« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »

政治家・橋下徹

Photo

橋下徹氏は大阪知事時代から独裁者衆望的発言を行っていることから独断的性格の持ち主には違いない、それは今回の「国歌規律」令や、大阪市職員に対するかなり厳しい対処の仕方からも世間から危険視される性格的要素があることは間違いない。

自分も地方公務員と云う視線からお互い公平で論理的にすべてを貫徹する姿勢が見せられるか否かが、これから始まる橋下市制に「外野」からの視点が集中することだろう。

維新の会の発足と同時に何千人の応募があたらしいが、その内の何%の生徒が正しい政治手腕を学べるかどうかも未知数で、今から騒ぎ立てるのは時期尚早と思う。

堺屋太一、古賀茂明、渡邊美喜男、石原都知事等々賛助メンバーは多士済々だが、彼等とて極端にいえば“風見鶏”的集団であるかも知れない。

現在の橋下旋風のそもそもの根源は不甲斐なさすぎる「民主党」の政治から不可避的に起こった現象ともとれる。

ファシズムは極右思想と日本では看做されているが、むやみに恐れるものではないと思う。どんな国にも「右派」も「左派」、も存在する、常識のある人間は成長すると共に軟化して「極端」には走らなくなるもので橋下氏の言動一つ一つを捉えて彼の性格を決めつけることも時期尚早と考える。

唯、日本には確固たる世界観の理念をもって国を速やかに誘導し導く能力を備えた政治家がいない。

戦後の日本のリーダーは誰一人として自己の理念を信念で貫徹出来た人物は皆無であった。

戦後のアメリカ占領時代の憲法を一語一句見失わないように忠実に守ることを金科玉条として65年間空費したに過ぎない。

昨年の東日本大震災は余計な付加を日本に押し付けた。これで国家予算にも可なりの狂いが生じたが、そのために沖縄の軍事基地問題を放置できない。

普天間が駄目なら他に戦略的に程良い「島」と云えば対馬諸島は如何なものだろう?対馬の面積は700k平方、、淡路島の592k平方より大きく、沖縄島(1207k平方)の半分以上の広さがあると聞く。

鳩山由紀夫前首相の発言、少なくとも「県外」の約束を履行しなければ、このままでは誰が出向いても沖縄知事:仲井眞は首を縦にふらないだろう。

しかし、日本は国防の義務から「沖縄問題」を自己解決出来なければ国の信用問題となることは必定である。

橋下氏が大阪市長の立場でなくとも、個人として乗り込んで、仲井眞知事の説得に成功すれば、そこで日本中が彼を真剣に注目することになると思う。

|

最近の中国近代画

極端にいえば、浮世絵しか世界的に認められていない「日本画」に対して、何故か近代中国画が世界的に比較にならない程高いのは不思議と云わざるを得ない。

日本絵画はロシアの絵と同じように国際的価値が非常に低い。

人気がないと云えばそれまでの話だが、反対に何故中国画に人気が集まるのかも筆者にとって不思議に思えてならない。

例えば張大千(Chang Ta-Chien,1899-1983),最近のフランス公共ラジオの発表によると張氏の作品がの売上高は約五億5450万ドル(約443億7千万円)

アートプライス社に依ると中国絵画競売市場は2010年以来、取引額世界1の活況を呈しており、同社のランキングでトップ10に中国人画家6人が名を連ねていると云う。

張大千氏の次には、やはり中国近代絵画の巨匠、斎白石(chibai-sha,1864-1957)が約五億1060万ドルで2位、3位は、アメリカ近代画家、アンディーウオーホール(1928-87)、過去14年間に於いて13回トップの座を守っていた、スペインの世界的に有名画家、パブロ・ピカソの売り上げは約3億1470万ドルで4位と云う結果とのことである。

中国の近代、現代絵画は以前より香港やニューヨーク、ロンドンのオークションで可なりの人気を博していたが、最近の中国富裕層の購買意欲の高揚でさらに国際的にも市場価値があがっている結果をしめしている。

それに引き換え、日本の洋画界、日本画界を通して、日本国内では人気の高い画家(例えば東山魁夷、平山郁夫等)でも極端に知名度が低く、従って中国画の様な市場性のある名前が挙がって来ない。

