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日本最初の戦争「活動映画」

Empress_china Photo

アーネスト・エノロッサ(Ernest Fenollosa,1863-1908)が大森貝塚の発見者、エドワード・モース(Edward Sylvester Morse,1838-1905)の紹介で来日したのが、明治11年(1878年)8月であった。

フェノロッサは最初、東大の哲学、政治学科の教授の肩書であったが、仏教排斥運動で多くの歴史的遺物が軽視され、文字通り「二束三文」で売り買いされている状態を見るにつけ、次第に「日本美術工芸」に興味を持ち研究を始めた。

筆者の想像だが、その頃、大阪、北浜で古美術業を営んでいた山中吉郎兵衛と遭遇、将来、東洋美術を欧米に輸出することを奨励したのではと思っている。

吉郎兵衛は兄弟、吉兵衛の養子、定次郎を海外に派遣して家業の海外進出を画することなった。

た。

定次郎が「山中」の代表として、従兄の繁次郎と渡米を果したのは明治29年(1893年)11月のことであった。(SS.Empress of Chana,写真)

定次郎一行がアメリカに到着して、そこで、フェノロッサ、モース及び、フェノロッサの終生の有人、富豪のスタージェス・ビゲロー3氏に手厚く迎えられ最初の店舗の周旋をもらって、ニューヨーク、ウエスト27丁目にて、山中の海外事業出店を果した。

幸い当時の東洋ブームの風潮に助けられ、その5年後の1898年(明治33年)には第2号店をボストン市に出すころには、日本の工芸品だけではなく、ハーバード大学付属美術館「フォッグ美術館」、「ボストン美術館」、ニューヨークの「メトロポリタン美術館」やワシントン市の「フリアー・ギャラリー」等を対象に、中国美術を中心とした考古学資料の売買を手掛けるように発展していった。

折しも日本は、その間、日清戦争に続いて、1904年に始まった日露戦争に勝利、途端に日本が世界から注目を集めることとなった。

定次郎は、エディソン会社のの制作になる、「キネマトグラフ」と云う、日露戦役での「黒木軍の鴨緑江の大勝利」と「旅順港の攻撃」の長巻2巻を購入して、これの上映に必要な一切の器具及び装置を入手、自らそれら携えて帰国、大阪道頓堀の中座で公開した。(写真)

その頃、大国、ロシアに大勝して国中が湧いていたところであったのと、日本での最初の「活動写真」の珍しさが重なって長期にわたる大興行となって、本業以外の部門での可なりの収益を納めたことは、「山中」の名を計らずも世間に広めることに役だったと言えるエピソドであった。(「山中定次郎伝」1939年より抽出)

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