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外貨価値の下落と「円」

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昨日ユーロが日本円に対して心理的な節目と思われていた1ユーロ=100円を切った。

2008年には一次、169円だった価値が100円と云うことは40%程の下落を意味する。

その頃米ドルは対円120ドル、だと記憶するが、現在では、約77円、即ちこれも43%の下落である。

経済通でない筆者でも、この現象が、日本の経済隆盛をうけて「円」が外貨に対して価値をあげたのでないことはハッキリしている。

その反面、最近アメリカでは一次倒産寸前の状態まで沈んでいたビッグ3(フォード、GM、クライスラー等の自動車が売上高の上昇を見ているとのこと。

ユーロ価値の低下で、ドイツは自国貨幣マルク価値との差で実質的に貿易黒字となっているとも云われている。

その間、日本製品は円高で輸出は落ち込み、大企業はおろか、傘下の中小企業までが生産拠点を海外に移転させて損害を食い止めるのに必死の状態である。

これからは次第に国内で雇用不安が加速、失業問題に進むことは明らかである。

これは“経済戦争”ではないだろうか?

米国財務省は、日本の財務相が、円高是正防止目的の円売り、ドル買い市場介入を行った際、それの不支持態度を表明したと云われている。

アメリカの牽制によって、たとえ少々、円高になっても日本政府は「円売り」をしないと云う“期待”が最近の円高トレンドを生んでいるのではないかと筆者は考えるようになったが、間違っているだろうか?

窮状の日本経済を立てなおす手段を思考して、国民生活を守ることが政府の役目である限り、新年に当たって日本政府は決然とした自国の態度を世界に示して欲しい。

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世界の最先端「石炭火力発電」

2011年は日本にとって苦難に満ち た一年であった。

3月11日の東北地方を襲った地震と津波は想像を超えた規模の災害をもたらしたが、もし、それに原発事故が伴わなかったならば苦しいながらも、人の心も時がたつと共におさまる方向にむかったかも知れない。

我々は今こそ「原子力」に頼らないで生きて行ける「発電」を初めから考へ直さなければならない。

最近、定期検査のため、関電の美浜原発が完全に休止状態に入ることで、稼働している原発ゼロ状態になることを踏まえて、来春から会社は5%の節電を要請している。原発がゼロ状態で、節電5%を消費者に呼び掛けている。

今月の月刊誌「選択」で、“世界を制する我が国の有望技術”として、

「最先端石炭火力発電」の見出しの記事を読んだ。

普通なら、石炭は単位熱量当たり炭酸ガス排出量が他の化石燃料である石油、天然ガスと比較して二倍に近く、然焼時の硫黄酸化物、窒素酸化物の排出も多く、地球環境問題の元凶と見られていたが、ここにきて“日本の他国には見られない突出した先進技術”がこのハンディキャップを払しょくしようとしている事実を紹介している。

それによると、発電効率の向上で、蒸気に対する温度と圧力を引き上げることで、水蒸気を液体と気体の両方の性質を持つ状態に変える超臨界圧を駆使、発電効率を向上させる技術開発の進歩は「世界最先端の日本の技術」として紹介している。

蒸気温度が566度、圧力240気圧以上の「超超臨界圧(SC)技術が既に日本では実用化されている。

磯子石炭火力発電所では、温度600度、圧力250気圧の蒸気により、世界再高水準の43%と云う熱効率を達成している。

細かい技術的な説明は紙面の関係で割愛するが、 日本の最先端石炭火力発電所では硫黄酸化物、窒素酸化物の排出量は、現在、最もクリーンな発電方法とされているLNG火力発電なみにまで削減されていると云う。

この進化のデーターを見て、資源エネルギー庁幹部も、「今や日本の石炭火力発電技術が我が国の成長戦略の切り札」として考え始めている。

石炭火力の最大の利点は、発電コストの圧倒的安さにある。熱源一千キロカロリー当たりの価格では、石油の五分の一、液化天然ガス(LNG)   の約半分とされ、更に、可採年数が200年を超える豊富な資源量も考慮すれば、これを超える材料は自然水力くらいであろう。

東芝、日立、三菱重工等の企業は既に、石炭を熱分解し、改質によってガス化し、ガス・タービンで発電、廃熱で蒸気を作り蒸気タービンで発電する複合発電に取り掛かっている。

それにより熱効率は実に57%の実績を確立、このタイプの発電で、日本は世界の最先端レヴェルにあるらしい。

石炭火力)発電の中核となるボイラー、蒸気タービン等の機器は電子部品のように生産コストの安さでいくら今後、韓国や中国が攻勢をかけても確立された我が国の技術力は揺るがないと云う程の格差があるとこの記事は強調する。

高温、高圧の蒸気で先端部が音速に近い速度で回転する石炭火力発電用タービンの羽根の設計と製造には高度な物造り技術が求められるため、これを作れる技術はIHIと三菱重工をはじめとした日本の企業の独壇場と云われている。

今後アジアの一次エネルギー需要が年ごとに増加することが確実視される中、日本の石炭火力発電ビジネスは今後の限られた日本の成長戦略として重要視されることは確かだろう。(参考資料:「選択」2012年1月号、pp、62~63)

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ビールの将来を占う発明

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「ホップ」と云えばビールに苦みを加味する植物成分であることだと云うことは誰でも知っている。

ビールは醸造時に麦汁にホップを加えることで、香りや泡立ちを良くすると共に、風味を引き立てる「苦味」をつけている。

苦味である「苦味酸」は60年程前に見つかったとされているが、苦味酸を合成する酵素は永年、謎とされてきた。

京都大学生存圏研究所の矢崎一史教授(生物化学)、大学院生の鶴丸優介氏とキリンホールディングスの研究グループがこれらの“謎”を突き止め、12月27日に発表した。(京都新聞)

苦味を効かせたり、逆に抑えたりすることで、ビールの為のホップ育成に成果が期待される。

矢崎教授は国産ビールの原料のホップ(キリン2号)の雌花で活性化している遺伝子約6600種類をコンピューターで網羅的に解析し、酵素を作る遺伝子

HIPT-1を発見した。

昆虫の細胞にHIPT-1を導入し、実際に酵素を作らせることにも成功している。

HIPT-1は抗がん作用で注目されているホップの成分「キサントフモール」の合成時にも働いていることが判った。

“さまざまなホップの品種の遺伝子を比較し、交配することで、苦味に特徴のあるホップを育成することが可能になる”と矢崎教授。

世界に先駆けて、ホップの成分の調整で様々な微妙な風味をもったビールが製造できると日本のビールが世界から、さらに注目されることを期待したい。

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「国宝」所有者の管理義務

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青蓮院門跡(京都市東山区)は26日、所蔵する国宝の絹本着色「青不動明王二童子像」(俗称:青不動)を寺領内に安置する目的で総工費6億8000万円を費やして、裏山の将軍塚頂上にある大日堂に隣接して護摩堂を建立することを発表した。(京都新聞12月27日)

大護摩堂は重要文化財「平安道場」(京都市上京区)を京都府から無償でもらい受け、解体して、平成26年までに山上に移築する計画であると云う。

青不動像は、大津の円城寺の黄不動、高野山明王院の赤不動と並んで、三大不動明王図として有名な国宝の一つ。

これまでは京都国立博物館に寄託保存されていたものである。

先代門主、東伏見慈冾氏の代までは世襲制ではなかったが、現門主の慈晃氏から世襲制の門跡寺院となったとのこと。

青蓮院は「粟田御所」の別名があり、江戸期に京都御所が火災に遭い、一時天皇がここに仮寓されたことからこの名がある。

又、幕末の「鳥羽伏見の戦い」で傷病者を収容するため、青蓮院が使われて後、京都府立病院がここにて産声をあげたと云われている。

少し話が横道にそれたが、国宝を収納する為に6億8000万円を費やして、人気の少ない山上に護摩堂を建造する壮大な計画には驚きを隠しえないが、何故それほどまでして「国宝」を博物館から引き揚げて展示する必要があるのだろうか?

筆者の知る限り、国立博物館では保管するに値する美術工芸品は無料、無期限で預かっている。従って、所有者は必要な時には何時でも申請さえすれば持ち出しは自由なはずである。

国宝の保管については、可なり周到な義務を伴うことは云う迄もない。

従って、青蓮院は、今回の企画が如何なる目的をもってなされるのかをはっきりさせる義務がある。

それと同時に、管轄官庁である文化庁並びに、それらを管理する文化財保護委員会も文化財の安全管理に慎重を期すべきであることは当然である。

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謎だらけの京都樫原廃寺跡

Photo 樫原廃寺八角基壇と法勝寺八角塔想像図Hou

本日(12月25日)の京都新聞「市民版」に極めて歴史上重要な一文を見た。それは、樫原廃寺八角塔基壇に関して、「7世紀後半の天皇陵は八角墳であることが近年の研究で確実視されている」と云う記述である。

この見識の基礎には触れていないが、この新聞報道が正しければ、今後の宮内庁の「天皇陵」の判定になるのではと考えられる。

「八角塔」の作例としては、京都、岡崎に白河天皇が承保3年(1076)に建立した法勝寺(別名、国王の氏寺、応仁の乱後、衰微)に高さ80メートルとされる八角五重塔が有名である。(再現図)