日本の絵画の評価基準が「画家の経歴」「絵のサイズ(号)」におかれ、結局、俗っぽい表現では”ブランド思考”からの脱却が果たされていない。

横山大観の富士山の大作であれば、業者の保障さえあれば絵の出来栄えとか、色彩、構図などは二の次で、取引が成立する。美術市場は完全に業者が支配して部外者をシャット・ダウンしている状態では世界市場から取り残されても仕方が無い。

中国画家の面白いところは、例えば張大千にしても有名な贋作者として知られていることである。張氏の国籍は台湾、中国四川省の生まれ、若いころ来日、京都で絵の修業を積み京都芸術専門学校で3年間染色の修業をした経験を持っている。1931年(昭和6年)「唐宗元明中国画展」代表として代表」として来日、33年には中央大学芸術専攻教授を務め、36年に「張大千画集」を出版(上海中華書局)、1948年以後、香港を皮切りに、世界各地を歴訪、1953年にはブラジルに移住、アルゼンチンにも住んだこともあった名実ともに国際的な芸術家であった。

1957年「秋海堂」と云う作品が評価され、ニューヨーク国際芸術学会で金賞を受ける。74年カリフォルニア州太平洋大学名誉人文博士号を受ける。

前述した如く、彼は贋作者としても有名で、1999年、ニューヨークのメトロポリタン美のかてからの収蔵品、北宗の画家、薫源作「渓岸図」について、これが張大千の贋作ではとの疑問について専門家を交えて公開のシンポジュームが開かれたが、結果は未決に終わった。

少し横道にそれてしまったが、斎白石にも多くの贋作が知られており、これは、日本の富岡鉄斎の贋作の数よりも多いかも知れないと云われる。

|

日本に新旧交代の時期迫る

アメリカの議会に於いての下院議員の定数は10年ごとに行われる国勢調査の結果に於いて各州に割り当てられることになっている。但しいくら人口の少ない州に於いても議員数各1名は確保されることはアメリカ憲法第一条第2項に以下のように記されているCongressional Appointment- (Deccennial censusus,US census)

costitution in article 1,section 2 provided for census of the population every 10 years as a basis for appointment of representatives among the states. This appointment largely determines the number of electoral votes allotted to each atates.Number of representatives each state in Congress is determined by the state’s population ,though each state is entitled to one representative regardress of population size.”

このことは以前の筆者のブログにも省略形で記したことがあったが、アメリカのような広くて複雑な人口形態の国でも、厳格に保持している各国民の権利を、我が国の立法府では履行できていない「一票の格差」問題の解決と、専横な政治家の姿勢は国民の視線をどのように見ているのか、ここに来て、彼等の猛反省を促したい気持である。

これは与野党の合議で造った責任放棄だとしか思えない政治家の思いあがった勝手な行動である。(司法軽視)

選挙違反の判決が下っていると云うことは、衆議院を解散しても今のままでは正当な選挙は出来ないことを知りながら期日(2月25日)がきても何の行動も起こしていない。

2009年の衆院選挙時に一票の格差が最大2・30倍であることが判り最高裁は違憲状態と判断、各都道府県に1議席を配分する「一人別枠」方式の廃止を求めた。

この一票の格差現象を生んだ理由は各政党エゴの結果であり、このまま突き進んで「議員定数削減」と「一票の格差」是正を怠っていれば、間隙ををぬって思わぬ革新的リーダーの政権の旗揚げに“油あげ”を攫われることは充分あり得ると推察する。

|

2月23日、「富士山の日」に寄せて、

Photo_2

2月23日が何故「富士山」の日なのかはわからない。

唯の語呂合わせに過ぎないかも知れないが、今朝の毎日の“余禄”欄に、幕末に来日した英国公使、オルコック(Sir Rutherford Alcock,1809-97)による当時の江戸から眺めた富士の姿の描写を「夕方には・・・雲の上にその頭を高く持ち上げており、夕日が背後に沈むので、その深紅色の大きなかたちが金色のつい立ての上にすっかり浮き出しになって見える」、「早朝には旭が頂上に反射して、その円錐形が輝いて見える」姿をも合わせ、、上垣外憲一さんが「富士山―聖と美の山」(中公新書)で紹介している。

