« 野田民主党は中国に遠慮するな! | トップページ | 中国の脅威的宇宙開発 »

フェートン号事件

Photo_2

「温故知新」の戒めとして、我々は、寛政の世に生きて、仙台藩に国是に刃向かった廉で禁固刑を受け、そのまま死んでいった、林子平(ハヤシ・シヘイ、1738~1793年)の教訓を21世紀に再び学ぶ必要を感じる。

林は、高山彦九郎、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」として知られ、別号を「六無斎主人」と云った。

その由来は、林が晩年、蟄居中に“親もなし、妻なし子なし、版木なし、金もなけれど死にたくもなし”と云う遺文を残して死んだところから由来している。

林は生前、全国を行脚して悟るところあり、外敵に備える必要を説く為、自費出版で、「三国通覧図説」「海国兵談」「富国策」などを著して、我が国の外敵に備える必要性を説いたが、仙台藩には取り入れられるどころか、逆に危険分子として捉えられ、無念うちに一生を閉じた偉人であった。

林子平の没後、15年後の文化5年8月(西暦では10月)、長崎で大事件が起こった。

それが世に云う「フェートン号事件」である。

イギリスが、ナポレオンを幽閉した後、フランスの属国であったオランダがそれまで殖民地として支配していた、シンガポールを始めとする、現在のインドシナ地方、及び東南アジア諸国を自国の支配下に置いた。

幕府に商館の設置を許されていた「長崎の出島」は、イギリスは、当時、オランダが治外法権を持つ殖民地と考えた。

1808年10月4日、湾内のオランダ船の拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート“フェートン号”(イラスト)はオランダ国旗を翻し、国籍を偽り、長崎の港に入ってきた。

何の疑いもなく自国の商船の入港と考えたオランダの商館員(2名)は、慣例に従い、長崎奉行の通訳を伴って出迎えたところ、フェートン号はオランダの国旗を降ろして、替わりにオギリスの国旗を揚げ、オランダ船を求めてボートで港内を捜索、その時捉えたオランダの商館員を人質として派遣、奉行所に薪水の他、食糧(米、野菜、肉)の提供を要求した。

長崎奉行の松平康英は、湾内の警備係、鍋島藩、福岡藩にフェートン号の焼き打ち、もしくは拿捕を命令、同時に大村藩らにも派兵を促した。

オランダの商館長ヘンドリックス・ズーフは、長崎奉行に諫言、速やかに退避して戦闘回避を訴えたが、聞き入れられず、翌日になってイギリス側が、要求が入れられない場合は、港内にある一切の船を焼き払うことを告げた。

ここで、ようやく事の重大性を悟った奉行所の役人達は、フェートン号船長の要求を受け入れ、要求品一切を提供し、オランダ側からも、豚と牛を送った。

そこで、イギリス側はオランダ側の人質を釈放、翌日そこを立ち去った。

満足な兵力を持たず、無断で侵入してきた(国際法違反)イギリスの要求に、屈服せざるを得なかった松平康英は国威を辱めたとして自ら切腹、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩の家老数名も、同じく責任をとって切腹して果てた。

さらに、江戸幕府は鍋島藩主鍋島斎直に100日の幽閉を命じている。

その後も、周辺にイギリス船の出没が絶えなかったため、幕府は1825年(文政8年)「異国船打ちはらい」の命令を出すにいたった。

イギリスは1811年、インドから遠征軍を出して、ヴァタビア(現在のジャカルタ)を攻略、やがて東インド全域を実力支配するに至った。

鍋島藩は「フェートン号事件」を教訓として、その後、近代化に力を注ぎ、明治維新の頃には九州では、島津藩に次いで外敵に強い藩に生まれ変わっていた。

その後、隣国で「アヘン戦争」が勃発(1840年)したことを知り、長州は高杉晋作を清国に派遣して、具に事情を探索させている。

“備えあれば憂いなし”は古い言いならわしであるが、これこそが“温故知新”の精神である。

尖閣諸島で受けた侮辱を教訓に、野田民主党も覚悟を新たに、如何にすれば、国家の安泰を保持出来るかに心を致して欲しいものである。

|

« 野田民主党は中国に遠慮するな! | トップページ | 中国の脅威的宇宙開発 »