京都市西京区樫原で1967年に八角形の建物基壇が発掘された。

この基壇中央地下2メートルから巨大な花崗岩製の心礎が見つかり、これが塔の基壇と判定された。

周辺から同時に発見された瓦の様式から、これが白鳳時代(645~710)に造営されたことが判明した。

大化の簿葬令以降。古墳の造営は減少した、それは、律令国家は、国家鎮護を祈願する寺院を建立することを官人となった豪族達に求めたことに依るとされている。

天皇の玉座とされる「高御座」(タカミクラ)の八角形の家型からもわかるが八角は天皇家の権威的シンボルとされる。

1967年、何故、宮内庁は樫原で発見された八角の建物基壇を八角塔の基礎と断定、しかも、「樫原廃寺」を天皇家と関係があるものとして国の史跡に指定したが、その後、その発掘調査突然に中止、「後世の検証を待つ」(京都新聞)として、その後沈黙を守っているとの事。

一部ではこの廃寺は秦氏と何らかの関係があるとも推定され、謎を秘めた文化遺跡であることは確かである。

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無様な民主党

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2009年に民主党が自公政権を破って勝利した。政権ついた初仕事として、「セメントから人へ」のスローガンのもと、前原誠二国交省が威勢よく、八ッ場ダム工事続行中止を宣言して物議をかもした。

これは新民主政権の初仕事として注目を浴びたが、今から思えば単なる“スタンド・プレイ”でしかなかった事が2年後に判明した。

群馬県長野原町の八ッ場ダムは昭和27年(1952年)に調査が開始され、既にこれまでに総事業費約4600億円の内、7割以上が投入済みであった。

このダム着工の是非はともかくとして、それを中止すれば、その時点で3200億円を捨てることを、民主党国交省は閣議を経ずに決めたことになる。

このダムの工事を続ければ今後さらに無駄な国費が消費されて国家に損害を及ぼすと考えてダム建設の中止を発表したとしか考えられない。

それまで、半世紀以上8ッ場ダム流域の6都県や自治体と、周辺の住民達は、治水や取り水源として、永い間、こぞって工事の続行を求めてきた心情と努力を、何の基礎知識も、それまでの歴史にも疎い、若者の大臣の一声ですべての関係者の苦心が水泡に帰した悔しさは、関係者の立場になって考慮すれば痛いようにわかる気がする。

ダムの予定地とされた地域の住民、自治体の関係者は、半世紀以上も町を二分した激しい論議を戦わし、中には志半ばで無念にもこの世を去って行った住民も少なくなかったであろうと思われる。

やっと、工事受け入れでまとまった直後の方針転換に、地元の人々が激怒した。

水没予定地域から転居して、仕方なく、ダムの近くで、何とか生きる為の生活設計に知恵を絞り、金策に走り回って何十年、その矢先のダム施行中止を言い渡された周辺の国民は黙っているわけには行かない。

それから1年2ヶ月後、昨年11月前原氏の後釜に座った、馬渕澄夫氏が事実上のダム中止撤回宣言をした。

ところが、それから更に1年1カ月、工事は未だに店晒しのまま放置され、政府からの約束や説明は一切ないままである。(数度の討論も決裂のまま)

この間、住民はどのように生活を続けてきたかは政治家の知るところではないらしい。

民主党政調会長の立場から、前原氏は「党サイド」の見解として、工事再開をすることは明らかに、選挙公約違反にあたることから「中止継続」を宣言したが、前田武志国交省が再び、政府決定として「工事再開」を公式発表した。此の間、僅かに3~4日の実に“どんでんがえし”の出来ごと。

無駄な公共事業の見直しを唱えた時点で、過去の経費、3200億円をドブに捨てていることは不問のままでよいのだろうか。

高速道路建設にしても、既に工事が半ば完成間近な個所も中途で止めにしたところも少なくない。これで、、工事関係者にどれだけの損害を及ぼすかを考慮していたのだろうか?

一昨日(20日)、前原氏は再び、八ッ場ダム工事にGOサインを示したが、国民は、この時点で、ハッキリと民主党内部抗争の実態が如何に深刻な事態に至っているかを察知出来たと思う。

(産経12月24日)

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新しい農業の模索

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農業とコンピューターを組み合わせて世界を変えようとする試みがある。

それは「農業クラウド」と呼ばれるサービス業である。日本の農家の殆どが後継者難に苦しんでいる。既存の政治の枠を打破して、たとえ技術者でなくても、やりたい人が農業をできる仕組みを考案し、提唱する西辻一真氏(29)、京都にある「マイファーム」社長である。(産経12/21)

京都大学で農策物の品種改良を学んだ西辻は4年前に起業した。

農業に関わる企業を起こしたのは、国の減反政策で故郷・福井に増えている耕作放棄地を再生する方法を考えたかったからだと云う。

耕作放棄地の多い地域に赴き、農家を一軒ずつ訪問して、一般市民でも利用できる貸し農園に出来るように勧めた。

今のところ管理する農園は全国で約80.うち15か所でITを導入して指導している。

兵庫県西宮市の北西部に農園が点在している。その一つ「西宮農園」で最新のIT(情報技術)が導入されている。

自然を対象にした農業とIT.一見、不釣り合いな両者が実は、新たなものを生み出そうとしていると云うのが西辻氏の持論。

農園は約15平米づつの区画に分けられ、計120組が利用している。最新のITは農園管理を行う自社、「マイファーム」の提案で行っている。

その仕組みは、高さ75センチの円筒形で。上部にカメラを備え、センサーで温度、日照量を測定する。

映像とデーターはインターネットを経由し、機器を開発したメーカー、NECのデーター・センターで管理される。

利用者はインターネットを通じ、情報を取得できる。西宮農園では「マイファーム」のスタッフがデーターをチェックし、週末に訪れる利用者に「水をやり過ぎないように」「気温から見ると収穫期です」などとアドヴァイスを送る。

今後「プロの農家でこのシステムの導入が進めば、衰退する農業の再生に留まらず、新たな農業の創造や、我が国の農業の強さに繋がる」と西辻氏。

西辻氏の主張によると、データーをもとに農作物の管理を行うと失敗の確率が現象し、品質の歩留まりが良くなり、収穫量の安定化が望める。

作業の効率化がすすむことで、カンズメ加工、個人宅配等に時間を割くことがでいき、仕事の効率化が望めるようになる。

クラウド・コンピュータを農業に取り組む(農業クラウド・サービス)を利用することで、これまで自前のパソコンに残していたデーターをインターネットで保存、処理することで手元に高価な機器を持つ必要がなくなることでコストの削減が出来るだけでなく、教育や自治体の窓口業務、運送管理など、業種や分野、個人や企業の区別なく、いわば、一介の素人でも、このシステムの利用でやる気さえあれば「農業」が始められると主張する。

アメリカの調査会社「ガードナー」の調べでは世界市場規模は現在、約7兆円、、2015年には、その倍の13兆7千億と予想。

お隣の韓国でも、15年までの目標として、世界的クラウド・コンピューティング大国になることを宣言済み、中国の一部都市でデーターセンターの誘致に乗り出しているとのこと。

これはまるでSFの世界の話のように聞こえるが、クラウドのセンサーが人の聴覚や視覚により近づき、遠隔地の寒さや暑さまで実感できるポテンシャリティーを秘めた「クラウド・コンピューティング」は老人の筆者には詳しくは判らない。

しかし、これからの農業が姿を変えつつあると感じずにはいられない。ただ一途に「米」に拘る日本の農業政策はこれまでの先入観を払しょくして、官僚、農協主導の施策を改めて、“農業維新”を起こして欲しい。

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ディキシーランドの由来

Dixie_note_5 ディキシーとかディキシーランドと云えば誰も、それがルイジアナかニューオルリンズのことを漠然と考えるが、”ディキシー“の正確の名の由来は、ルイジアナ州で、1860年に発行された10ドル紙幣からきていることはあまり知られていない。(図:参照)

“DIX”とはフランス語では、“TEN”を意味する。この10ドルの私製紙幣、裏面の中央にDIXと印刷された文字が見える。(写真

Dizielandの名前の由来は、この紙幣から由来すると云う説が有力だが、又、それが、南北の境界線を指す“Mason and Dixon Line”(メリランドとペンシルヴァニアの間)から由来すると云う説も無視できない。

(Charles Mason & Jeremiah Dixon,1763 to 1767)

どちらにしても、Dixieと云えばルイジアナ州を中心としたアメリカの南部地方のニックネームであることには違いがない。

(因みに、この「DIX」紙幣は、モーガン・チェース銀行の前身、Citizen Bank of Louisianaから1860年に発行された。驚くべきことに、現在では、真札であれば、9000ドルの価値があると云われる、

この紙幣が通用する場所(Land)を指してDixielandと云うらしい)

カナダの東北部、ノバスコーシャ(Nova Scotia)-ニューブランズイック(New Brunswick),プリンス・エドワード島(Prince Edward Island)、ケベック(Quebeck)、メーン州(state of Maine,USA),近辺に住んでいた人達のことをアーケディアン(Acadian)と呼んでいた。

彼等のオリジンはカソリック教のフランス人であったが、18世紀中頃に始まった、「フレンチ・インディアン戦争」でフランスが破れ、カナダとアパラチア山脈からミシシッピーの領土を失うこととなり、多くのフランス人は一時、強制的にフランスに送還されたが、その中には、川を下ってルイジアナ(当時スペイン領)近くにたどり着いて住みだした者も多くいた。

それらの人達を後にケイジャン(Cajun)と云い、原住民との混血のラテン系の人種風俗をクレオール(Creole)とよぶようになった。

彼等は一般に楽天的で、この地に音楽、料理、言語などをもたらした。

ハンク・ウイリアムスとカーペンタースが謳った“ジャンバラヤ”はケジャン料理(Jambalaya)のことで、これにはいろいろのレシピーがあるようである。

アメリカ文化の中で、イギリスのピューリタニズムの浸透した、ニューイングランド地方と対照的で、南部ではカソリック教の勢力圏だが、ラテン系の楽天的な空気のみなぎった、汗臭い文化を感じる。

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21世紀はロシアの世紀?