オルコック氏は世界に日本の富士を最初に海外に紹介した功労者である。

オルコック氏は当時流行した「富士講」の巡礼姿の人々のことをもその当時の日本の風物詩として著作に書きしるしている。

江戸時代の富士講は享保年間に幕府の暴政に抗議して始まったとも云われている。確かに、享保年間の頃、一部の農民たちが過酷な幕府の政治姿勢を批判して焼身自殺した行者も現れたとのことである。

富士の姿は数多ある世界中の山々の中で、その優美さに於いて比類するものが無いように思える。従って昔から「不二山」とも「富士山」とも呼ばれる所以がそこにある。

この優れた山が世界文化遺産となることを祈りたい。

写真:「朝焼けに輝く富士」撮影;2012年3月10日、河口湖より筆者写す。

|

エドワード・ムンクの「叫び」競売に

Munch1

今朝(2/22)の新聞報道で何故か世界的に有名になったノールウエーの画家エドワード・ムンク(Edward Munch,1863-1944)のパステル画、「叫び」(screm)が、来る5月2日、ニューヨークのサザビーズ(Sotheby’s)に於いて競売にかけられることを知った。(写真)

今回競売される作品は現存する同題4作品のうちの一つであるが、サザビーズの予想では、此の絵に8000万ドル(邦貨で約64億円)の値がつくのではと予想している。

何故この絵がこれほど有名になったのかは謎である。

世間で言われているようにこの作品を「人間の極端な驚愕の一瞬」の象徴的表現を描写したものとして見る者に訴える素質は認められるが、この人物が一体何を見て驚いているのかは判らない。

主題は両耳に手をあげて驚いた表情で何かを叫んでいるが、前景は全く描かれてなく「不明」であることもこの作品にミステリアスな要素を吹き込んだのではと思われる。(驚かれている相手は鑑賞者かも知れない)

それが「橋の上」なのか、或る建物のボーチ上なのかも不明。後ろから付けて来る二人の人物の意味も不明だが、画面上で最も顕著に認められるエレメントと云えば、極端な遠景手法と、渦巻き状の描線と鮮明な色彩である。

19世紀末、ムンクが最も親しくしていた画家たちはピサロとスーラーと云われているが、筆者はムンクの表現の中に、むしろ、ゴーギャンやゴッホの手法の影響を見るような気がする。

第一次戦争終結の頃、このムンクの「叫び」が有名になり、多くのモノクロの版画が市場を賑わしたことが知られている。

今回の作品はノールウエーの実業家のペター・オルセン氏(Petter Olsen)の蔵品で、父親がムンクの後援者であったと云われる。

現存4作品の3点はすでにオスローの美術館に所蔵されていて、今回のオルセン氏の作品は唯一のプライベート蔵品であることも競売での人気の理由である。

|

戦争と知恵の関係

Photo ナイチンゲール

19世紀の中期には世界中で世界を揺るがすような大事件が各地で勃発した。

そのため、大国間でのイザコザで被害をこうむり、再起不能となった国も少なくない。

我が国にとっての大事件と云えば、1953年、アメリカからペリー提督の率いる東インド艦隊の浦賀沖来航から明治維新にいたる15年間が自国にもたらした大事件であった。

隣国の清国やインド、東南アジア周辺の国々では欧米列強による植民地化が進行中であった。

我が国にとって幸いだったことは、ペリーの帰国、まもなく始まっ数々のアメリカ国内での人種問題に絡む事件(例:カンサス・ネブラスカ問題)のいざこざから、国内を中断する「南北戦争」(1861-1865)の勃発に至り、完全にアメリカ外交が停止状態となったことで、幸いにも事なきを得た感がしないでもない。

それと殆ど時を同じくして起こったロシアとトルコの間の「クリミア戦争」(Crimean War,1854-56)に、殆どのヨーロッパ諸国が巻き添えにあったことも、その頃一時的にせよアジアは比較的安泰が保たれたと思われる。

クリミア戦争で最も有名を馳せたのはイギリスの看護婦のナイチンゲールであるが、ここでは文豪トルストイも従軍していることはあまり知られていない。

1953年、ロシアがロシア清教徒の保護を名目に、トルコ領内に進駐したことから始まった争いで、結果的にフランス、イギリスを巻き込む大戦争に進展したのであった。

両軍の将兵は厳しい寒さの中で身を隠す場所もなく、補給態勢の不備から冬用衣料も食糧にもことを欠き、それにコレラまでもが蔓延してまるで生き地獄の様相となったことで知られている。

