次第に珍味として評判が良かったので、彼はそれをメキシコの地名をとって「タバスコ」(Tabasco)と命名した。

マックレニー会社(Mcllhenny Company of Avery Island.Lousiana)は1868年、商標登録を得て目出度く門出した。

エドモンドは1890年他界したが、それから、代々、そのビジネスはマックレニー家内で継承されている。(現在の当主は6代目)

間もなく近くまでサザン・パシフィック鉄道が、岩塩輸送の為に敷設され、タバスコもその恩恵に浴して販路を広め、その後家業はますます繁栄し、今ではタバスコは世界各地で見られるようになった。

有名になったタバスコ・ソースは世界各地から買収の引き合いがあったにも関わらず一家は伝統を守りつつ繁栄している。(生産量:年間約5000万本)

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プーチン、21世紀のナポレオン?

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ロシアの中高年層の間では、何故かソ連ブレジネフ書記長時代(1964年以後)を庶民の黄金の時代とじて記憶しているらしい。

「プラハの春」を潰したチェコへの軍事介入、「アフガニスタンへの進攻」等、西側国の庶民から見れば、それは、ソ連が欧州諸国を苦しめた暗黒時代であったように考えがちな頃であった。

丁度、アメリカがヴェトナムに干渉し攻勢を開始した、1965~1975年の約10年で、確かにソ連側の人々にしてみれば、宿敵のアメリカからの如何なる干渉も心配なくいられた平和な時代であったのだろう。

少なくとも、その間の初めころまでは、ロシア人達は貧しいながらも充分な幸せを味わったと記憶に残る人が多かったと思われる。

ウラジミール・プーチンは1952年生まれで、その頃は10~20歳までの少年であった。その間プーチンは「団地のガキ大将」(噂)として、ソ連の“良い環境”にすくすくと大きく成長したと思われる。

驚くべきことに、プーチン(以下、P)は映画や小説からスパイになることに憧れていた。

中学3年生の頃、彼は、自らソ連国家保安委員会(KGB)支部を訪れ、どうすればそこに就職できるかを尋ねた。

その時に、KGB職員から聞いたことを守って、大学卒業と同時にKGBに就職、ソ連の共産党員となった。

従って、Pは生え抜きの「職業スパイ」と云ってよく、不思議にも、東西ドイツ統一の年、1990年には母校のレニングラード大学の学長補佐官になっていた。(38歳)

その年、大学時代の恩師、サブチャーク氏に合い、何が起こったのかは判らないが、Pは、突然KGBに辞表を提出して、レニングラード市ソヴィエト議長をしていたサブチャーク氏の国際関係担当顧問となった。

その翌年の1991年、6月にサンクトペテルブルク(レニングラードから改名)の市長に当選すると、Pは同市の海外関係委員会議長に就任、その翌年、同市副市長、1994年3月に同市の第一副市長となり、主に外国企業のロシア誘致に貢献「灰色の枢機卿」とよばれるようになる。

1996年にはモスクワに移動、ロシア大統領府総務局次長の職を得て、主に法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当した。

1977年3月にはロシア大統領府副長官兼監督総務局長に就いた。

1998年、Pはロシア大統領府第一副長官に就き、地方行政を担当して、地方知事との連絡役として活躍。同年7月に、KGBの後身であるロシア連邦保安庁{FSB}長官となった。

これで、彼はその道の専門家として、その頃、ボリス・エリチン大統領のマネーロンダリング疑惑を捜査していたスクラトフ検事総長を女性スキャンダルに絡めて失脚させ、当時の首相プリマコフが計画していたエリチン追い落としのクーデターを未然に防ぎ、エリチンの信頼を勝ち取った。

Pは運動感覚に優れ、決断力にも非凡なものをもっている政治家である。

少年の頃から職業スパイを志していたと云う事実には驚くほかはない。

筆者は今後もプーチンの動向を見守って行きたいと思っている。

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作家、吉村昭と「三陸沖津波」

人気作家津村節子氏の夫君、吉村昭氏(1927~2006)は、ノンフィクション作家として有名で、特に戦争もの、「戦艦武蔵」「零式戦闘機」、「陸奥爆沈」の著者として知られる。