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19世紀末、20世紀初頭では世界中が、あたかも陣取り合戦のようであった。

1880~1912年頃、ヨーロッパ列強が行った、いわゆる「アフリカ分割」は、まるで禿鷹ガ弱い動物の死体をむしゃぶり、食い荒らすにも近い蛮行の競争に等しかった。

(ベルリン会議は1885年に開催され、コンゴの分割が討議され、その後のアフリカ大陸の取り扱いにいかの13カ国がその討議に加わった:

イギリス、オーストリア、ベルギー、デンマーク、ポルトガル、ロシア、スエーデン、スペイン、アメリカ、フランス、イタリア、オランダとオスマン・トルコ)

その後、アフリカ大陸は完全にヨーロッパ列強に制圧され、それぞれが殖民地化されたことは周知の事実である。

それから1世紀が過ぎても未だに世界各地でせめぎ合いが続いている。

(その当時では、イギリスは既に、インドを殖民地とし、清国に対し「アヘン戦争」を仕掛けて制圧、シンガポールを確保、フランス、オランダは、インドシナとインドネシアの殖民地化を終わっていた。)

20世紀に入ってより、相変わらず世界各地で争いは続いたが、それは陸地における闘争であったが、

最近になってロシアが取りかかろうとしている新領土確保の戦術は北極圏、海上の島(所在不明)に総額約64億ドルの巨費を投じて、ドーム式の未来都市「ウムカ」を建設することを明らかにした。

これは恐らくロシアの経済的領海内にある島を、人工的に加工して軍事拠点とし、周辺をロシアの領海として世界の認証を得る、領土拡張の戦略と受け止められる。

地球の温暖化により、夏期の北極海が自由な通航ルートとして見直されてきている為、この都市に軍隊を駐留させ、北極海域をの制圧して、通航、資源確保で有利な立場の確保が主たる眼目であることは確実であるとみる。

「ウムカ」建設に利用される島の名前、位置は不明だが、建設計画では「ドーム都市」で、そこには、5000人が居住出来る、かなり大きなものとなると云われている。

ロシアの豊富な石油、天然ガスを利用、ドーム内は最も暮らしやすい環境を保持すると発表している。

この都市には、兵舎、研究施設、住宅、ホテル、講堂、教会、学校、病院、スポーツ、娯楽施設も造られる。

当初は、兵士、情報部員、科学者などと、その家族らが住み、農場をも整備、食物の完全自足を目指すと云う壮大な構想である。

ウムカとは先住民語で「オスの北極熊」の意味。

欧州共同体(ユーロ圏)、英米の経済低迷の折、プーチン次期大統領らしい構想である。

ロシアが未来の中国を仮想敵国視し、北太平洋の覇権を鮮明にすることで、この未来都市が如何にその使命を果たすかは、他国にとって脅威となることだろう。

これが成功すれば、ロシアはこれを模した施設を複数造ることを計画している。

未来に向かって確固たる目的をもって、力強く進むロシア、それに比較して、確実性に欠ける「北方領土返還」に固執して、進歩のない我が国の為政者の生ぬるい姿を筆者は腹立たしい思いで観察し続けるしかない。

(このコラム、月刊誌「選択」12月号、P19参照)

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明治以来のドイツ崇拝心

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2008年に対円で169円台を保持していたユーロの価値は昨日(12/17)では101円まで下がった。これが何時まで続くか判らないが、最近、東京で行われたドイツ車、BMWは販売価格をさげていない。

欧州勢を中心とした外国製高級乗用車の国内販売価格がなかなか下がらない。

これには、既存の外車愛好家が、為替の変動に合わせた急激な価格変動を好まないと云う誠に不思議な心理的傾向を指摘する専門家もいる。

高値の時から既に40%も値を下げているのに輸入車販売会社は販売価格をそのままにしても売れるのだから、これほど「美味しい」商売はなかろう。

反面、百貨店やスーパーでは輸入ワイン、高級食料品は「円高還元セール」などで湧いているが、ドイツ車を中心とした大衆車を含めた所謂、外車の花形車種の販売価格は値を下げなくとも売れると云う。

国内に販売拠点をもつ、これらの車種を取り扱う外車メーカーは、一般的に為替変動の影響を最小限に抑えるため、長期的輸出計画をたて、価格を変動させない仕組みを採用していると云い訳しているが、それは、何時も品薄の印象を買い手に植え付けて、購買意欲をあおっているとしか思えない。

我が国には明治の頃から“ドイツ製”崇拝の心理が働いているのも一因。

それと既存ユーザーへの配慮と同じ車種の中古車の価格に対する配慮も無視できないと云う。

フォルクスワーゲン・グループ・ジャパンは「円高傾向が強まれば価格を引き下げることも検討する」とまことに悠長な発言をしている。

ここまで来ると、これは日本人の「外車崇拝」と云う不可思議な心理を逆に利用した悪徳商法と云われても仕方がない。

或るディーラーは「外車」を安くすれば、それは既に外車ではないと思う顧客も少なくないと云うのだから、ここに至れば“何をか云わん”が筆者の結論。

米ドルは、昨今では、77円、去年初頭の120円から40%前後の円高傾向にある、従って、今後はアメリカ製の車を輸入することも考慮の対象となり得るのでは?(産経新聞、12月18日、記事参照)

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宗教法人の営利行為の是非

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本日(17日)、京都新聞夕刊にカラー写真で京都左京区の南禅寺方丈内の障壁が(重要文化財)のデジタル複製画の完成発表が同寺で行われたことが報じられている。

狩野永徳らが手掛けた元の障壁画の色彩などを蘇らせ」、関係者」は」「400年前の雰囲気を再現できたと喜んで」いるとか。

同誌には金色まばゆい襖絵の完成を嬉しく眺める老師の姿を写している(挿絵)。

御所からの移築と伝えられる国宝の大方丈には、狩野永徳らによる」「二十四四孝図」や花鳥画などの障壁画が古くから知られている。

移築から約400年が過ぎて彩色の剥落など傷みが見られ、寺は保存のため今月、13、14日に130面の内、84面を収蔵庫に移した。

完成をみた84面の複製の制作には二条城の障壁画のデジタル模写を手掛けた成安造形大の大野俊明教授の監修で5年をかけて完成させた労作らしい、建物と調和するように“江戸初期から中期の色あいを再現するくふう”をしたと云われるが、筆者が写真を見るところそんな雰囲気は見受けられない。

収蔵庫に移された「オリジナル」84面の襖絵は今後再び公開されることは望まれないと思われるが、南禅寺としては、これから同じ「拝観料」で訪問客を招じ入れ、これも宗教活動の一環の収入で申告、所得税免除になることを期待しているのだろうか?

収蔵庫に眠る「オリジナル」がもし紛失して転売され、行方不明となったケースを筆者は度々目撃している。

南禅寺ともある、名刹ではそんな不正が起こり得ないことだと思うが、あってはならないことである。

最近各所の仏教寺院で、所蔵品のデジタル複製が盛んに行われているが、これを行政がどのように見ているのだろうか?

複製を観客に見せて同じ鑑賞料金を国立博物館が行ったと仮定して、このような大衆をごまかす商法が今後流行しないように行政が指導すべきだと筆者は強調したい。

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新しい競売ニュース

Velazquez_portrait_2 17世紀スペインの巨匠:ヴェラスケス(Velasquez,1599-1661)の肖像画がロンドンで競売され、$4700万で落札されたと云うニュース。

この絵は最初の鑑定では、19世紀の画家:マシュー・ステパソンとされていて、落札予想価格は$320~$480(約2万~4万円)と思われていたが、幕を開けると、予想価格の1万倍近くの、36億1900万円を稼いだと云う驚がく的な、出品者にとってうれしい結果を生んだ。

筆者は先日、オーストラリア、クインスランドで発見された非常に珍しいと言われた14世紀の世界で2番目に古い、年号入り(1396年)の航海用」4分儀の落札価格を調べている間に上記、ヴェラスケス画のニュースが注意を引いた。

14世紀も”クアドラント”(quadrant)の落札値は未だ入ってこない。

(挿絵:ヴェラスケスの肖像画)

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国立博物館の図書館は誰のもの?

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関秀夫著“博物館の誕生”(岩波新書953)町田久成と東京帝室博物館のはじめの言葉を引用すると“「上野博物館」と云う名で、多くの人々に親しまれてきた東京帝室博物館は、明治15年(1882)に創設され、明治33年(1900)に皇室に献上された、日本で初めての近代総合博物館である。(中略)

昭和22年(1947)日本国憲法の施行にともない国立の博物館に生まれ変わった。(中略)平成13年(2001)からは特別行政法人東京国立博物館と名を改め、社会に奉仕する開かれた博物館をめざして動き出している。“

筆者の知る限り、この法人組織の仕組みは、他の奈良国立博物館、京都国立」博物館も基本は同じである。

上記の3大博物館とも、既に100年を超える歴史のある文化施設であり、それぞれに、例えば、陶磁器、染色、東洋美術、絵画や考古学らに専門室があり、室長や課長が多く勤務している。

これらの「文部技官」は各部門の専門家からなり、過去100年近くにわたって学術研究の名目で、研究資料(図書)を公費で購入してきた。

従って、それぞれの博物館には膨大な蔵書の図書部が具備されている。

ところが、ネット検索して、それら3か所の国立博物館についての情報を閲覧しても、何処にも図書室設備利用の積極的案内が見られないことは残念である。

過去のことは別にして、名前は「国立」だが、これら3博物館が、社会に奉仕する開かれた文化施設を目指すのならば、これまで永い間、公費で購入されて累積をみた、膨大な専門図書類を進んで民間の為に開放されるべきだと思うのだが?