結局、1855年9月にセヴァストポリ(Sevastpoli)が陥落したことで、56年3月のパリ平和条約会議で集結をみたのであった。

この戦争は最初の近代戦争となり、無線をはじめ、ライフル銃、蒸気鑑の採用もさることながら、ダイナマイト発明者のノーベルがロシア軍に機雷の売却に成功、大儲けをしたとか、考古学で有名なハインリッヒ・シュリーマンがロシアに大量の武器弾薬を売却、大金を取得、その後、これから得た資金で「トロイの遺跡」の発掘が出来たとも伝えられている。

また、戦線で負傷兵のためにイギリス軍の司令官であったカーディガン伯爵が前開きのセーターを考案、それが後のカーディガンsweaterとなった。

又、将兵の寒さ凌ぎの為に発案したと云われる、首の付け根まであるラグラン伯爵考案のラグラン袖もこの時から始まったと云われている。

誠に皮肉なことだが、人間は戦争をするたびに平和時よりも知恵を絞っより知的で斬新な発明を行ったり、「科学発展」に貢献しているように思える。

|

国防と平和維持

Photo

国防の最優先事項は「領土の保全」であることは云うを待たない。

1861年3月14日(文久元年2月3日)ロシア軍艦ポサドニック号が占拠を目的に対馬に来航した事件は有名である。幸いにも大事に至らなくて対馬の安全は守られた。

対馬は九州の北、玄界灘にある長崎県に属する日本固有の島である。長崎県で最大の島であり、全国に於いても第6番目の広さを持つ韓国と日本の丁度中間に位置する戦略上から見ても重要な領土であることに違いは無い。

作家の司馬遼太郎が産経新聞入社以前に席をおいたことがあった京都の新日本新聞で記者をしていた頃(1946年以後)韓国の大統領、李承晩が対馬は韓国領であると豪語していたことを書いている。

サンフランシスコ講和条約以前の1951年の7月9日、韓国の駐米大使が米国務省のダレス顧問に「対馬は韓国領だが、講和条約の下で韓国に引き渡される予定があるのかどうか」を尋ねたがダレスは即座に、「対馬は極めて長い期間、日本の完全な統治下にあり、講和条約でも現状に変わりがない」と述べた。(会談メモ)

韓国大使は7月19日にも再びダレスを訪問、対馬の領有権主張は取り下げる代わりに「竹島」を持ちだした。韓国の主張は「独島(竹島)と波浪島は日韓併合以前に韓国領」であった」と主張したとある。

ダレスはそこで、明確な返答を避けたが、国務省はその後、8月10日付でこの韓国の主張を否定する覚書を韓国側に送った。その当時のアメリカの見解は、“我々の情報では竹島は1905年頃からこの方、韓国の一部として取り扱われた」ことはなく・・・それ以前にも韓国が領有を主張したことがないようだ」との回答であった。(産経新聞2月19日”オピニオン、風の間に間に、皿木喜久)

韓国の計画は、最初に対馬の領有を主張、それが駄目ならば、次は。竹島をと云う2段構えの外交手段を用いたとも考えられる。

当時の日本政府は敗戦の処理や、進駐軍対策、平和条約の批准、引揚者の受け入れ、食糧難等々周辺諸島の領有権主張どころではなかったと考えられるが、そこが有史この方、国境を他国と領有したことのなかった日本の外交の未熟さを露呈した場面であったとも考えられる。

1951年8月10日付のダレス米顧問の覚書が確かだとすると、アメリカ政府は少なくとも、竹島について韓国が1905年頃から、この件を問題視した形跡がないと云う見解にあることが判る。

現在、竹島は韓国に実効支配されていることを知りながら、このまま放置すれば、時が経過すれば、そこは世界が黙認した韓国領土となるが、何故日本民主党はこのようなアメリカ政府の正式な外交「覚書」を利用して反論しようとしないのか疑問である。

今頃になって尖閣諸島周辺の39島の命名を考慮中と云う間の抜けた政府発表を聞くに及んで、果してどの程度、政府が自国の防衛に真剣に対処しているのか不安が募るばかりである。

