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プーチン、21世紀のナポレオン?

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ロシアの中高年層の間では、何故かソ連ブレジネフ書記長時代(1964年以後)を庶民の黄金の時代とじて記憶しているらしい。

「プラハの春」を潰したチェコへの軍事介入、「アフガニスタンへの進攻」等、西側国の庶民から見れば、それは、ソ連が欧州諸国を苦しめた暗黒時代であったように考えがちな頃であった。

丁度、アメリカがヴェトナムに干渉し攻勢を開始した、1965~1975年の約10年で、確かにソ連側の人々にしてみれば、宿敵のアメリカからの如何なる干渉も心配なくいられた平和な時代であったのだろう。

少なくとも、その間の初めころまでは、ロシア人達は貧しいながらも充分な幸せを味わったと記憶に残る人が多かったと思われる。

ウラジミール・プーチンは1952年生まれで、その頃は10~20歳までの少年であった。その間プーチンは「団地のガキ大将」(噂)として、ソ連の“良い環境”にすくすくと大きく成長したと思われる。

驚くべきことに、プーチン(以下、P)は映画や小説からスパイになることに憧れていた。

中学3年生の頃、彼は、自らソ連国家保安委員会(KGB)支部を訪れ、どうすればそこに就職できるかを尋ねた。

その時に、KGB職員から聞いたことを守って、大学卒業と同時にKGBに就職、ソ連の共産党員となった。

従って、Pは生え抜きの「職業スパイ」と云ってよく、不思議にも、東西ドイツ統一の年、1990年には母校のレニングラード大学の学長補佐官になっていた。(38歳)

その年、大学時代の恩師、サブチャーク氏に合い、何が起こったのかは判らないが、Pは、突然KGBに辞表を提出して、レニングラード市ソヴィエト議長をしていたサブチャーク氏の国際関係担当顧問となった。

その翌年の1991年、6月にサンクトペテルブルク(レニングラードから改名)の市長に当選すると、Pは同市の海外関係委員会議長に就任、その翌年、同市副市長、1994年3月に同市の第一副市長となり、主に外国企業のロシア誘致に貢献「灰色の枢機卿」とよばれるようになる。

1996年にはモスクワに移動、ロシア大統領府総務局次長の職を得て、主に法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当した。

1977年3月にはロシア大統領府副長官兼監督総務局長に就いた。

1998年、Pはロシア大統領府第一副長官に就き、地方行政を担当して、地方知事との連絡役として活躍。同年7月に、KGBの後身であるロシア連邦保安庁{FSB}長官となった。

これで、彼はその道の専門家として、その頃、ボリス・エリチン大統領のマネーロンダリング疑惑を捜査していたスクラトフ検事総長を女性スキャンダルに絡めて失脚させ、当時の首相プリマコフが計画していたエリチン追い落としのクーデターを未然に防ぎ、エリチンの信頼を勝ち取った。

Pは運動感覚に優れ、決断力にも非凡なものをもっている政治家である。

少年の頃から職業スパイを志していたと云う事実には驚くほかはない。

筆者は今後もプーチンの動向を見守って行きたいと思っている。

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