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気骨に満ちた国際的外交官、牧野伸顕

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牧野伸顕(まきの・のぶあき)、は1861年(文久元年)大久保利通の二男として生まれる。生後間もなく、利通の義理の従兄兄弟の牧野吉之丞の養子となる。吉田茂の岳父。 

明治4年(1871)、父や兄とともに、岩倉具視遣欧使節団の一員として渡米、フィラデルフィアの中学に入学、そこで英語力を習得したと思われる。(3年間)その後、東大を中退、外務省入省、ロンドンに赴任、伊藤博文の知己を得る。

その後は、福井県知事、茨城県知事、文部次官、オーストリア大使、イタリア大使を歴任する。

第一次西園寺内閣で文部大臣、第二次西園寺内閣で農商務大臣。第一次山本内閣で外務大臣となる。

第一次大戦後のパリ講和条約では、西園寺の要請で次席全権を務め、英語の出来なかった西園寺を助けて会議での各種委員会でのリーダーとして重責を果たした。

牧野伸顕は日本全権として、ウイルソン大統領が提案した「国際連盟規約委員会」に於いて、連盟規約に人種的差別撤廃条項を入れるように提案(1919年2月13日)した。

当初、この提案は多くの植民地を持つ、イギリスや、白豪主義政策をとるオーストラリアなどの猛反発で一度は退けられたが、当時まで西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア、アイルランドなどの賛成を得た。

その後、続いて討議され、4月11日の最終委員会に於いて、牧野は代表して、連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文面の修正案を作成し、再度提案した。

イギリスの反対にも、牧野はひるむことなく、「修正案はあくまで理念であるので、個別国の事情や国内法に関わるものでないことを強調、もしこれを拒否する国家は、人種(他国)を平等視していない証左だとの見解を披歴して修正案の採決を求めた。

この修正案は採決の結果、出席16票中、11票の賛成(フランス、イタリア他)を得るに至り、賛成多数で可決を伺わせたが、議長国のアメリカ大統領ウッドウロウ・ウイルソンの反対に加え、何処からともなく、突如として唱えられ出した「重要な議題については全会一致が不可欠」と云うことで日本の提案は否決された。

牧野伸顕は、その後、急いで議題を次に進めようとした、ウイルソン議長を遮って、日本代表団の提案した議題について過半数の賛成票があった事実を明確に記述するように要請して、了承された。

日本は終局的に以前、ドイツが保持していた清国の山東半島の権益継承を獲得したが、これは、牧野の提唱した抗議への見返りであったとも考えられる。

ウイルソン大統領はアメリカ南部ジョージャー州、オーガスタの出身で、南部人の投票を粗末には扱えず、南部人の立場上、反対にまわった事は、やむを得なかったのかも知れない。

残念にも牧野の外交官としての活躍はそれまでで、1935年内大臣を辞し、清貧を貫徹、一生を終えた。(1949年)

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