自国の専守防衛を誓いながら、友好国アメリカにどれだけの配慮をしているのかも沖縄県知事の発言を聞くにつれ「敵」、「味方」の区別もあやしくなってくる。

|

日本の憂うべきこと「生産人口減少」

Photo

日本が必ず近い将来出会わなければならない問題に人口問題がある。

日本は既に世界屈指の高齢者国家であり、既に総人口の18.5%が高齢者と云われている

2008年には65歳以上の人口が、2365万人、、その内の75歳以上が1003万人、この調子で高齢者が増え続けると、2025年(略10年後)にはその割合は25%に到達すると予測されている。(統計局ホームページ)

所謂「生産年齢人口」が減少すると、自然に国内総生産が減少し、生活水準はもとより、公共サービスの質の低下、ひいては国際的競争力の低下に繋がり徐々に国としての形態までが脅かされる事態となりかねません。

日本の人口は2006年をピークに穏やかに下降を始め、2010年、1億2712万、30年には1億1522万から、2050年には1億人を割り込むとも云われています。

医学の技術進歩と、生活レヴェルの向上に加えて、叙々に人口が減少に向かうことは世界的な傾向ですが、日本にはそれに加えて特殊な法律による制限が存在しています。それは、移民を積極的に受け入れない政策です。

因みに、ここにアメリカの例を調査したところ、西暦1800年頃のアメリカの人口(白人)5308万人であったものが2000年には2億8142万人で200年間に5.3倍と云う驚異的な増加を見ています。(Almanac 2010)

シンガポールのリー・グアンユー元首相は最近、この日本の傾向を反面教師に,

少子化に対処するため、今後移民を積極的に受け入れる必要性を公に発表しています。(毎日)

同氏はは今月初め、小学校で開かれた夕食会の席上、“今後人口の増加を計ることが(シンガポールにとって)最大の課題”だと語っています。

“ここでも出生率は低下現象にあるため、移民に頼らざるを得ない”と述べたことが報じられています。

そこで、日本を引き合いに出して“日本は移民を望んでおらず、(日本は)日本人が集まる均質社会だ”と指摘、“このため日本は人口減少の代償を払っており、若年人口の減少で、自動車やコンピューターなどの売り上げが落ち込んでいる”と述べ、移民を受け入れないことによる人口減少と経済の低迷について、“これは日本が選択した結果であり、これと同じ決断をする余裕はシンガポールにはない”と決断つけている。

シンガポールの出生率は、1990年では1.83、であったのに対し、昨年は1.20と低下現象にある。

我が国としても、最近では大企業にとどまらず、優秀な技術力を持つ中小企業も、海外に拠点を移し始めていることは、産業問題だけに留まらず、若い優秀な頭脳の喪失も捨てがたい大問題として考慮すべきではないだろうか?

|

一貫性に欠ける民主党政策

Photo

民主党が提唱した数多の選挙用マニフェストの一つの「高校授業料無料化」の財源は何処にあるのだ   ろうか?

この中には朝鮮学校の支援や日教組に対する心配りがなされていると聞いている。

筆者の限られた知識、感覚では、到底その目的や趣旨について解釈できない点が多く、やはりこれも民主党の選挙用の行き当たり的“ハッタリ”と思わざるを得ない。

国家財政窮乏のおり、何を好んでこんなバラマキ(年間5000億?)に同意しなければならないのか?

小・中学校教育は義務化されているので、この範囲での内容充実には賛成する人は多いと考えるが、義務化されていない高校教育まで無料にする必要性は見当たらない。

将来有望な生徒に重点的に高等教育を促す為の経済的援助や、返済義務免除の奨学金制度を拡大するのならば大いに賛成であるが、一概に勉学に不向きな生徒に迄高等教育を無料にする必要はさらさらないのではと思う。

今では立ち消えになりつつある「子供手当」にしても母親懐柔目的の見せかけマニフェストであったことが明らかになりつつある。

外交問題に発展しかねない、沖縄の米軍基地問題で、「少なくとも、県外か国外」を叫んで、沖縄県民に嘘をついたことは最悪の詐欺行為であった。

今となっては、国会議員の定員削減、国、地方公務員の給与カットを任期中に確実に実行させることに勢力を傾けてほしい。

|

支離滅裂の民主党

自治体間の財源の不均衡を調整するためにあるの「地方交付税」、使途自由の財源で23年度は17.4兆円。

国家公務員の給与削減に併せ、地方公務員にも同程度の削減を促すため自治体の給与財源にもなっている地方交付税を減額する方針で民主党と政府間で問題が起こっている。

来年度以降総額約17.4兆円の交付税から最大で年間約6千億円を減額することで自治労や日教組の支援を受けている民主党に反対意見が少なくなく与党民主党にとって「お家騒動」の火種がくすぶり始めた様子。

