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悲劇の象徴となった「釜石製鉄所」

1880年(明治13年)に釜石に造られた官営の製鉄所は、その稼働が永く続かず、3年後の明治16年に廃業した。

当時政府ご用達の金物商、東京の田中長兵衛が払い下げを受けて、娘婿の番頭であった横山久太郎を中心に再建に立ちあがり、英国から輸入した25tの他に2基の小型高炉を作って銑鉄の製造を開始した。

しかし、1896年(明治29年)6月15日、所謂“明治三陸地震”で10~45メートルの大津波で釜石の人口の76%(人口6529人のうち死者、4985名)を失う大事件で工場もその震災の藻屑となった。

新日鉄(旧八幡製鉄)釜石製鉄所の前身、釜石鉱山田中製鉄所の名称のこの工場(岩手県釜石市)は、1886年(明治19年)に日本で最初にコークスを使用して、高炉による製鉄を軌道に乗せた由緒ある工場であった。その間、1890年(明治27年)には顧問として冶金の専門家、野呂景義(1854~1923)、主任技師に香村小録を迎えて、当時としては欧米の銑鉄に勝るとも劣らないクオリティーの製品を世に出したと云われている。

奇しくも釜石を明治の三陸津波が襲った同じ年の3月に、福岡県八幡に官営製鉄所建設が決定されている。官営の八幡製鉄所建設を發議したのは、幕末に一時は政敵として蝦夷の五稜郭に立てこもり官軍に弓を引いた榎本武楊であった。

榎本は縁あってその後、洋行を果し、帰国して農商務相を務めていた。彼は西洋で見てきた科学技術こそ大切だと唱えたため、「鍛冶屋大臣」のあだ名までもらっていた人物。

“鉄は工業の母”と唱えた釜石の野呂(後に東大教授)と榎本武楊こそが後の日本の重工業を担って立つ鉄工所「新日鉄」を発足させた。

一次「鉄は国家なり」と豪語するように成長した、八幡製鉄(新日鉄の前身)であったが、最初の頃には高炉のトラブルが連続して、溶鉱炉の不調に加えて、徐塵機にのガス爆発などを起こして、ドイツから技師を招聘してまで、技術的に世界のレヴェルと互角に競える製品が出来るまでにはそれから何十年の月日が必要であった。

今では水素やサビにも負けない常識を打ち破るような製品ができるようになったが、日本の製鉄の先駆けとなったのは、やはり「釜石」で経験を積んだ熟練工のほか、「工手学校」や帝国大学出身者達の技術が、やがて、世界に冠たる八幡製鉄所を生んだと云っても過言ではないと考える。

今更ながら、釜石鉱山田中製鉄所も昭和の釜石(新日鉄)製鉄所も、共に三陸の大津波の藻屑となったことを知って、歴史の皮肉に涙が出る気持である。

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