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国宝中尊寺経は是非地元へ!

空海と高野山―弘法大師入唐1200年記念が平成15年4月15日~5月25日迄京都博物館と高野山真言宗総本山金剛峯寺の主宰で京都博物館にて盛大に挙行された。

その時、筆者も会場を三度となく訪れて、多くの寺宝をつぶさに勉強させていただいた。

その時に発行された目録中、#156に、紺紙金銀字一切経(中尊寺経)5巻が展示され、4296巻の内と書かれて、これが永久5年(1117)~天冶3年(1126)頃に藤原清衡(1056~1128)の発願にて書写されたもので、“古来より、この一切経を納めたところが平泉の中尊寺と考えられてきたので、これを「中尊寺経」と呼び、発願者の名をとって「清衡経」とも呼んでいると説明されている。

そこで、中尊寺経の由来や説明、その考古学的価値を述べたあとで、“これら(4296巻)は、16世紀に豊臣秀次によって高野山再興に努めた木食応其(もくじきおうご)(1536年~1608)に与えられて今に至ったと伝えられている”とまるで人ごとのように片づけている。

歴史書によると豊臣秀吉と木食は親密な関係があったことは知られてはいるが、その秀吉によって追われて高野山に蟄居、その後、切腹させられた秀次が、何の故あって秀吉にかわって「宝物」を高野山に貢ぐことになるのだろう?

これは誰が考えても、こんな大きな「嘘」を、日本を代表する真言宗の本山、高野山が云うべきことではない。

「東光太平記」の著者で、昭和40年(1968)に権大僧正の位で中尊寺の貫主となった今東光氏本人が表した「毒舌日本史」を読むと、秀次が中尊寺に出向いて、そこにあった紺紙金銀経をごっそりと盗み出し、後に高野山に運んだとハッキリと著述している。

寛永5年4月17日興山寺(高野山)第3世文殊院応昌が快舜和尚に頼んで興山寺の後山に東照大権現堂を建て、これらの中尊寺経をその経蔵に納めたことは事実と古写経綜鍳の著者田中塊堂氏が認めている以上、高野山は秀次から直接収得したことは明らかと云う外ない。

田中氏の云う、承安2年3月2日付、秀衛(藤原時代末期)の贋作寄進状の存在自体がこの辺の後ろめたい高野山の事情を物語っている。

唯、筆者が不思議に感じるのは、今東光大僧正が中尊寺の代表者として、存命中に何故にこの大事件の解決を高野山と話し合はなかったかである。

しかも、今氏は昭和43年参議院選挙に当選、昭和49年まで政治家であったわけだから、中尊寺の名誉回復の為に300年に及ぶ高野山の不法行為を糺して欲しかったものである。

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