与野党間ではすでに23年度の人事院勧告分、平均0.23%の引き下げに加え、大震災後の復興財源として2年間、平均7.8%をカットする方向で話が進行中。

きょうぎの結果、国家公務員に関しては24年4月から実施するとして、その相当分を地方にも求めるものである。

今国会での調整が困難としても、今秋の臨時国会で縫製予算案を提出決着を目指す計画であるらしい。

野田佳彦首相はすでに公務員給与の削減を消費税増税に当てる“身を切る改革”を表明。

国家公務員の給与削減で生み出される財源は年間3千億円程度。

今年度末に過去最大の約973兆円となる見通しの国と地方の長期債務を約56万人の国家公務員だけでなく、約234万人にのぼる地方公務員の給与引き下げを行って国民の理解を得たいとしている。

これに対して、岡田克也副総理も7日の記者会談で“地方に配布されるお金も聖域化」されるようなことは許されない”と表明地方にも同等の人件費削減を求める姿勢」である。

これまでのマニフェスト違反の失策に加え、総理が「身を切る改革」と宣言して党内同意を促していることに対し、民主党最大の支持団体である連合は「地方への波及」に強く反発、民主党内にもこれに同調する意見は根強く、しかも日教組の大ボス(幹事長)も“地方への波及は決め手いないし、ましてや義務教育の教員給与への影響は許されない”と牽制している。

首相と副首相が国会で進めようとしている法案はだれが考えても党内一致の意見のはずだが、こんな肝心要の事務が閣議提出を見る前でもめる政党が今まであっただろうか?

こんなことでは野党も問題にしないし、ましてや、外交交渉では、どんな国も相手にしないのではと思わざるを得ない。    

|

本末転倒?

Photo

沖縄の普天間飛行場の移設は語られ始めて以来15年経過しても何らの進展がない。

日本政府が移設先の辺野古周辺海域の埋め立てに関する許認可権を持つ中井眞知事が許可を出さなければこの移転計画は実現しない。

辺野古への移転が駄目ならば、米軍の嘉手納基地か、他府県への移転とならざるを得ないが、アメリカ外交問題評議会上級研究員シーラ・スミス氏は“日本国内の政治的理由か、米軍の軍事基地運用面の理由から解決が見送られてきたが、現行案以外に適当な場所が見当たらないとしても日米両国には安全保障分野で取り組まなければならない重要問題が多々あり、普天間移設問題ばかりに集中している余裕がない”と、アメリカには内政干渉をする権利も意図も持たないが、「そろそろいい加減に自主的に決着させろ」と言外に述べている。

政権が変わってから、政府民主党の防衛大臣も数人入れ替わったが、同じことの繰り返しで国民全員もこれについて「うんざり」させられている。

ここに掲載する写真(毎日、2月3日)は「卒業証書授与式」のように見えるが、実は、普天間の県外移設要望書を沖縄県知事が田中真紀防衛大臣に手渡して、「お願いをしている」瞬間のスナップだが、如何にも本末転倒ともとれる微笑ましいシーンに映るところが笑えない事情を写している。

|

大局的国家間外交を重視せよ

我が国において始まった戦後教育は国民全体に間違った歴史観を植え付けたばかりでなく、国の尊厳を著しく棄損させた。

日本が隣国に武力攻勢を始め、侵略したと云う歴史観は敗戦によって占領軍の強制で刷り込まれた間違った観念である。

例えば、日清戦争を“朝鮮半島を侵略目的としたものであった”とする考え、日本の一方的な侵略戦争と決めつける韓国人の思考は根底から間違った考えである。

日清戦争の終結で講和会議が下関で始まり(1895年)その結果、それまで清国の「属邦」とされていた朝鮮半島で大韓民帝国が誕生し、韓国に皇帝が出現した。これは朝鮮民族にとって喜ばしいイヴェントでないとする者は恐らくいまいと思われる。

例え大韓帝国の発生が日本の画策の結果だと考えることも出来るが、少なくとも、それまでは朝鮮族“の名称でかたずけられていた土着民の集合が、欧米国家からも独立国家と認められる存在となったのは日本の貢献であったことは事実である。