筆者の知る限り、これまでは、どの博物館とも、内部の文部技官の研究にのみ供され続け、外部に積極的に図書室の利用案内を行っていないことは庶民の目から見て考え者だと感じている。

多くの国立博物館の技官達が、専門書を自分の名前で編纂、刊行するときには、これら公の備品(書物)を使用して出版し、販売に協力していたならば、それはあまり奨励される行為ではないと思われる。

筆者はこれら3大国立博物館は今後進んで、それぞれの図書部の利用を広報して、庶民の為に開かれた施設にするべきだと思っている。

この試論について是非大方のご批判を仰ぎたいと思っている。

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ミシシッピーの蒸気船の時代

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19世紀の初頭、フルトン(Robert Fulton,17651815)がニューヨークからハドソン川を遡り、キャピタルのオルバニー(Albany)迄を蒸気船航行を成功させたことで、アメリカの交通事情は急変した。

アメリカ五大湖の一つ、エリー湖迄に運河が完成(Erie Canal)した1825年頃までに完成、オハイオ川(Ohio River)まで船旅、物資輸送ができるようになった。

そこからは、自然にミシシッピーに出ることが出来、定期便でニューオリーンズ迄の交通路線が完成した。

初期の蒸気船は速度も遅く、騒音を発する怪物のような代物だったようだが、これで初めて風向きに関係なく川を上下出来る手段が確立された。

商業的に東部から南部まで蒸気船を導入することを考え付いたのは、第26代大統領、テェオドール・ルーズベルトの祖父の兄弟にあたるニコラス・ルーズベエルト(Nicholas J. Roosevelt)であった。(OhioArchaelogical and historical Quarterly Vol.16,No:3 July 1907,pp 310-315)

1809年に、43歳のルーズベルトは、新婦ラトルーブ(LaTrobe)を伴って、その頃では稀な個室つき平底型の豪華な蒸気船で、5人の乗組員とともに、冒険的新婚旅行を企画、ニューヨーク、ピッツバーグを経て、オハイオ川からミシシッピーに入ってニューオリンズまで下る事に成功した。

ルーズベルトはその途中、川の流れの速さ、川の深さを測定、地図を作製したと云われて入れる。その翌年の、1810年ルーズ、ヴェルトは再、シンシナティーでエンジンを改良して「ニューオリーンズ号を完成、おなじ行程での蒸気船のビジネスを目的とした旅を行って、後に繁栄をもたらしたミシシッピー航路ビジネスの先便を付けた。

ここに至るまでには、ルーズベルトは、ニューヨークの資産家で、第三代大統領:ジェファソンの指名で、ナポレオンとルイジアナ購入の交渉に尽力した、ロバート・リヴィングストン(Robert Livingston1746-1813),ならびに、蒸気船の発明者、ロバート・フルトン(Robert Fulton,1765-1815)等とともに航路の就航の研究を行った。

後にマーク・トウエインが書いているように、ミシシッピーは常にその形態を変化させいる。

上流で大雨が降った場合には、水かさが急に上がって、沿岸の土手が崩れ落ちたり、大雨で流れてきた流木が水底に突き刺さり、いたるところに難所を作って、水先案内人やパイロットを悩ませることが度々起こった。

何といっても、ルーズベルトのニューオリンズ号の就航によって、大河ミシシッピーを遡って物資や人を上流に輸送出来ることが可能になったことは意義深い。

南北戦争後、ミシシッピー・リヴァーボートのビジネスは最盛期を迎えることとなる。

その頃にはミシシッピー川とオハイオ川には1万隻以上の外輪船が運航していたと言われている。

その昔“ショーボート”と云うハリウッド映画を見た記憶があるが、ミシシッピーを上下した豪華船の中には、贅を尽くした客室、バー、豪華レストラン、200人以上」も収容できるメーン・ホールにはクリスタルのシャンデリアに豪華な絨毯が敷き詰められていた。

南北戦争後には最高水準の装備と、エンジンを持った船同士のスピード競争がしばしば行われたそうだが、その中で最も有名を馳せたイヴェントは、当時では          スピード・ホールダーの名をほしいままにしていた、ナチェス号にロバート E・リー号(Robert E,Lee)(挿絵)が挑戦、後者が勝利を博した。(1870)。

間もなく、大陸横断鉄道の完成を見てからは、蒸気船は次第にその数を減らしていき、20世紀を迎えるころにはその姿は見られなくなった。

現在では「デルタ・クイーン号」が歴史指定物として、シンシナティからニュオルリーンズ間を就航しながら、古き良き時代を懐かしむ観光客の人気を集めている。

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大女優、故エリザベス・テーラーの遺産競売

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去る、3月23日、ハリウッドの代表的女優で1世を風靡した、エイリザベス・テーラー(Elizabeth Taylor,19322011)が79歳で絢爛な生涯を閉じた。

テーラーは戦後のハリウッドを盛り上げた、最大で、最も美しいシンボル的存在の女優であった。

筆者は彼女の性格がどんなものであったかは詳しく知るところではないが、一生に8回も結婚、離婚をくりかえしたと云うことは、協調性に欠けた性格の持ち主ではなかったかと想像する。

幼いころからスクリーンに登場、「若草物語」(Little  Woman,1949),「花嫁の父」(Father of the Bride,1950),「日の当たる場所」(A 

place in the Sun,1951)

ジャイアント(Giant,1956),トタン屋根の猫(Get on the hot tin roof,1958), バターフェールド 8(Butterfield 8,1960)クレオパトラ(Cleopatra,1963)、これら全ては日本にも輸入され、大人気を博した作品ばかりで、まさに彼女は、ハリウッド映画産業の一大スターとして黄金時代を築いた。

1970年以後、彼女の映画出演の回数は少なくなったが、

1980年以後では彼女は社会事業に参加、エイズ撲滅運動に努力したと云われている。

リチャード・バートンとは実に11回も共演したところを見ると、彼が最も気に入られた相手役であったことは事実。

Elizabeth talor AIDS foundation,(1993),American Foundation AIDS resurch(1985)等の存在は、テーラーと共に広く知られている。

フランスのレジョン・ヅ・ヌールを始め、生涯に世界各国から多くの勲章を受けている。

この度、エリザベス・テーラーのジュエリーコレクションの競売が行われ大変な高値で落札されたとの報道があった。

全体の金額は$115million,その中では、$11.8millionの真珠のネクレス、それに、リチャード・バートンからもらったダイアモンドの指輪が$8.8millionとその他諸々の貴金属等の合計が

$115million.

1米ドル=77円として計算して、円換算で一体幾らか?、筆者のつたない算術では金8855億円ではと思うのだが間違っていたならお許し願いたい。

最も高値を呼んだのがここに掲載した、首輪の下に大きなダイヤがぶら下がっている見事なアクセサリーではないかと思っている。

アメリカでは、どんな人でも、死亡と同時に、遺産執行人が指定され、手続きが始められる。

それ以後は、身内を含め、如何なる人物でも遺産には手がつけられない厳正な法律がありこれを破った人は刑法に問われる。

今般のエリザベス・テーラーのような著名人なら、特に国税局が目を付けているので預金残高の1ドルまで計算され、不動産や貴重品、コレクションの全てが、一旦競売され現金化された時点で、税金を支払った後に、遺言に従って財産分配が行われる。(しかし遺言は尊重されて、指定された物事に関しては遺言が先行する。)

この点、我が国の場合のようにいい加減なことは出来ない仕組みになっている。もし、家族の誰かが被相続人の持ち物の内、欲しいと思う物があれば、競売の場で落札すれば取り戻せるが、勝手に無断で貰っておくことは不可能である。

この点、アメリカ式の、すべてに平等で公正な相続規制は我が国の税務署も勉強すべきことがあるのではと思っている。

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オーストラリアで見つかった「宝」

The_quardrant_for_sale_2 (類似品写真)

本日(1212日)早朝、BSの世界ニュースで聞いたところでは、ごく最近、

オーストラリア、クイーンスランド州の農家の小屋の中から発見された年号の入った古い四分儀(sextant,”QUADRANT”1213日(日本時間で12日)イギリスで競売にかけられるとのこと。

筆者が早速、海外版ヤフー検索したところ、以下のような事が判明した。

この非常に珍しい英国製の四分儀には、1396年の年号)が刻印されていて、14世紀、リチャード2世当時のものと判る。

ここに類似品の写真を掲げたが、今回見出された物は、これまでに知られていた3っつの内、2番目に古い“quadrant”と確認された。(方寸:不明)

12月13日と競売日が決められているが、既に多くの研究家、収集家が下見に訪れ、にぎわっているとのこと、前評判では、15万から20万ポンド(約2420万円)程の価値を呼ぶのでは云われている。

考えられるとすれば、最も可能性の高いのは、18世紀末のジェームス・クックが率いてオーストラリア学術調査隊が派遣された3回に及ぶ探検(1728~1779年)の際に置き残した航海用器具の一つであった一つとも考えられる。

どちらにしても、明日のニュースが楽しみである。

  

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「平成維新」は起こるか?