その吉村氏が、昭和40年(1965年)即ち、今から46年前に、処女作とも云うべき「星への旅」を発表して太宰治賞を受賞している。

最近、筆者は吉村氏の絶筆となった「ひとり旅」を通読して、三陸沖に、度々押し寄せる津波が如何にスケールの大きいものであるかを知らされた。

この作家が、昭和40年(1960)に依頼されて書き記した三陸沖津波の記録小説”海の壁”を書くことを決心したいきさつを「ひとり旅」で述べている。

岩手県三陸海岸の田野畑村に最初に訪れた理由は、同村の出身者であった渡辺耕平氏の誘いがあったからである。(故人)

何故渡辺氏が吉村氏に誘いをかけたのかと云えば、そこを昭和8年に襲った恐ろしい津波の生き証人として、事情を吉村氏に伝えて後世への記録として残して置きたかったからであったと想像する。

吉村氏は、最初はあまり気乗りはしなかったらしいが、東京から汽車を乗り継いで訪れた場所の光景は、まさに魅力的で、海に迫る断崖は日本屈指と云われているだけあって、その時、目にした海の色とともに強烈な印象を受けたと書いている。

そこまで行く工程は、何回もバスを乗り継いで行かなければならないところらしいが、海岸線を走るバスの窓から防波堤として造られた鉄筋コンクリートの壁が永い距離続いているのを見たことも書いている。

吉村氏がそこで聞いた話は、津波の当日、渡辺氏らが裏山に逃避したのだが、ふと振り返ると、すでに津波が2階の屋根の上に白い波を立てていた様子が見えたと云う。

その時、旅館の女主人からは、津波の来襲前、海水が急激に沖に向かって引き始め、広々とした海底が露出した。そこで彼女の思ったのは海藻が目の前で広がって行く様を想像したが、海底は茶色い岩だらけで異様に感じたという彼女の説明に吉村氏は、それを生々しい回想と感じ、胸に響くものがり、これまでこのような大津波のことを書きしるした作例もなかったことから、徹底的に調査して書き残したい気持になったと記述している

何回も現場に通いつめて書き上げたものを最初「海の壁」として発表したが、それが現在「三陸海岸大津波」と改められて文春文庫に納められている。

2001年、吉村氏は要請を受け、田野畑村の羅賀と云うホテルで、調査資料を持参、明治29年と昭和8年に、この地を襲った大津波の悲惨な事件の講演をした。

その時、多くの聴衆が訪れたが、当時でも(10年前)既に昭和8年の津波を実見した記憶のある人は稀だったと吉村氏は「ひとり旅」(p.35)に書いている。

生き証人として、その時、明治29年の津波の事情を教えてくれた85歳の中村丹蔵氏の語った事は、海面から50メートルの処にあった住み家の床下まで轟音とともに海水が押し寄せたので驚いたと云うことであったらしい。

そこで講演者の吉村氏が羅賀の10階建のホテルは海面から35メートルだが、もし再びそのような津波が来れば、これを津波が超えて来るのではと指摘したところ、これを聞いていた聴衆は一様に顔をこわばらせ、一斉に窓の外に広がる海をながめていたと書いている。

今年三月の東日本を襲った津波の高さが“想定外”であったと新聞までが報じているが、吉村昭氏は既に10年前に、この地方に、過去100年に2度も今回の津波の規模に勝るとも劣らない事例があったことをドキュメントとして書きしるしていることに関係各位が心を致していれば、そんな「想定外」と云うコメントは出来るなずがないと思うのだが。

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新聞の将来

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筆者はかねがね一度購読を始めたら止めることが難しい我が国の新聞販売のシステムに疑問をもつものである。

我が家で地域のニュースを知るために地方新聞一部だけの継続購読はしているが、その他は必要に応じて散歩をかねてコンビニ等で買うこととしている。

そこで、どれほどの人口が定期的に宅配される新聞を読んんでいるかを調べるために「グーグル」でサーチした。

そこで目についたのが~あなたにできること~の触れ込みで「新聞は定期購読しない」と云うコラム発表を見たのでここに紹介したい。

―お断りしておくが、一部は上に述べたコラムからの引き写しであるので、異論のある場合は「グーグル」に質問をお願したいー

“アメリカの全国紙「USA TODAY」は、全部数の約8割が即売。一方、日本の新聞は月極め宅配が主体で、即売はせいぜい5%。比較的多い日経でも約8%に過ぎず、圧倒的に定期購読の宅配契約者が新聞社を支えている事が

判る。”

つまり「既得権構造の維持」を許しているのは一般人であって、各新聞社は、最低の努力で、ジャーナリズムの名のもとに、平気でその既得権上に胡坐をかいていることが判る。

常に、平気で談合を繰り返し、カルテルと云われても仕方がない、「各社同時休刊、同時値上げ」に対して、政治も文句をつけられない横暴組織「新聞業会」に誰がしてしまったのだろうか?

