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ミシシッピーの蒸気船の時代

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19世紀の初頭、フルトン(Robert Fulton,17651815)がニューヨークからハドソン川を遡り、キャピタルのオルバニー(Albany)迄を蒸気船航行を成功させたことで、アメリカの交通事情は急変した。

アメリカ五大湖の一つ、エリー湖迄に運河が完成(Erie Canal)した1825年頃までに完成、オハイオ川(Ohio River)まで船旅、物資輸送ができるようになった。

そこからは、自然にミシシッピーに出ることが出来、定期便でニューオリーンズ迄の交通路線が完成した。

初期の蒸気船は速度も遅く、騒音を発する怪物のような代物だったようだが、これで初めて風向きに関係なく川を上下出来る手段が確立された。

商業的に東部から南部まで蒸気船を導入することを考え付いたのは、第26代大統領、テェオドール・ルーズベルトの祖父の兄弟にあたるニコラス・ルーズベエルト(Nicholas J. Roosevelt)であった。(OhioArchaelogical and historical Quarterly Vol.16,No:3 July 1907,pp 310-315)

1809年に、43歳のルーズベルトは、新婦ラトルーブ(LaTrobe)を伴って、その頃では稀な個室つき平底型の豪華な蒸気船で、5人の乗組員とともに、冒険的新婚旅行を企画、ニューヨーク、ピッツバーグを経て、オハイオ川からミシシッピーに入ってニューオリンズまで下る事に成功した。

ルーズベルトはその途中、川の流れの速さ、川の深さを測定、地図を作製したと云われて入れる。その翌年の、1810年ルーズ、ヴェルトは再、シンシナティーでエンジンを改良して「ニューオリーンズ号を完成、おなじ行程での蒸気船のビジネスを目的とした旅を行って、後に繁栄をもたらしたミシシッピー航路ビジネスの先便を付けた。

ここに至るまでには、ルーズベルトは、ニューヨークの資産家で、第三代大統領:ジェファソンの指名で、ナポレオンとルイジアナ購入の交渉に尽力した、ロバート・リヴィングストン(Robert Livingston1746-1813),ならびに、蒸気船の発明者、ロバート・フルトン(Robert Fulton,1765-1815)等とともに航路の就航の研究を行った。

後にマーク・トウエインが書いているように、ミシシッピーは常にその形態を変化させいる。

上流で大雨が降った場合には、水かさが急に上がって、沿岸の土手が崩れ落ちたり、大雨で流れてきた流木が水底に突き刺さり、いたるところに難所を作って、水先案内人やパイロットを悩ませることが度々起こった。

何といっても、ルーズベルトのニューオリンズ号の就航によって、大河ミシシッピーを遡って物資や人を上流に輸送出来ることが可能になったことは意義深い。

南北戦争後、ミシシッピー・リヴァーボートのビジネスは最盛期を迎えることとなる。

その頃にはミシシッピー川とオハイオ川には1万隻以上の外輪船が運航していたと言われている。

その昔“ショーボート”と云うハリウッド映画を見た記憶があるが、ミシシッピーを上下した豪華船の中には、贅を尽くした客室、バー、豪華レストラン、200人以上」も収容できるメーン・ホールにはクリスタルのシャンデリアに豪華な絨毯が敷き詰められていた。

南北戦争後には最高水準の装備と、エンジンを持った船同士のスピード競争がしばしば行われたそうだが、その中で最も有名を馳せたイヴェントは、当時では          スピード・ホールダーの名をほしいままにしていた、ナチェス号にロバート E・リー号(Robert E,Lee)(挿絵)が挑戦、後者が勝利を博した。(1870)。

間もなく、大陸横断鉄道の完成を見てからは、蒸気船は次第にその数を減らしていき、20世紀を迎えるころにはその姿は見られなくなった。

現在では「デルタ・クイーン号」が歴史指定物として、シンシナティからニュオルリーンズ間を就航しながら、古き良き時代を懐かしむ観光客の人気を集めている。

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