Photo 今年3月11日、東北地方を襲った地震、津波に続いて、再び、今度は、西日本の大阪で政治的大変動(地震)が起こっている。

明治維新の名を取った、「大阪維新の会」が、戦後、平和ボケで、このまま何も起こらないと思われていた我が日本に、久しぶりに何か起こりそうな「風」を吹き上げた。

“何かが起きる”と云う感じを国民は意識し始めていることは確実で、この「風」が良い悪いは別にして、先ずは、民主党政権内に、年末にかけて何かの変化が起きることは、ほぼ確実になったと言える。

19日に正式に大阪市長の席につくことになっている橋下徹氏、早くも、障害児が通う大阪市立特別支援学校(9校)を今後大阪府へ移管することを市関係者に伝えた(11日付、毎日)ことが判った。

未だ正式に市長にない橋本氏がこれを「公式発表」することが可能なのかどうかを筆者は知るところではないが、平松現市長と、どのような話し合いがなされてきたのか判らない。

少なくとも、聞きたいのは、就任するまで、橋下氏が、これの発表を待てなかったのか不思議に思う。

産経新聞は、11日朝刊の見出しで“冬将軍”と橋下氏を例えて、「震える3派」、公明党、自民党、民主党系の「市議会3派体制」に揺らぎが見え始めたことを指摘している。

これまで市議会各会派の幹事長の集まる会議の前には、この3派の幹事長が会議することが通例とされてきたが、ダブル選後には一度も行われていない。

これまで、ある種のキャスティング・ヴォートを握っていたと云われる公明党としても、この期に及んでは、抗しきれない圧力を感じていることは確実だと筆者は考える。

大阪の市府政を離れて、今やこの問題は「全国的」な問題として取り上げられるべき一大政治問題と変化しつつある。

今朝のテレビのニュースでは、「維新の会」が小沢一郎一派に接近していると報じているが、筆者の考えるところこれは、むしろ、小沢一派が「大阪」にすり寄っているのではと疑っている。

小沢一郎氏は苦しい立場を保持しているが、曲がりなりにも「一派」としての形態だけは維持していることは確かである。

選挙中から、“政治は数”と公言して憚るところがない橋下徹氏としても、八十票程の一派を支配する小沢一郎グループには魅力を感じていることは確かと思われる。

橋下氏は、さらに、前横浜市市長の中田宏氏の副市長の起用を考慮中との報道もあり、民主党から嫌われて辞任に追い込まれた、古賀茂明元経済産業省のエリート官僚も、昨日の「決起大会」の壇上で、自ら今後「大阪維新の会」の特別顧問として一肌脱ぐことを声明している。

元経済企画庁長官、自民党内閣特別顧問歴任の経験を持つ堺屋太一氏も同じく、同会の特別顧問就任を了承済み。

前述した数々の出来事は、大阪同時選挙の行われた」、1127日後、たった2週間に発生した政治的動きである。

平和ボケで、何も大事なことは地震、津波以外に起こり得ないと思われていた日本国であるが、ここにきて、“これは何かの前触れでは?”と感じている国民はただ筆者だけではない事も確かだ。

今日、(1212日)から新年まで数えると僅かに20日、政治家それぞれの頭の中は走馬灯の様相にあるのではないだろうか?

平成の「関ヶ原」ではと感じる「大阪維新の会」、21世紀では、この狭い日本には、西方も東方もない、とにかく日本全体がこれを機に良い方向に動いて欲しいと願っている。

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日本の象徴を失うな!

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過去数年来、企業法人税軽減すべしとの声が高まっていたが、それは、それをしないと、大企業に留まらず、中小企業までが海外に生きる道を求めて逃げていくことを阻止しなければ、今後我が国での失業が増え続けることを憚ってからのことである。

12月号の「選択」がまさにその問題提起をしているので、紹介したい。

製造業の海外進出は、戦後波状的に何回か起きている、1970年代初頭に米欧との貿易摩擦でおきたエレクトロニックス、自動車産業の工場進出。85年9月のプラザ合意に伴う急激な円高に対応して大手から中堅企業までを包含した広範な東南アジアへの工場移転、90年代後半に起き、2001年の中国の世界貿易機関{WTO}加盟後、怒涛の流れとなった対中国進出らが、ザット今までに起こった我が国産業の海外進出の筋書きである。(選択、12月号より抜粋)

ところが、現在起きている事態の実態は、これまでの筋書きとはまったく異質なものである。

中堅、中小企業の場合、国内と国外を同時にバランス良く経営出来るほど溶融が無くなってきていると識者は見ている。

今起こっている企業の海外での事業展開は、国内事業の縮小、又は閉鎖を視野に入れた、いわば片道切符の「移住型進出」である。

人口の減少、少子高齢化による国内需要の減退、対ドル、3割以上の値上がりを見た「円高現象」、3月の東日本大震災に起因した様々な障害(電力と環境変化)、それに先に述べた、企業にかかわる公租公課に対する政治の無頓着さ等がここにきて企業の背中を押したと考えられる。

ニッポン製造業、とりわけ中堅、中小企業を政府はこのまま無作為のまま放置すれば、近い内に大変な事態になることを自覚すべきと考える。

愛知県東郷町、トヨタの正にお膝元だが、そこで中小企業の廃業が始まりつつあるとのこと。

3月以降、金属加工、塗装、メッキ、樹脂成型を専業とする10社ほどの中小企業が経営存続を断念、会社を整理して従業員を解雇したことが報じられている。

70年代以降、世界で最強と云われるようになった日本の製造業、特にその裾野が広い、自動車産業の下部でほころびが始まった。

今ではグローバル市場の覇者と云われている韓国でも、多くの中間製品、部品、素材等を日本からの輸入に頼っているところが多く、その証拠に、昨年の対日本、貿易収支は約2兆7400億円の赤字となっている。

3月の大震災以後、中国、韓国が日本の中堅、中小企業の買収に奔走していると聞いている、

日本の製造業は、今や、はずみがついたように外に向かっている、これは「産業空洞化」の最終ステージに入りかけている段階と「選択12月号」は分析している。

この”point of no return”から引き還ることが可能かどうか、今後の政治力次第だと考える。

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鬼才「橋本左内」

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西郷隆盛(1827~1877)をして“吾、先輩に於いては藤田東湖に服し、同僚に於いては橋本左内を推す。二子の才学器識、吾輩の企及する所ならんや”と云い、左内の器量に驚愕したことが知られている。

橋本左内(1834~1859)は西郷より7歳若かったが、緒方洪庵の適塾出身に新進気鋭のサムライであった。

福井の出身、越前藩主、松平春嶽に登用され、越前藩の改革に努力するが、徳川慶喜の将軍擁立運動をしたことで井伊直弼による「安政の大嶽」で刑死した。左内弱冠、26歳の時であった。

その時、西郷が大久保利通に送った手紙に、左内が初めて西郷を訪ねてきた折、彼が若くて華奢であった為、軽くあしらったが、左内はそれを何ら気にすることなく、国事について、自己の意見を臆することなく述べた様を見て、西郷が、左内が“国の為を思う真心”に感心して、翌日、左内を訪問、自分の非礼を詫びたこと、“左内は一世の偉人なり、我が無礼、殆ど同士の士を失わんとせり”と書き送ったことが知られている。(産経、12月10日「教育」欄参照)

左内は彼が15歳の頃書いた「啓発録」に、推心を去る(子ども心を捨て)、気を振るう(勇気を奮い起す)、立志の上、学に努め、交友を選ぶ、と述べ、15才の少年にして、すでに高邁な志を持っていたことが判る。

幕政改革を唱えて、それを維持しながら、西欧の先進技術の導入、ロシアと提携する必要性を唱えて、開国論を支持した。その為、攘夷で揺れる幕末の頃、危険分子として警戒された。

安政6年(1859年)殿様、春嶽が隠居謹慎処分になった後、井伊大老の画策で小塚原刑場で斬首された。

井伊大老はその翌年、水戸の浪士に依って桜田門の変(1860年)で刺されて死亡するが、左内の他、吉田松陰、渡辺崋山等の偉人が処刑された安政の大嶽は有名である。

それは、アメリカ海軍が浦賀に開国を求めて来航した7年後、明治維新を遡ること、僅かに8年の頃のことであった。

(挿絵:桜田門外の変)

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「大草原の小さな家」

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「大草原の小さな家」はドラマとしてNHKで1975年から82年迄放映され多くのファンが生まれた。

アメリカではNBCの放映で1974年から82年までが全シリーズが放映された。

「小さな家」シリーズはローラ・インガルス・ワイルダー(1867~1957)の自叙伝的小説「大きな森の小さな家」(Little House in the Big Wood)全9作のうちの第3作「大草原の小さな家」(Little House on the Prairie)をテレビ用として編集したものであった。

このシリーズのオリジナルは1932年から1943年の間に二つのシリーズで出版され、さらにローラの死後1962,71、74及び2006年にも出版された、実話に基づく人気小説である。

ローラ・インガルスの幼少であった19世紀末のアメリカ中西部の生活を、ローラ自身が、第3人称態で書き下ろしたものである。

しかしこのシリーズは実話に基づいて書かれた話だが、一般の図書館では、自叙伝ではなく、小説として区分けされている。

ハーパー&ブラザース出版社(Harper &Brother’s)から売り出され、今ではアメリカ子供小説のクラシックとして広く読まれている。

話の始まりは、父親がウイスコンシン州に住んでいた家を売って、その当時では、オセージ族インディアンのテリトリー内の、カンサス州、インディペンデンス(Independence)に引っ越すところから始まっている。