今や「ニュース」は誰でも無料でインターネットとを通して入手できる時代になっている。

現に“若年層の単身者のうち、約6割が新聞に見向きもしない生活を送っていると云う”

「成年層と新聞」(新聞協会が96年末に実施したアンケート調査のまとめ)によると、18~35歳単身者の40.1%は一度も新聞購読未経験者、5年以上前から新聞をとっていない人も19.5%いた。”その中にあって、テレビ欄以外に目をとめない人が大半いるらしいとのこと。

サラリーマンなら出社して、パソコンでニュースを閲覧、ついでにスポーツ欄に目を通すと、早朝に発生した事件や国際的ニュースの知識までが得られる。

(新聞では、午前3時以後に発生した出来事は掲載されない)

日経、読売、朝日、毎日、産経等のニュースともども、全て“ヤフー”や“グーグル”で閲覧できる。

地方新聞には、それぞれの地方でしか判らない出来事が見られる。

大新聞にしても国際的なニュース・ソースは略「共同」や「ロイター」等の外国の情報に頼っているのが偽らざる現状であれば、稀に起こるような一大スクープ・ニュース以外に期待できるこては限られている。

それに引き換え、筆者が興味をもっているのは「各種業界新聞」であるが、これは公に売られていない。

知識豊富な論説委員を抱えている新聞社がまとめた「社説」でも、今ではネット上で読めるならば、益々、一般新聞の存在価値は薄くなるばかりであろう。

我が国では、何処かの国のように、むやみに報道管制を敷いていないことは事実だが、どれを読んでも変わり映えのしない日本の新聞には反省すべき点が多いように思われる。

しかし、毎朝見る新聞報道は、それぞれが「歴史」であり、そこに書かれた物事は永久に残ると思う。従って「故事」についての知識を紹介した記事には筆者は興味を持っている。

我が国の新聞業が殆ど宅配定期購読者に依存していることが事実である以上、今後進行する“ペーパーレス”時代に如何に対処するかは重大問題である。

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日本の外交を問う

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本日(平成231117日)の主要各紙は一斉にアメリカ海兵隊が今後、オーストラリアに駐留することで両国が意見の一致をみたことを報じている。

その目的は「海洋覇権」で中国の脅威に対抗するためとの理由だが、これは正に、アメリカの考え方が100年前に戻ったと思っても間違いがないと筆者は直感した。

黄禍論の起源がオーストラリアであったことを我々は忘れるべきでない。

19世紀末、ドイツのウイルヘルム2世が、このことに声を挙げて、アメリカ世論」も次第に排日に傾斜していった。

日露戦争終結直後の1906年、アメリカ大統領テェオドール・ルーズヴェルトは、日本に今後、移民を送らないことを要請、それに基づいて、1908年11月、エルフ・ルート国務長官と高平駐米大使との間で合意がなされた、所謂「Root-takahira Agreement」の意味を思いなおす必要がある。

そもそも、何故、日露講和会談がニューハンプシャー州の軍港ポートマス(Portsmouth)で行われたか、また、何故、1907年にはアメリカの大艦隊が我が国にデモンストレーションに訪れたのか?

考えるまでもなく、これはすべて日本への牽制であって、日本攻略を目的とした「オレンジ作戦」(war Plan Orange)は、早くも1908年までに海軍提督マハンを中心にして始まっている。

これも、すべてとは言わないまでも、講和会議から帰国した小村寿太郎が弁護士であった国務長官ルートの顧客であった、鉄道王、ハリマンの満州における鉄道敷設計画を一蹴した失敗から始まったと言っても過言ではない。

それまで柔軟であったルーズヴェルトの感情が一気に「反日」にかわった。

ここにきて始めて、アメリカが日本に友好でないことに気づき、1908年、林薫外務大臣とオブライエン駐日大使との間で「日米紳士協定」-(gentlemen’s Agreement)なるものが成立した。

この当時,誰の発案かは判らないが、アメリカ社会には「ジェントルマン」なるステータスが存在しないことを知らない官僚か、政治家が言い出したものと思われる。

アメリカでは、何処を探してもイギリスのように「紳士」は存在しない!

その名称が如何にも“奇抜”で滑稽で、面白いと思ったのか、アメリカ政府はその後、その名称を敢えて訂正しないで放置させている。

(この一例を見ても、日本は昔から世界の事情に疎いことが判る。)

アメリカが今後、オーストラリア、グアム、ミッドウエイ、或いは、フィリッピンの線で防衛線設置を思考し始めたとすれば日本政府はどのように考えるべきなのか?

又は、本当に日本は、アメリカの後ろ盾なしに、中国、ロシア等と武力的に対峙するつもりなのか、改めて真剣に考えるべき時は迫っていると思う。

どんな事があっても沖縄軍事基地からアメリカを排除すべきではないし、民主党政権は、「東日本震災事後処理」にかまけていないで、政府督励で沖縄県を説得して、日米安保を強化することを最優先すべきだと思う。

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「オズの魔法使い」

The_1st_edition_of_wonderful_wizard 初版本の表紙

「オズの魔法使い」の原作を知らない誰もが,必ず一度は聞いたことがある歌は、日本名“虹の彼方”(somewhere over the rainbow)ではないかと想像するが、この歌は最近、「20世紀最高のソング」に指名された。

これは、ハロルド・アーレン(Harold Arlen,1905-1986)の作曲になるものである。かれは実に多くの(400曲)以上の歌を作曲している、アメリカの有名な作曲家だが、ジュディー・ガーランド主演のMGM映画{1939年}“オズの魔法使い”のテーマソングである「虹の彼方」が最も有名である

その他にアーレン作曲で広く知られているものには、“It’s only a paper Moon”或いは”Stormy Weather”等がある。

オズの魔法使いは,

フランク・バウム(Frank Baum,)が1900年に愛妻、マウド(Maud Gage Baum)に捧げるとして書かれ、デンスロー(W.W. Denslow)の挿絵とともに,シカゴのジョージ・ヒル社(George M. Hill Company)から出版された絵本である。

時々、童話本のオークションに出たこの初版本の値段を見ると、3000-4000ドルの値段がつくのに驚かされる。(写真)

これは1902年に上演され、ロング・ランとなったが、前述したように、1939年に映画化されて、さらに広く知られるようになった。

話の筋は、或日、カンサス州の農家に住んでいた少女、ドロシーが竜巻に巻き込まれ、オズの国まで吹き飛ばされ、そこでいろいろな変なキャラクター達に廻り遭う。

脳ミソがない為に馬鹿にされている案山子(知恵)、ブリキでできている為、心臓(愛)がない樵(キコリ)、臆病で勇気(力)が欲しいライオンと、ともに、願いを叶えてくれる魔法使いが住むと云うエメラルドの都まで旅をする。魔法使いの嘘を見抜き、3人の仲間が、皆で力を合わせて困難を乗り越え、ドロシーはカンサスに還り付くと云う子供の夢をかきたてる童話。

我が国では楽団「四季」が上演したことがあったと筆者は記憶している。

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団体旅行の先駆け「トーマス・クック」

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団体旅行(pack tour)は今では当たり前で、日本の海外旅行の大半はこの団体旅行が殆どと云っても過言ではない。

戦後、我が国で外貨が自由化されるまでは「旅行小切手」(traveler’s check)が盛んに使用されたが、クレディット・カードと世界ネット化が進んで、今では使われることが少なくなった。

このtraveler’s checkであるが、ヨーロッパでの起源は18世紀末(1772年)とされているが、これを大々的に世界に広めたのは、団体旅行の創始者と云われるトーマス・クック(Thomas Cook,1808-1892)であった。

トーマス・クック社は現在でも世界指折りの旅行会社であるが、そもそも“旅行業”なる職業はクック以前には殆ど存在していなかった。

トーマス・クック社は、産業革命の進展、大英帝国の形成過程で、19世紀前半にイギリス国内における鉄道発展を転機として生まれた産業と言える。

クックの旅客企画業の端緒となった1841年の団体旅行は、同年7月、彼が偶然企画した「禁酒運動大会」に、一人でも多くの参加者を集める為に主宰した特殊な団体旅行の結果であった。

トーマスは4歳の時、父親が他界したが、バプティスト派の牧師の娘であった母親の影響で彼は敬虔なクリスチャンとして育てられた。

最初の旅行企画が大成功を収めた丁度、10年後、クックは大英帝国の栄華を世界に示した、1851年のロンドン万博(クリスタル・パレス)行きの為の団体旅行を企画するチャンスに巡りあった。

ここで彼は、出発から帰還までの交通手段、旅先での宿泊施設、名所旧跡の見学コースやイヴェント参加のアレンジと予約まで、あらゆる手続きのすべてを請け負い、旅行参加者の手を一切煩わすことなく、安全な旅行が遂行できるように準備を整え、今日呼ばれる“パック・ツアー”の先駆けとなった。

産業革命のおとし子と呼ばれる蒸気機関車、蒸気船を利用、裕福となったイギリスの中産階級を客に取り込み、当初から鉄道料金を割引して、このころまで富裕層のみに独占されていた「豪華な海外旅行」を大衆のものとすることに努力した。

それまで家庭的でしとやかなことが理想と看做されていたヴィクトリア朝の女性にも、この形の旅行は人気を呼び、クック社が企画した旅行には単身の女性の間にブームを呼ぶこととなった。

それ以後、イタリア、フランス、オランダ、スイスなどのヨーロッパ諸国、又は、合衆国。パレスティナやエジプトとパックス・ブリタニカの波にのって文字通り、地球の七つの海の彼方までクック社の企画による「団体旅行」はとどまるところを知らないように広がって行った。

イギリスの中産階級、労働者階級の相対的な富裕化と余暇の過ごし方に変化を起こしたクックの貢献は偉大である。

クックは次第に競合する同業者や鉄道、船会社に対抗して、大々的な宣伝やクーポン券を発行し、後には独自にホテル業にも進出した。

トーマス・クックの旅行券(traveler’s check)も、その過程で生まれたアイディアーで、期限なしに永久に有効(但し、無利息)で、旅行中の紛失にも保険付きであることで人気商品となった。

ジェット飛行機の時代となり、今では世界旅行は、なんら珍しくも無くなったが、1世紀以前では平民にとって、海外旅行、は正に“一生に一度”の催しであったに違いない。

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胡錦濤と光沢民の今後?

Photo 上海万博跡地

7月に危篤が伝えられた中国の江沢民前国家主席(85)が、元気そうな姿を現した。北京の人民大会堂の中国の辛亥革命100年を記念する式典に、手を振りながら自ら歩いて壇上に登場。付き添いの助けを借りながらも、胡錦濤国家主席の隣に座り、健在を示した。

 江氏は7月1日の中国共産党創立90周年の式典を欠席した際は死亡説も飛び交った。中国国営新華社通信は「全くの流言にすぎない」と否定したが、複数の中国筋や外交筋は危篤に陥ったとしていた。

 江氏は式典で、隣の温家宝首相と言葉を交わし、手元の資料をめくるなどのしぐさを見せた。胡主席の演説が終わると小さく拍手も。座ったままで胡主席と握手をした後、付添人に支えられながらゆっくりと立ち上がり、会場に向かって再び右手を振ってみせた。(以上Asahi Newsより抜粋))

江沢民氏は上海出身、従って昨年の「上海万博」開催には多大な影響力を行使したであろうことは明らかだが、7300万人の入場者を集めたこの万博の跡地328ヘクタールの広大な敷地のうち恒久施設として残された中国館などを除いて、閉館から既に1年が過ぎた現在でも数十と云うパヴィリオンがそのまま放置されている状態と云う。

最初の政府の見積もりでは、跡地の使用権を売れば、2000億元(約2兆4000億円)の収入が見込まれていたらしい。

この用地の造成には、約1万8000所帯の住宅の他、数多の工場を安い補償金で強制的に退去させて確保された歴史がある。

最初の計画では、5つの恒久施設を残して、他を解体、今年の6月に跡地計画をまとめ、再開発に取り掛かる予定であった。

パヴィリオンの解体費用支払いを惜しんだ出店者達が中国政府に寄贈を申し出たことで当初の予算に狂いが生じ、駐車場、遊園地を残した広大な敷地が建物とも”ゴーストタウン“になり果てている状態と云われている。(写真)

この場所に進出が決まっているのは、鉄鋼大手の宝鋼集団他国有企業13社と、上海市関係の4つのホテルの建設計画のみ。

決まっていることは、民間や外資への売却、土地使用権はお断りと云うことである。

既に地下鉄や道路などインフラが整備済み、内外からの関心も多いことだろうが、ここで問題視されている隠れた事情とは、既に開始以前から始まっている北京(政府)と上海の当局者間の対立と云われる。

跡地の売却で得られる巨額の利益の配分の行方を見届けるべく元気な姿でお目見えした江沢民。

これから何が起こるか、胡錦涛と江沢民との間でどんな勢力闘争が始まるのだろうか?

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「インクライン」と運河

Photo Photo_2 上:京都のインクライン、下:アメリカのインクライン

我が国では、江戸時代初期の慶長年間に京都から大阪に木材など大きい重量の物資を運ぶ為に角倉了以(1554~1614)によって「高瀬川運河」が施工されたことは有名である。

19世紀初頭までは、アメリカでは輸送機関の主力は未だ馬車であったが、輸送費がかさむため、考え出されたのが「運河」の利用であった。

ニューヨーク市、マンハッタン島西岸を流れるハドソン川を使って、上流のオーバニー(Albany)に蒸気船を走らせたのはロバート・フルトン(Robert Fulton1765-1815)であった(1805

1825年、にはオーバニーとエリー湖畔のバッファロー間、582キロのエリー運河が完成した。(これは当時の最長の運河の13倍の距離で、それまで20日の輸送が5日に短縮されたと云われている)

その頃では、蒸気機関はすでに発明されていたが、陸路を走る鉄道は線路上の貨車を馬が引く鉄道であった。従ってイギリスに於いて、その頃実用段階にあった蒸気機関車に最も関心を寄せたのは運河会社であった。(Delaware & Hudson Canal Co.,

京都の姉妹都市のボストンにビーコン・ヒル(Beacon Hill)と呼ばれている丘がある。鉄道が世に出る以前には木製のレールが使われていた。ビーコン・ヒルでは、その昔、丘の頂上にかまどがあって、煉瓦や陶磁器が焼かれていた。原料や製品を馬車で運ぶに際して、木製のレールが使われたと云われている。

筆者は偶然であったが、その輸送手段として”incline”の名称の線路が使われていたと云う事実を知った。(写真)

恥ずかしながら、筆者は今まで“インクライン”(incline)が正式な線路に使われる術語とは思っていなかった。

急な斜面に敷かれた鉄道のことを英米ではしばしばinclineと呼ばれるとの

ことである。

インクラインは特に鉱山に多く使用されていた。山上の採鉱現場から、斜面に沿って麓まで軌道が敷設される。頂上にはロープを巻いたドラムがあり、ロープの一端を鉱石を積んで下降する車両に、そして他のロープの端を丘を登る空車に連結する。それで下りの貨車は自重でインクラインを下りると同時に空の貨車を山上に引き上げる。即ち重力を動力としたケーブル鉄道こそ「インクライン」の仕掛けだと判った次第。

1890年(明治23年)に京都で完成を見た琵琶湖疏水工事(運河)とあわせてインクライン(incline)がお目見えした。それと同時に、我が国最初の水力発所が完成。この出来事は現在から見ても正に世界的な特筆すべき我が国の世界に誇れる土木事業であったことと思っている。

インクライン設備の残っているBeacon Hillはボストン郊外の美しい町で18世紀では裕福な市民の住むファッショナブルな町として有名である。特に”State House”は歴史的建造物として有名である。

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アメリカ最初の百万長者

220pxjohn_jacob_astor John Jacob Astor

ジョン・ジェーコブ・アスター(John Jacob Astor,1763-1848)はドイツ系の移民でアメリカ独立戦争後、五大湖からカナダ地方、又は,アメリカ西海岸(オレゴン)に及ぶ地帯に狩猟場を持ち、その頃、輸出の花形であったラッコの毛皮の貿易で財をなした最初のアメリカ人である。

         

彼はドイツのハイデルベルグ近郊のヲールドーフ(waldorf)生まれの肉屋の息子で、1779年、16歳の時ロンドンにわたり、英語を学びながら兄、ジョージ・アスターの楽器工場で働いた。

