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アウンサンスーチーはミャンマーの金の卵

アウンサンスーチー女史はビルマの首都ラングーンで生まれた。

1960年に母親のキンチーがインド大使に着任、アウンサンスーチーはデリーに移住、ⅰ962-63年、デリー大学で学び、ⅰ964-67年イギリスのオックスフォード大学セントヒューズ・カッレッジで学士号を得る。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院で研究助手を務め、その後、1969―71年にはニューヨーク国連事務所で書記官補佐として勤務。

1972年、オックスフォード大チベット研究社のマイケル・アリスと結婚、2子をもうける。ⅰ985-86年、京都大学東南アジア研究センター客員研究員として来日、実父アウンサン将軍について歴史研究を進めた。1991年にノーベル平和賞受賞。

以上は彼女の前歴の略一部だが、ビルマにあって、これほどの学歴を持った女性がはたしてどれだけいるであろうか?

即ち、アウンサンスーチーは彼地における政治的指導者としての資格と教養をもった重要な存在である。

永らくミャンマー軍事政権によって自宅軟禁されていたが、5月29日、およそ24年ぶりに出国が認められ、隣国のタイを訪れることとなった。

その後は目白押しの旅程で、6月14日にジュネーブILO(国際労働機関)での演説、16日はオスロ^でノーベル平和賞受賞の講演を行う。

20日にはイギリスに行き、母校のオックスフォード大から名誉博士号の受賞後、その翌日には議会で演説。それからアイルランドのダブリンでの特別コンサート出席も予定されているとの事。

アウンサンスーチーが正式に国会議員となってから(5/02)未だに1月も経過していない。そのような人物を、世界はまるでミャンマーの大統領のように扱っている様子を「軍事政権」の連中がどのように思って見ているのだろうか?

ミヤンマーの国内経済事情は決して裕福とは考えにくい。そのような時期にミャンマーはアンサンスーチーのような世界的に知名度の高い人材を利用して国家経済の立て直しを考えない手はない。

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エリザベス2世とイギリス気質

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エリザベス女王(86)は今年、即位60周年を迎え、ダイアモンド・ジュビィー(Diamond Jubilee,即位60年、75年記念祭)の記念行事が、6月2日から5日まで、ロンドンを中心として催される。

筆者の知る限りでは、ヴクトリア女王の在位期間、(1837-2001年)の64年間に次いで、英国史上2番目の永い在位ではなかったかと考える。

即位当時(1952)の英国は、戦勝国とはなったがドイツの空爆に遭い、ロンドンも壊滅の状態であった。そのようなみじめな時期を乗り越え、60年代のビートルズの出現でイギリスは世界中を巻き込む“casual”    時代を迎え、一気に戦後の憂鬱なムードを吹き飛ばした思いがする。

彼等の”Let it be”は、正にその時期のイギリス人の、一種の投げやり的な感情をむき出しに表した名曲ではなかったかと思う。

女王はビードルズに「外貨」を稼いだお礼の意味で“国民栄誉賞”を授与してその功績を称えた。

それは、16世紀、エリザベス1世が、世界中の海を荒らしまわってスペインの財宝をかすめ取って、イギリスに持ち帰り国家の財政に寄与、その後、スペインが世界に誇る無敵海隊(アルメイダ)を打ち破った、大海賊フランシス・ドレイク(Francis Drake(1540-1596)に爵位の称号を付与して、ほめたたえた事例にも似たものであった。

イギリスは伝統的に型破りなことを平気で行う国であり、一般にはジェントルマンに象徴される、「型苦しい印象」は、まるで仮面で、本質な別物と云う感がある。

ブルー・ブラッド(blue-blood)といわれるイギリス人の残酷な一面は、エリザベス1世が、カソリックのメアリー(Mary Tudor)を斬首刑に処して、プロテスタント国家、今日のイギリスの礎を築いた例から顧みてもハッキリしている。

王室がしっかりしていれば伝統は守れる。反面、悪い国王は追放されるのが当然と云う好例は、チャールス1世(1600-1649)の処刑からも伺える。

ヴィクトリア女王時代に於いても、インドの治世や、ローデシア管轄にもblue bloodの性格が如実に表面化している。

しかし、そんな暗い一面からみて、考えられないような明るい一面も持ち合わせた国がイギリスで、エリザベス2世はその象徴のような人であるように見えてならない。

彼女は気軽に世界を訪問して、どんな人にでも気軽に話しかけ、個人生活においてもツイッターやフェイスブックまでも楽しんでいると聞いている。

チャールス王子とダイアナ妃のスキャンダラスな離婚問題、ダイアナ妃の交通事故死等の悲しみを乗り越えて、86歳まで、少なくとも、何時も笑顔を絶やさずに歩んできた60年の偉業には頭が下がる思いがする。

