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鬼才「橋本左内」

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西郷隆盛(1827~1877)をして“吾、先輩に於いては藤田東湖に服し、同僚に於いては橋本左内を推す。二子の才学器識、吾輩の企及する所ならんや”と云い、左内の器量に驚愕したことが知られている。

橋本左内(1834~1859)は西郷より7歳若かったが、緒方洪庵の適塾出身に新進気鋭のサムライであった。

福井の出身、越前藩主、松平春嶽に登用され、越前藩の改革に努力するが、徳川慶喜の将軍擁立運動をしたことで井伊直弼による「安政の大嶽」で刑死した。左内弱冠、26歳の時であった。

その時、西郷が大久保利通に送った手紙に、左内が初めて西郷を訪ねてきた折、彼が若くて華奢であった為、軽くあしらったが、左内はそれを何ら気にすることなく、国事について、自己の意見を臆することなく述べた様を見て、西郷が、左内が“国の為を思う真心”に感心して、翌日、左内を訪問、自分の非礼を詫びたこと、“左内は一世の偉人なり、我が無礼、殆ど同士の士を失わんとせり”と書き送ったことが知られている。(産経、12月10日「教育」欄参照)

左内は彼が15歳の頃書いた「啓発録」に、推心を去る(子ども心を捨て)、気を振るう(勇気を奮い起す)、立志の上、学に努め、交友を選ぶ、と述べ、15才の少年にして、すでに高邁な志を持っていたことが判る。

幕政改革を唱えて、それを維持しながら、西欧の先進技術の導入、ロシアと提携する必要性を唱えて、開国論を支持した。その為、攘夷で揺れる幕末の頃、危険分子として警戒された。

安政6年(1859年)殿様、春嶽が隠居謹慎処分になった後、井伊大老の画策で小塚原刑場で斬首された。

井伊大老はその翌年、水戸の浪士に依って桜田門の変(1860年)で刺されて死亡するが、左内の他、吉田松陰、渡辺崋山等の偉人が処刑された安政の大嶽は有名である。

それは、アメリカ海軍が浦賀に開国を求めて来航した7年後、明治維新を遡ること、僅かに8年の頃のことであった。

(挿絵:桜田門外の変)

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