アメリカに渡ったのは、アメリカ独立戦争直後の1784年で、すぐさま彼はアメリカ先住民との間で獣皮の商売を開始、10年以内にはニューヨークに、その頃シルクハットの縫製に欠かせないラッコ皮革の専門店を開店した。

1785年、彼はサラ・トッド(Sarah Todd)と結婚、1794年、カナダ、モントリオールのノースウエスト会社と組んで、ロンドンとの貿易を開始、その後、中国にも皮革を輸出、その見返りに中国、広東から茶や陶磁器を輸入して最初の財(約25万ドル)を築いた。

エンプレス・チャイナ(Empress China)号を仕立てて太平洋を往復、東洋との交易の先駆者的存在となった。

19世紀初期に、その後、“オレゴン・トレイル”となったロッキー山脈超えのルートを開き、オレゴン州に「アストリア砦」を築いて、西部地方での毛皮取引の拠点を打ち立てた。

1812年戦争中、イギリスの西部進出を逃れてアストリアを放棄、一時アヘン貿易に手を染め、トルコ製のアヘンを自社の持ち船“マセドニアン”を使って広東に運んで大儲けをしたと云われている。

1822年以後、アスターはミシガン湖のマキナック島(Mackinac Island)にヘッドコーターを築き、そこに全商品を集約して、そこから世界の各地に毛皮を搬送した。

それより先、1804年には、アスターは当時、第3代アメリカ大統領、トーマス・ジェファーソン政権の副大統領の職にあった、アーロン・バー(Aaron Burr,,1756-1836)から6万2500ドルでマンハッタン島の広大な土地の99年間の使用権を手に入れた。

(アーロン・バーはその後、財務大臣の職にあった、アレキサンダー・ハミルトンに決闘を挑んで殺害した(1804年7月)ことで裁判で有罪となり放逐された。)

アスターはこの取引で得た土地を他人にリースしながら蓄財を重ね、毛皮貿易で得た資産をも投入して、将来性のあるマンハッタン島を中心としたニューヨークの一大地主となった。

1830年代に於いて、アスターは、続々と波のように押し寄せるて来る移民を眺めながら、やがて、ニューヨークが世界の商業の中心都市となることを確信、マンハッタン島を中心にした土地の買収に心血を注いだ。

アスターは、決して自己所有地に建物建てることをせず、常に土地をリースして使用させることに終始した。

彼が死を迎えた1848年頃には、彼の資産は2000万ドルを超える程となっていたと云われている。(206年換算:約1兆1010億ドル、グーグル調べ)

彼は遺贈として40万ドルをニューヨーク公立図書館(New York Public Library at 42nd St.,5th Avenue)建設に寄付、その他、多くのチャリティー事業に寄付を行っている。

アスター家の事業として最も有名なものの中には、超豪華ホテル:ウードロフ・アストリア ホテル(The Waldorf-Astoria Hotel)が挙げられる。

それは最初、5番街34丁目にあったが、1931年エンパイアー・ステーツ・ビルディングがその地に建設されることとなり、従って、ホテルはその後、パーク・アヴェニューに移転した。

ジェーコブは生前から、“アメリカの鳥”の画家として有名な、ジェームス・オーデュボンや、文豪、エドガー・アラン・ポーの後援者として知られている。

ジョン・ジェーコブ・アスターこそ、アメリカで最初に所謂、100万長者と呼ばれる人物であった。

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オークション制度のに関しての一考

本日(11/11/2011)複数の新聞報道で、東京の神田、東京古典会古典籍展観大入札会(東京古書会館)にて伊能忠敬作「伊豆7島図」と信長の妹のお市の書簡が競売にかかることが報じられている。

我が国では、古書や、一般の古物を売り買いするには警察発行の古物商鑑札が必要で、鑑札を持たない素人は参加出来ないこととなっている。

我が国では、欧米のように資格がなくとも一般人がこのようなオークションで売り買いが出来ないことを知っているひとはあまり多くない。

古物の売買を警察の管理下に置くこと自体、文明国では珍しいことであるが、未だこれの是非が国会で問題になったことを知らない。

その一つの理由は、業者の「故買」を警察が管理しやすいように統制する為であると筆者は解釈している。

云わばオークションでの落札価格は古物商の原価であり、これを公にすることに難色を唱える人も少なくないからである。

しかし、古物商が入札会で買い入れた商品を転売して利益を得たとしても、これの真贋には売り手が責任を持たなければならない。

「故買」とは盗品と知りながら商品を客に売りつける行為を云う。

贋作や盗難品と知りながら、あえてそれらを顧客に売りつける行為を取り締まるのが警察なのである。

反面、バブルの最盛期の頃、欧米のオークションで大枚をはたいて購入したゴッホのひまわり図が、結局は贋作と判明しても、これは購入者の責任であって、オークション・ハウスの責任とはならない。

今回の古書籍入札会で競売される伊能忠敬の伊豆7島図は、これまで“伊能中図”とよばれているもので、(縦149.3センチx横47.3センチ)測量下図を正確に写す際にできる針穴が多数残っていることから考慮してこれが伊能測量隊の制作になるものに疑いは少ないとの新聞報道である。

これは伊能忠敬研究の第一人者である大谷亮吉氏旧蔵であったらしい。

1815年(文化12)秋、伊能が熱海に滞在中、八丈島や三宅島など伊豆7島を実測、内陸部まで詳細な地名や地形が書き込まれた大図(伊能忠敬記念館蔵、国宝)の下絵ではないかとも考えられる。(信ぴょう性大)

これと同時に競売にかけられる織田信長の妹、お市の方(江の母堂)の書状について愛知県の古書の専門家のコメントが報道されているが、お市書状の極め付きの材料が皆無の状態では、これを真作とする決め手に欠ける。

この道の経験者である筆者としては、これら上記2作例を真剣に所望される方は購入に際しては、その道の「学者」の意見よりも、玄人の経験を重視して、差し値を提示、注文されるべきと考える。

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問われる中国の安全基準

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現在進行中の中国鉄道建設の9割にわたる1万キロ相当部分の工事が止まっているとのニュース(産経、10/30)。

7月の浙江省温州で起こった高速鉄道衝突事故の影響で自転車操業の状態にあった鉄道省の資金繰りが急速に悪化していると云う。

中国紙中華時報(電子版)では、出稼ぎ労働者約300万人が雇用契約打ち切り、給料未払いで問題が噴出し抗議運動⇒社会不安が懸念されている。

高速鉄道事故後、安全検査、工事見直しで当初の建設計画がスムースに進行しなくなったことが主な原因。

上海⇒昆明、石家荘⇒武漢、アモイ⇒深圳、貴陽⇒広州、南京⇒広州など多くの高速鉄道の建設現場で工事中止となっている。

鉄道省から鉄道建設大手2社への支払い分、1300億元(約1兆5600億円)超が宙に浮いたままの為各地での賃金支払い、3~6カ月分が未払いの状態らしい。

工事の中止がこれ以上続けば社会問題にもなりかねない。需要の予測を完全に無視した永年にわたる過大な建設強行がたたり、今年6月末には鉄道省の負債は5年前の3倍に当たる約2兆900億元(約25兆円)になっている。

それとは別に、もっと恐ろしい事態が明らかになりつつある。

それと云うのは、政府が資格審査をせずに建設業者の選定を行っていることである。

東方早報(中国紙)等の報道によると、吉林省内で23億元の予算で進行中の鉄道工事、全長74キロで集う橋梁の一部土台に規定されていた量ノコンクリートを大幅に省略して中に大小の石を詰め込んだ、所謂手抜き工事が発覚した。

これには橋梁工事の経験もない、元料理コックら出稼ぎ労働者の集団が関係していたと云う報道がなされている。

元コックはは江西省の建設業者をかたって孫請けで契約、10数人の労働者を雇って橋梁工事を行っていたと云う普通では想像も出来ない事。

今年になり当局の調査で強度不足が発覚。調査の結果、請け負った会社は、元コックらに同社の印鑑を偽造され書類が偽造された告白しているが、何処までが真実かは全く不明。

中国では過去4年間で総延長1万キロ超の路線を完成させたが、その安全管理の基本が建設作業に追い付いていない実情が事を追うごとに明白になりつつある。

そうかと思えば、今朝の報道では、中国は100%国産の有人宇宙ステーション打ち上げが成功しつつあると報じている。

中国と云う国家の実情に関して、何処までが本当で、何処までがごまやかし、インチキ模造なのか、判定に苦しむと疑うのは決して筆者だけではないと思う。

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