その時、ロ-ラーは両親、妹のメリーと(marry)と赤ん坊、ケリー(Carrie)であった。

ローラの4~5歳の頃から、このストーリーは始まるのであるが、当然のことながら、ローラーはハッキリと記憶していない。

親切なエドワード氏にめぐり合って、父親が家を建てたとき、エドワード氏の助けを受けた話、井戸を掘る話があって、突然、家族の殆どが、そのときには未知であった、マラリアに感染する。

その時、ミセス・スコットの手厚いケアーで、やがて回復する話や、エドワードさんがローラとマリーに遠くからクリスマスに大きなChristmas Treeを運んできて、家にかざってくれた話、農場を始めるが、やがてその土地が政府から正式に割り当てられた処でない事を理由に、ローラの家族はそれらミネソタ州に移住する。

この話は、実際には、後日、ローラーが両親から聞いて綴った物語であることが判る。(ローラの当時、赤ん坊)

そのため、後になって、ローラはこれを実話として出版するにあたって、過去の出来事を、出来る限り史実に基づいて書きなおしたと云われている。

現在“インガルスの家”として1950年にマーガレット・クレメント(Margaret Clement)によって、カンサス州のモンゴメリー地区に、出来るだけ実話に従って、問題の井戸と共に、復元されて建っている。

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平成の徳政令「中小企業金融円滑化法」

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週刊ダイヤモンド12月17日号に依ると、“平成の徳政令”と云う別名で呼ばれる「中小企業金融円滑化法」が来年3月期限切れを迎えることで、今まで隠れていた倒産に近い状態にあった中小零細企業の破たんが表にでることで、帝国データー・バンクの仕事が忙しくなると予告している。

この政令の特徴は、中小企業が銀行など金融機関からの借入金などの返済を或期間に限って猶予すると云う性質の法令であった。

過去数年、倒産件数がほぼ横ばいで推移している最大の理由は、この「円滑化法」の効果によるところが多いと云う見方が強い。

本当の金融機関の隠れ不良債権の額は5兆円とも云われている。

条件変更の実行件数は約115万件(11年9月末調べ)にも上っているが、返済猶予を受けても、それは単なる引き延ばしに過ぎず、根本的な業績の改善が出来なければ無駄である。

今年の7月以降、円滑化法によ返済猶予を受けながら倒産した事業が急増しを始めている。(今年1~10月の累計:125件=昨年の3.5倍)

「円滑法」の期限切れに備えた金融機関はここにきて貸倒引当金の積み増しを始めていると報じている。

中小企業の“延命”を推進してききた金融庁だが態度を変化させ、事業の持続の可能性が見込めない債務者への「自主廃業」推進の協力を、はじめて、金融機関に対し求めた。

最近では「円高倒産」と云う特殊な現象もあり、世界中に不況の嵐が吹きすさぶ中、来年の日本経済にも、新春早々には肌寒い季節がやってくるのではと、今から怯えている。

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日本孤立か、再開国か?

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去る11月6日、中国政府は、予定されていた野田首相の訪中の中止要請を行った。

それを受けて、玄葉外相が中国に飛び、再度交渉を行ったが、中国には日本の真意は伝わらなかったと云うべきなのだろうか?

本日の新聞報道で、民主党政府が予定していた野田首相の来年1月の訪米を中止したことを知った。(毎日新聞、12月11日)

これは、日本側が野田訪米の中止を伝えたのではなく、アメリカ側の希望で野田首相が1月の訪米を止めざるをえなくなったと解釈出来なくもない。

筆者の憶測が間違っていたとしても、日本は世界の2大国、米、中との外交交渉は、当分出来なくなったと云うことである。

野田首相は、インド訪問以前に中国を訪問して中国になんらかの敬意を払う心ずもりであったのだろうが、あちらから「それには及ばず」と云われ、対アメリカの場合は、沖縄普天間基地問題の早期解決の段取りを説明してオバマ大統領の理解を得る心ずもりでいたが、これも実現不可能となった。

国会の最終日に、二人の閣僚が問責決議にかけられ採決されたが、更迭を見送り、人事の刷新を行わないことを述べた。

これは明らかに、政権内部の突き上げによる「苦しい決定」であったことは誰の目にも鮮明である。

11月の首脳会談で首相が、アメリカ側が強く求めた環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への交渉参加、前述した、米軍普天間飛行場の移設問題などに一定の回答を行い、通常国会開会までに「新たに示せる材料がない」(外務省幹部)ことも見送りに繋がった。

首相は来年早々、消費税率改訂を自ら約束している、これについても野党はおろか、民主党内部でも反対の声があり、これでは、新年からの国会は大荒れになること必定と考えられる。

協調与党の国民新党の提唱している「郵政問題」も棚上げのままになっており、小沢一郎勢力下の80名以上の若手議員が、もし年明けまでに、新党結成に走れば、民主党は崩壊せざるを得ない。

「大阪維新の会」の行動も今後、目の離せない政治問題に発展しないとも限らない。

それに加えて、東日本大震災の後始末は正に、急務の難問題。

「日本列島」を再び、鎖国状態にしないように、21世紀の「平成維新」をおこす覚悟で、国民の再決起を叫ばねばならなくなった。

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大阪の変身なるか?

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大阪における府知事と市長の所謂「ダブル選挙」は橋本徹大阪元府知事が大阪市長となり、大センセーションを巻き起こす事態となった。

橋本氏の市長就任は12月19日からだが、橋本氏は早くも12月5日、「大阪維新の会」の市議団の控室に現れ、市の幹部から説明を受けた。

議会のフロアーは市庁部外となるので、就任前の出入りも問題ないと判断したようである。

新市長は報道陣に対して「先ず、行うことは市役所の統治機構を変える。」と述べ、補助金や外郭団体の見直し、職員給与の削減などに取り組むことも明言した。その後、12月27日に府市統合本部の初会合を開くと明言した。

これらの発言を聞いた職員達が感じたであろうことは説明を要しない。

野田内閣が、今国会中に行うことを目指していた、公務員削減と給与のカットの案件はアッサリと民主党内の造反に合い、お流れとなったばかりである。

橋下市長の構想では、府市での事業を一度総合的に突き合わせて、無駄を省くことを第一の目的にしている。

即ち、一元化。司令塔と財布を一つにして、大阪全体を考え、二重の構造になっている処を洗い出して、新しい行政の仕方を考え直すと云う構想は、正に筋の通った考えである。

地下鉄、バス、ゴミ収集等を自治体の本対から切り離して効率の良い仕組みに作り直すとは明言しているが、これらの機構には永い間の“しがらみ”がはびこっていて一筋縄では行かないことは誰もが考えている難関に一つであろう。

これから新市長の誕生が迫るに従い、険悪な空気が漂っている大阪市庁舎、この頃,    早くも橋下氏の周辺は二重、三重に、SP(警護員)が張り付いて警備に努めているらしい。

京都の地下鉄が、日ごとに何千万円の赤字を出しているが、これを民営化して人員数を適正に保ち、職員の給与を民間、世間並みの額に修正すれば、途端に、赤字が消えることは経理に疎い筆者でも判断できることである。

しかしこれを民営化して、見直すことは京都では、今のところ不可能とされている。

先ず、橋下大阪新市長が、数年以内に、地下鉄、ごみ処理、バスの3事業を民間の経営に仕立て直すことが出来るかどうか見守って行きたいと考える。

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「文化財」は誰のもの?

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国の規定する文化財には、国宝、重要文化財と戦前からある、重要美術品の3段階からなっている。

筆者の知る限り、文化財に対して「国宝」と云う規定を設けている国は世界中で日本だけではないかと思っている。

世界遺産「古都京都の文化財」に指定されている17社寺・城や大学、行政代表が一堂にこぞって「明日の京都 文化遺産プラットフォーム」の第一回フォーラムが7日、立命館大、朱雀キャンパスで行われた。近藤誠一文化庁長官、金閣寺と銀閣寺の代表者、有馬管長、いわゆる有識者等が集まって文化財の保全について討議したことが報道されている。(京都新聞、第一面)

筆者の考えるところ、国宝とは文字通り、国の宝であり、即ち、国民の宝でもある筈が、所持して、それを自由に私的な商売の種として利用している宗教法人について、国は何らかの方法で規制を設けてもよいのではないかと思っているのは、ただ筆者一人だけではないと思っている。

国宝を一般国民に見せることを宗教行為として認め、その収入を課税の対象から除外していることは国民の感情から許せない。

何故、我が国は宗教法人を特別扱いして、野放しの状態にするのかも判らない。

オウム事件から略10年、オウム教団は解散したが、未だその分派が活発に活動を行っている。

「池田教」の異名を持つ、創価学会も健在で、政治活動を国会の場で展開しているが、それについても国民は疑問を抱いている。

昨日のフォーラムでは有馬氏は最近、文化財を保存している社寺の周辺にまで民家が密集しだして火災の危険が増している、この事態について、国家の補助を要請しているともとれる発言をしている。

京都は過去に仏教界と対峙して苦い経験を味わっているので、寺に対して強い発言を控えていることは事実である。

観光寺は夜間、庭園の「ライトアップ」で収入を増やしているが、これも宗教行為と認めて、収入を課税の対象から除外しているのであれば問題である。

これの「線引き」は国家がキッチリと規定して国税庁に通達しなければならないと筆者は考える。

国の定める文化財が、個人でなく、宗教法人の所有とすれば、国はそれらの管理費用は国で持たなければならないが、それらを公開して生ずる「利益」は、必要経費を除いて、すべて課税の対象とすべきだと思う。

これについての判断は、地方自治体でなく、国が国会の場で総意によって決め

なければならない。

これはそれほど重大な問題であると思っている。

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年賀ハガキと郵便事業のよくない噂

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年賀ハガキが一枚46円で金券ショップで売られていることを知った。