下関条約の結果満州の遼東半島が日本に割譲されたことに反応して、ロシアがフランスとドイツを誘いこんで、「遼東半島の割譲は東洋の平和に脅威となる懸念」があるため清国に返還せよ」と日本に申し入れた。

当事国の条約で決まった事実を第三者がその葉機を申し入れることは極めて異例で許し難い不当干渉であったが、当時の外相の陸奥宗光は、当時の日本の国力と世界情勢にかんがみ、この「三国干渉」に涙をのんで応じたのであった。

これはその後の外交上大変懸命な決断であったと考えられている。自国の実力と世界の情勢を直視して対応することが懸命な外交手段である。

半世紀後、日本は西洋諸国を敵にして戦争に突入、その結果、無条件降伏と云う厳しい状態を経験した。

ソ連はアメリカの要請で日ソ不可侵条約を破棄して、南樺太及び千島列島に上陸これらを占領した。

1945年2月のヤルタ会談で、フランクリン・ルーズヴェルトが対日戦争を早期終結に導くため、会談の席上、正式にソ連首相スターリンに8月までに行動を起こすことを要請した。

ソ連は1945年の9月に千島全南部樺太を武力での占領を完結させた。

当時のルーズヴェルトの認識には、日本が固有の領土と主張する、いわゆる「北方四島」の存在は全くなく、千島列島(kurill Islands)とは、北海道以北、カムチャッカ半島までの全ての島を包含するものであったに違いなかったと思われる。

敗戦を迎えて敵国に奪われた地域を外交交渉で取り戻すことは困難である。

しかもアメリカ大統領の要請を受けて行動を起こしたソ連にとっては「正当」な理由があり友好国との約束の履行でしかない。

1895年「三国干渉」で何故、日本は占領した領土を放棄しなければならなかった理由が何処にあったかを戦後の日本の政治家は知らないとは考えられない。

しかも、戦争に負けて敵国に奪取された領地が固有の領土であったとしても、また最近の国際法が如何に変化していたとしても、国力の差を考慮すれば、明治の先達が「臥薪嘗胆」と呼んで絶えた心境を学び返して対処することが国家の将来に有利に作用すると悟るべきではないだろうか?

「北方4島」の旧住民にとっては耐えがたい屈辱かもしれないが、国家百年の計を考えるとき、一日もはやく過去のことを忘れ、ロシアと有効的な関係を修復すべきだと筆者は考える。

|

環太平洋の地震活動は要注意

Photo

2004年12月26日のスマトラ沖地震では周辺地域に大きな津波が押し寄せて世界的なニュースとなった。この時の震源地の震度は9.1で2012//11の福島の地震と殆ど同クラスのものであったことが判る。

この周辺では大きな地震が100年から150年の周期で起こっていたが、2004年の大地震以後昨年まで(6年間)に8回も、7.8から8.6クラスのものが発生している、特に、2010年には震度7.8周辺の地震が3回発生している。

これは、2004年末の大津波を伴った大地震(9.1)が引き金となった懸念が濃厚である。

宝永4年(1707)10月の地震は南海地震を誘発して各所に津波が発生して、発生後49日後には富士山の大噴火が起きている。

そんなことで、今年の3.11の東日本地震以後、日本の何処かで、それに近い規模の地震の起こる可能性は少なくないと考えられる。

東京オリンピックが開催された1964年3月27日には、アラスカの首都アンカレッジ周辺で大地震が発生、その時の震度は9.2と測定され、震源域は850KMにも及んだと云われる。周辺の海域には各所で津波が発生したと伝えられている。(写真)

この地震で地表の液状化が初めて問題視されたことが知られている。

この場合でも、その略1年後、同じ海溝付近のアルーシャン諸島でM8.7の大地震があり、アラスカ地震との関連が疑問視される。

1昨年、(2010)2月27日にはチリでM8.6の地震が発生、その後、日本の沿岸に10メートルの津波の到着が記録されている。

2011年にはニュージーランドで2度、インドネシアでもM8クラスの地震が2度発生していて、これらの情報を集約して考えると、過去半世紀に太平洋周辺は地殻変動の活動期にはいったと考えても間違いないのではと危惧せざるを得ない。

最近富士山周辺の水量が急増しているとのニュースが報じられているが、この美しいが再び噴火しないことを望むばかりである。

|

« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »