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アメリカ最初の百万長者

220pxjohn_jacob_astor John Jacob Astor

ジョン・ジェーコブ・アスター(John Jacob Astor,1763-1848)はドイツ系の移民でアメリカ独立戦争後、五大湖からカナダ地方、又は,アメリカ西海岸(オレゴン)に及ぶ地帯に狩猟場を持ち、その頃、輸出の花形であったラッコの毛皮の貿易で財をなした最初のアメリカ人である。

         

彼はドイツのハイデルベルグ近郊のヲールドーフ(waldorf)生まれの肉屋の息子で、1779年、16歳の時ロンドンにわたり、英語を学びながら兄、ジョージ・アスターの楽器工場で働いた。

アメリカに渡ったのは、アメリカ独立戦争直後の1784年で、すぐさま彼はアメリカ先住民との間で獣皮の商売を開始、10年以内にはニューヨークに、その頃シルクハットの縫製に欠かせないラッコ皮革の専門店を開店した。

1785年、彼はサラ・トッド(Sarah Todd)と結婚、1794年、カナダ、モントリオールのノースウエスト会社と組んで、ロンドンとの貿易を開始、その後、中国にも皮革を輸出、その見返りに中国、広東から茶や陶磁器を輸入して最初の財(約25万ドル)を築いた。

エンプレス・チャイナ(Empress China)号を仕立てて太平洋を往復、東洋との交易の先駆者的存在となった。

19世紀初期に、その後、“オレゴン・トレイル”となったロッキー山脈超えのルートを開き、オレゴン州に「アストリア砦」を築いて、西部地方での毛皮取引の拠点を打ち立てた。

1812年戦争中、イギリスの西部進出を逃れてアストリアを放棄、一時アヘン貿易に手を染め、トルコ製のアヘンを自社の持ち船“マセドニアン”を使って広東に運んで大儲けをしたと云われている。

1822年以後、アスターはミシガン湖のマキナック島(Mackinac Island)にヘッドコーターを築き、そこに全商品を集約して、そこから世界の各地に毛皮を搬送した。

それより先、1804年には、アスターは当時、第3代アメリカ大統領、トーマス・ジェファーソン政権の副大統領の職にあった、アーロン・バー(Aaron Burr,,1756-1836)から6万2500ドルでマンハッタン島の広大な土地の99年間の使用権を手に入れた。

(アーロン・バーはその後、財務大臣の職にあった、アレキサンダー・ハミルトンに決闘を挑んで殺害した(1804年7月)ことで裁判で有罪となり放逐された。)

アスターはこの取引で得た土地を他人にリースしながら蓄財を重ね、毛皮貿易で得た資産をも投入して、将来性のあるマンハッタン島を中心としたニューヨークの一大地主となった。

1830年代に於いて、アスターは、続々と波のように押し寄せるて来る移民を眺めながら、やがて、ニューヨークが世界の商業の中心都市となることを確信、マンハッタン島を中心にした土地の買収に心血を注いだ。

アスターは、決して自己所有地に建物建てることをせず、常に土地をリースして使用させることに終始した。

彼が死を迎えた1848年頃には、彼の資産は2000万ドルを超える程となっていたと云われている。(206年換算:約1兆1010億ドル、グーグル調べ)

彼は遺贈として40万ドルをニューヨーク公立図書館(New York Public Library at 42nd St.,5th Avenue)建設に寄付、その他、多くのチャリティー事業に寄付を行っている。

アスター家の事業として最も有名なものの中には、超豪華ホテル:ウードロフ・アストリア ホテル(The Waldorf-Astoria Hotel)が挙げられる。

それは最初、5番街34丁目にあったが、1931年エンパイアー・ステーツ・ビルディングがその地に建設されることとなり、従って、ホテルはその後、パーク・アヴェニューに移転した。

ジェーコブは生前から、“アメリカの鳥”の画家として有名な、ジェームス・オーデュボンや、文豪、エドガー・アラン・ポーの後援者として知られている。

ジョン・ジェーコブ・アスターこそ、アメリカで最初に所謂、100万長者と呼ばれる人物であった。

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