(選択12月号)

これはどういうことかと詳細を読むと概略以下の通りである。

亀井静香氏がかって郵政担当大臣のとき、「非正規社員の正社員化」を提唱したこともあったが、それが、今では雇い止めどころか、人員整理の嵐が吹き荒れていると云う。

郵便事業会社(真鍋眞一社長)では、9月末、日本通運」(ペリカン便)との事業統合を経て発足したJPエキスプレス(JPEX)で拡大し続ける赤字の穴埋めに、4 万6000人と云う大規模人員整理に着手したが、これが災いして都市部、特に首都圏近郊の大規模支店、集配センターでの人員不足による集配作業に大混乱を起こしている。

契約社員とパート(ユーメイト)で賄ってきたが、9月末で65歳以上のユーメイトが「雇い止め」になったがため作業の遅滞が始まったらしい。

郵便番号によって配達物を仕分けるに際して、いわゆるベテランのユーメイトが解雇になったことが、仕事の遅延を生みだす主な原因とも云われる。

このような不具合が全国で起きていて郵便会社の根幹の郵便配達が根本的に行えなくなっているのが実情。

郵便事業の最大の繁忙期である年末年始の業務の遂行がこれでは心もとないことになりかけているらしい。

人員整理の規模が4万人超で、それも、各地域の現場の勤務実態のことを配慮せず、極めて画一的整理解雇を行ったことが問題の原因とも云われてる。

「平成22~23年度における人件費削減に向けた取り組み」と題する社外秘文書(今年1月)によると、会社として必要な人件費削減額、約320億円が明記されていて、それの実現のため、約15万人いる契約社員とパート社員のうち、9月30日時点で「65歳以上」と「雇用期間の短い者」の雇い止めを指示、約4万6000人がそれに該当すると云われる。

1枚46円の年賀ハガキの出所は、社員達であり年賀ハガキ販売のノルマを課せられた者たちが売れ残ったハガキを自腹を切って買い込み、結果的に金券ショップに持ち込んだらしい

郵便事業は、国民生活を支える重要な物流インフラ。1日に約6400万通の郵便物を全国約3100万の所帯や事業所に届ける(2010年度調べ)それに、裁判関係書類、保険証やキャッシュカードなどの重要書類も郵便で配達され、山間部や離れ島まで全国あまねく張り巡らされたネットワークは極めてきちょうであり国民生活を支えてきた。

去る、2010年7月1日JPEXの事業開始の際、業務が大混乱をおこして遅配が各所でおこり困った事態になったことは未だ記憶に新しい。

その際、郵便事業会社が総務省に提出した書類では、「各支店の正確な情報が本社まで適時に上がって来なかった」ことが判断の誤りや、遅れが生じたと総括した。

看板だけは民間企業と称しているが、その実態はお役所以上にお役所と云うのが大方の意見。

もはや、これほど国民生活にとって重要な事業を、素人の役人上がりの連中に丸投げの形で放置しておくことは許されないことであるとは筆者の感想。

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京都市の道路事情の特殊性批判

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京都は古い都市である。その町並みは殆ど碁盤の目のように東西南北の道が交差している。

それに引きかえて東京都などは町並みが京都のように画一化されていない。

京都と同じようにニューヨーク・マンハッタンの町並みも、東西南北が碁盤のように造成されている。

ニューヨークの場合、筆者の記憶が正しければ、半世紀も以前に、すべての道路を一方通行にした。

それで今では、ニューヨーク市民のドライバーは、どの路がどっちの一方通行であるかを知っている。

東京も大阪も、すでに何十年も前から、市内の主要道路を一方通行に規制している。

大阪の御堂筋は、かなり広い街路であるが、とっくに一方通行に規制した。

筆者は生粋の京都人であるが、京都人として残念に思うことの一つに、政治力の欠如がある。(決断力、判断力の欠如)

世界一の商業都市であるニューヨークが、モータリゼーションの時代に対応すべく、半世紀前に、全ての道路での車の進行方向を一方交通にした訳が何処にあったかに心を致すべきでないかと思う次第である。

筆者はこれまで、世界の多くの大都会を見てきたが、100万都市で一方通行制を導入していないのは恐らく我が町、京都だけではないかと疑っている。

一方通行制のメリットは、先ず、車の接触事故が減ること、交差点で発進する前、ドライバーは一方方向のみに注意していればよいので「疲れない」。

自分の目的で、どちら側にも車を止められるので便利。特にタクシーは客の要望でどちら側にも止められることが出来るので営業し易くなると聞いている。

一方通行制の最大のメリットは「商売繁盛」であることと、道路が広く使えて街に活気が生まれることが挙げられる。

とかく、あの路は、どちら側の方が商売にむくとか、むかないとか云う人があるが、一旦、一方通行にすれば、そんな心配はなくなること請け合いである。

今、話題に上っている自転車の通行規制問題にしても、「自転車専用道路」を作って、自転車にも一方通行を強制することを推奨したい。

これによって、市バスも一方通行になるので、両側通行より一車線、道路が広く使えることになり、市内の交通渋滞の解消につながるのではと思われる。

とにかく、アメリカは自動車の問題に関しては我が国より可なり先輩である。

ニューヨークのような大都会が半世紀も前に「一方通行制」に踏み切ったのであるから、そのことだけでも、「それは何故なのか?」を検索して、学べることがあれば取り入れることが良いと思考する。

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自動車の自動スターターの発明者

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車の自動スターターの発明者はチャールス・ケタリング(Charles Kettering1876-1958)である。

(セルフ・スターティング・イグニッションとは、電気でクランンクシャフトを動かし、エンジンを始動する画期的な発明とされている。)

このスターターをGMが実際に当時の最高級車であったキャディラックに採用したのは、1911年、2月17日であった。

この発明によって運転手が手動でクランkを回す必要から解放されたのであった。ケタリングはこれでパテント(#1150525)を取得した。

現在ではキーを入れるだけで始動する車ばかりで、「自動スターターのボタン」を知らないドライバーが殆どだが、「イグニション・コイル」が無かった時代では車を始動すること自体が大変な仕事であった。

昔の映画で、飛行機のパイロットが飛び立つとき、前方に回ってプロペラを手を使って回すシーンを覚えている人は多いと思う。これも現在ではキー一つでプロペラを回転させることが可能になったのは、ケタリングの発明のお陰と云うことになる。

ケタリングは米国オハイオ州ラウドンビル生まれの、発明家であり社会哲学家であった。

生まれつき弱視であったが、オハイオ州立大学で電気工学を専攻し、間もなく近隣の工業都市、デイトンに出て自動車工学の研究に没頭、1909年にDELCO(DaytonEnengineering Laboratorie Company)を創設、1914年にはエンジニアーズ・クラブ・オブ・デイトンを結成、第一次大戦に参戦している。

デルコは1920年ゼネラル・モーターズ(GM)に合併されたが、その時、ケタリングは自分の特許をGMに売却する代償として、GMの株式を取得、同社の役員になったと云われている。

その後、彼はゼネラルモーターズ・リサーチ・コーポレーション(GRC)の副社長として迎えられ、その後実質的にGMの研究所の引率者となった。

ケタリングはエディソン程有名ではないが、一生の間で300以上の特許を得ている。

以下、簡単にケタリングの功績についてwikipediaから拾ってみることとする。

“20世紀初頭、オハイオ州西部の都市デイトンは米国の工業都市の中でもリーダーとなっていた。自動車関連の研究のため、エドワード・A・ディーズとともに、1909年、デルコを創設を創設。その後、この二人は事業においても、専門家としても、又、個人としても生涯の友となった。

ケタリングはアメリカに於いて300以上の特許を取得している。NCR時代にはモーターを動力としてレジスターを電動化(1906)

バッテリーを利用したイグニッションシステム(点火装置)として「高圧点火システム(1910)、自動車での電気式のセルフスターター(セルフモーター)(1911)、電気式ヘッドライトの発明がある。

ケタリングの発明をディードがキャディラックに売り込んだ。それは、クランク逆回転による怪我が元で有人を無くしたキャディラックのヘンリー・リーランドからの要請にこたえた結果であるとされている。

その他では、携帯用ライト、第一次対戦で使用された「エアリアル・トピドー」(空中魚雷)、別名、ケタリング・バグ(ketterling Bug)、性病の治療法、未熟児保育機、エンジン使用の発電機(デルコと命名)

デュポン社から発売された自動車塗装用塗料{Duco}等々。

ケタリング発明になる有鉛ガソリンはアンティノック剤エトラエチル添加の高オクタン価(ハイオク)有鉛ガソリン(1921)は人類に有害と云う判定を受け(現に多くの犠牲者を生んでいる)1960年代に環境問題となり、1974年に訴訟問題となった。

もうひとつ、ケタリングの発明した物質で世間の批判の対象となったものは、フレオン・ガスである。(米国特許1928.12.31)は広く冷媒剤として使用され、家庭用冷蔵庫にも見られる。今では使用禁止となった。

その他、ケタリング大学、ケタリング・癌。センターがある。1955年デイトン郊外にケタリング市が誕生、その最高級住宅地でアメリカで最初のエアコン付き住宅が生まれた。

名言:“999回失敗しても、1回うまくいけばいい。それが発明家だ”

   “過去に興味は無い、未来に興味がある。何故なら、そこで残りの人生を過ごすことになるから 

    だ”

   “自由に開かれた心があれば、必ず地平線は開ける”

   “発明家は学校で教わったことなど、あまり重視しない”

外部リンク:Kettering Foundation (http://www.Kettering.org/index.html)

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「沖縄米軍基地」話し合いの落としところ

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民主党は果たしてプロの政治家集団か、それとも素人の集合体か?

2009年10月、民主党が政権の座についてから、“やることなすこと”すべてが出鱈目でしかない。

鳩山由紀夫氏が衆院選挙で“沖縄米軍基地は、少なくとも県外に移転”を公約して政権を自民、公明連合から勝ち取ったと国民の誰もが思っている。

民事の場合でも、このような重大事項について、約束を履行しなかった場合、恐らく詐欺罪に問われても仕方がない。

しかるに民主党を代表する代議士さん達は、これまでに度々、アメリカを訪問して沖縄基地についての会談を行っている。筆者は果たして、彼等はアメリカ政府とどんな話し合いを進めているのだろうかと質問した気持ちである。

米国務省の日本部長が“沖縄は日本政府に対する、誤魔化しと強請りの名人”と、うっかり本音を披歴したが為に更迭された(メア発言)が筆者はメア部長の云っていることは、当たらずとも遠からずとの意見を持っている。

この重大な局面を迎えて、自分から防衛問題については全くの素人と認めている政治家失格の人物が、適材適所に指名された大臣とは決して言えない。

こんなことを聞いたアメリカは、今後、そんな、何も過去の経緯も判っていない担当者と、沖縄問題を討議する気もおこらないと云われらばお終いである。

従って一川保夫防衛大臣は即刻に更迭されて当然と思う次第である。

昨日、一川大臣と中井真沖縄知事の対談の場面をテレビで見ていて、これは正に主客転倒でしかないと思った。

玄葉外務大臣、今回の防衛大臣達が沖縄知事の前で平身低頭している時、沖縄知事の表情は正に傲慢無礼としか視聴者には映らなかった。

もし、沖縄知事、沖縄県人のすべてが、如何なることでも、普天間に米軍基地を置くことに本心から受け付けない覚悟ならば、何故、交渉をこれまで延々と続けることがあるのだろう?

沖縄の知事に“交渉次第では移転を認めても良い”との考えがあればこそ、態度を保留して、政府との交渉を続けているのではないのだろうか?

“沖縄島民の心を踏みにじるな”、或いは、“政府は誠意を示せ”ということを繰り返して相手の出方を見ていることが、昨日の中井真知事の態度にはっきりと見て取れる。

これは、まるで交通事故の加害者と被害者の間のやり取りのようにしか見えない。

先日の政府と沖縄知事との折衝では、大凡、3000億円の政府保障で折り合いがつくかに見えたが、数日前の防衛省職員の失言と、野田首相の公式謝罪から、そんなことでは済まされないぞ、と中井真知事の傲慢な態度が、そのことを論外に語っている風に見受けられる。

沖縄基地問題は大きな外交問題なので、沖縄知事も大物らしく国との折衝にあたって欲しいと考える。         

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秀作の鎌倉彫刻の発見

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愛知県、美浜町の大御堂寺(オオミドウジ)で最近、鎌倉時代の阿弥陀如来立像が発見された。(産経新聞、12/3、写真)

寄木作り、高さ、79センチ、の見るからに鎌倉時代彫刻様式の特徴を備えた(写真から推察しても)秀作と見受けられる。

同寺では、昔から作者不明のまま厨子に保存されていたが、富山大学の松浦正昭教授が、今春から調べていたところ、これが岡山、東寿院の快慶銘を持つ阿弥陀如来像と、その特徴が類似することを知り、さらに詳しく調べたところ、大御堂寺の阿弥陀仏の足部分にあるホゾのところに「応永33年(1426)、阿弥陀如来親鸞上人御彫刻、再興願元:道円」の墨書が見つかった。

さらに詳しく調べたところ、そのときの修理で胎内から納入品が取り出された形跡がX線調査で判明した。

この仏像の左足が前方に踏み出している様は、亡くなった人を迎える“来迎”の形式だとのこと。(非常に興味あり)

これには東寿院の阿弥陀のように快慶の銘文は見られないが、法然の入滅の折(1212年)に弟子の親鸞が、この阿弥陀像を仏師に彫らせて供養した可能性は大いに考えられることである。

筆者は、例えこの阿弥陀立像が快慶作でなくとも、日本の仏教彫刻史研究の上で、一つの確実性の高い「傍証」の材料となることで興味深い発見と考える。

(同像は12月5日から22日迄大阪市中央区本町、丸紅ビル「文化力の旅ラウンジ」で公開される。(有料)

(親鸞上人(1173-1262)は浄土真宗を開いた鎌倉時代の高僧、日野有範の子、京都生まれ、9歳で出家しえ、20年間比叡山で修業を積み、下山して、浄土宗の開祖、法然(1133-1212)について「念仏」に励んだ。

「念仏」が法度となり、罪を課せられ、法然は土佐に、親鸞は越後に流罪となった。法然亡き後、その遺志を継いで、教えを広め“南無阿弥陀仏を唱えて浄土に行く”教義「浄土真宗」を確立した。)

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或る「ゴールド・ラッシュ」の後日談

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カリフォルニア・リパブリック(California Republic),は別名、ベアー・フラッグ・リパブリック(Bear Flag Republic)と呼ばれた。しかしながら、これは全くの幻の国に終わった。

カリフォルニア地方に無断で入り込んできた入植者達が、”ソノマ”の町で、政府が、いずれメキシコと相談して、この地方が、アメリカに組み入れられることを見越して、1846年6月14日に「独立宣言」、大げさな気勢を揚げたが、その26日後、アメリカの正規軍によって解散させられた。

そのとき、デザインして、作った「星と熊」をあしらった”The Bear Flag”だけが有名になり(カリフォルニア州旗)後日、これを熊の旗事件と呼ばれるようになった。

(Bear Flag Revolt)

アメリカの歴史では、この後に起こった事件の方が遥かに重大な結果を生んだ。

ジェームス・ウイルソン・マーシャル(James Wilson Marshall,  1810-1885)の名前を知る人は極く少ないが、彼こそがアメリカのゴールド・ラッシュの本当の発見者であった。

彼は腕利きの水車大工であった。彼は18歳で苦労を重ねながら、東部から西部に1845年に、幌馬車とともに到着して、すぐに、ジョン・サッター(John Augustus Sutter,1803-1880)の経営する大農場に大工として雇われた。

マーシャルはそこで懸命に働き、間もなく、サターの所有地の近隣のサクラメント渓谷に数百エーカーの土地と放牧用の牛を飼育できるようになった。

マーシャルの不運は、1846年、ジョン・フレモント(John C Fremont ,1831-1890)の起こした、ベアー・フラッグ・レボルトに参加したことであった。

彼が自宅に帰ってみると、彼の所有の牧場から、全ての牛が盗まれていた。

そこで、マーシャルは仕方なく牧場を売却して、再び、サターと共同で製材所を経営することとした。

それは1848年1月24日の早朝のことであった。

彼は水車を作るため、その前日に、川を深く掘り下げる工事を行った。

そのため、これまでその周辺に溜まっていた、屑や泥がきれいに流され、川底まで見通せる状態にあった

翌朝、マーシャルが、澄んだ河底に発見した光る物体こそ「金」であった。

マーシャルは信じられない気持で、それをパートナーのサターに見せた。

サターは手元にあった百科事典で調べ、それがまさしく「金」であることを確認、すぐさま、すべての社員を集め、口頭でこのことを外部に秘密にするように命令した。

しかし、この金発見のニュースは数カ月も経ずしてサンフランシスコ迄届いていた。

これがゴールド・ラッシュの始まりである。

この勢いは、バッファローが突然と走り出し、たちまち周辺の障害を、なぎ倒す、“スタンピード(stampede)に似て、文字通り、世界の各地から無数の人間が「金」に向かって押し寄せてきた。

無秩序で、規範のない群集が、五万エーカーを超える広大な”サター砦“(Sutter’s Fort)に押し寄せ、全てをなぎ倒し、盗んでいってしまった。

金の最初の発見者、マーシャルとサターは、牛や穀物、個人持ち物一切と、従業員を含め、二人の全ての所有物が、いつの間にか何処かえ消えてしまった。

特にサターの場合、悲劇はさらに深刻であった。

その7年前の、1841年には、永い間放置されるままになっていた、サンフランシスコの北にあった、ロシア一のロス砦(Fort Ross)を三万ドルで買収、彼が永らく抱いていた夢の完成がまじかに迫った感があった。

4年前の1844年には、息子や、彼の家族全員を呼び寄せて、サター砦を

移住民に開放、メキシコ戦争の開始の2年前(1846年)、(アメリカがカリフォルニアの実質的支配を取得するまで)、政府との取り決めで、周辺の警備の役目を買って出る程であった。

皮肉にも、米墨戦争終結の直前になって、ゴールド・ラッシュが始まった(1848年1月24日)。

それまで栄華を誇っていた「サター帝国」は、その砦とともに灰燼に帰し、サター家は倒産した。

John Augustus Sutterは、その後の人生を、政府と州政府を相手として損害賠償を訴え続けたが、そのため心身をすり減らし、1880年、ワシントンに向かう旅行中に急死したと伝えられている

これは正に悲劇と云う他形容しがたい事件であったが、世界中が金発見の騒ぎで浮かれている中ではかき消されてしまったと思われるが、実際に起こった悲しい歴史である。

ゴールド・ラッシュの模様を自ら訪れてその異様な模様を取材した、マーク・トウエインがこれを書き漏らしたとは思いたくないが、筆者は未だそれを調べることをしないで忘れている。

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