今年はロンドン・オリンピックを迎えようとしている大英帝国、ヨーロッパの不況に何か明るいトピックを撒き散らして欲しいと思っている。

近世の我が国の皇族制度は、そもそも、イギリスを模型として形造られたものであるが、昨今の様子では、「宮内庁」に虐げられたような惨めな局面しか見えてこない。

これは国民性の違いだけでは済まされない根の深い伝統が息づいているかに筆者には見えてならないのが残念である。

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ユーロ経済圏の危機

本日、5月29日、世界のマスコミが一斉に「ギリシャ・デフォルト」が現実問題となりつつあることに警鐘を鳴らしている。再選挙の結果に関係なくギリシャはユーロ圏にとどまる可能性が少なくなっていることは確実である。

ellas(エラス)が対ユーロでどのくらいの価値なのかは知らないが、ギリシャが、もしユーロ離脱となれば、もとの通貨「エラス」に戻って、恐らくその価値は切り下げられ、その後は、輸出では有利だが、生活に不可欠な資材や原料輸入に少なからず不利なことが顕在化する。

ギリシャが日本のように資源に乏しい国であれば、たちまちにして国家経済に影響がでて、国の存続さえもが脅かされることになるだろう。

そもそも、最初から「ユーロ構想」には難点が多いとされてきたが、今やその危惧が現実のものとなりつつある。ユーロ圏参加国がお互いに、10年間以上戦争もなく平和でいられたのは「ユーロ」のお陰と云えない事は無い。

人間の本能的欲望(金銭欲)を無視して、10カ国以上が一つの通貨で結ばれるとは、理想であって、現実性に乏しい。今となって、最初から参加しなかったイギリスのサッチャー女史の先見性と決断力に脱帽したい。

我が日本もギリシャを対岸の火事とみて 楽観的ではいられない。財務省は28日、政府全体の資産と負債の状況をまとめた2010年度の「国家財務状況」を示した。

負債は前年度比23兆3千億増の1042兆9千億円で、3年連続で過去最大を更新。負債のうち、国際を含む公債残高も過去最悪で、38兆1千億円増の758兆7千億円。

いくら日本の負債額は他国と比較対象にならないと云ったところで、この数字は世界最悪であることに間違いはない。

次に控えるのはスペイン。その国債の利回りが(10年)一時、6.5%に急上昇となった。

スペインの場合は不動産バブルの崩壊と景気の悪化で銀行の不良債権が膨らみ、国内3位の銀行、“バンキア”が実質国有化されるとの見通し。スペインはユーロ圏第4位の経済規模なので、ここでの危機が顕在化すればギリシャどころではなく、世界経済や金融市場の混乱は必至と、今日の毎日新聞は報じている。

バンキアの国有化は殆ど確実視されていて、公的資金の投入となるが(1兆9千億ユーロ)、この形は以前のバブル崩壊のスタイルに酷似している。

今月17日、アメリカの格付け会社ムーディースはスペイン16行を一斉に格下げした。又。スタンダード・サンド・プアーズも25日“バンキア”の格付けを投資不適格の「ダブルBプラス」に引き下げるなど、金融システム不安が広がり続けている。

スペインの失業率は24%を突破、今後は企業倒産の多発など、景気のさらなる冷え込みが懸念されている。

ギリシャに続いてスペイン経済が危なくなると、今後はそのあとに控えている「落第生国家」は少なくなく、愈々、世界的な経済問題が懸念され「ユーロ」存続問題が真剣に話し合われる状態にならないとも限らない事を憂慮せざるを得ない。

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在日中国技術者、研究員は要注意

防備のあまいことで知られている日本について警鐘を鳴らして注意を促す例として、イギリスの基保守党議員で作家のナジェル・ウエスト氏(60)が、米連邦捜査局(FRI)の元中国スパイ担当捜査官、I・Cスミス氏との共著として「中国のスパイ活動の歴史自書」を刊行するに際して、“中国の国家安全省は日本で働く中国人技術者や科学者らで作る二つの協会に接近、産業やビジネス情報を収集する拠点にしている”と指摘。

ウエスト氏によると、中国のスパイ活動は主に国家安全省と中国人民解放軍に二分される。

世界の隅々の何処にも存在する、所謂「チャイナ・タウン」に中国人を潜り込ませば、模擬領事館ができる利点を持っている中国、国家安全省は好きな時に好きな場所にスパイを送りこむことはたやすいことである。

中国への輸出が禁止されている「部品」や「技術」についても国家安全省がクアラルンプールやシンガポール、香港を最終荷受人とする取引に協力者を介在させて違法に入手していると云う。

日本では産業やビジネスに関するもので、前述の二つの協会を拠点として、在日中国人に対し知識、情報を促し、それに関する学会やミーティングの参加費等は政府機関が援助するかたちになっているとのこと。

人民解放軍は、中国に投資の意図を持つ欧米企業とはパートナーシップを組んで情報を吸収する傾向があり、その目的は常に「調査」である。

1990年代にはアメリカのロスアラモス国立研究所から潜水艦発射弾道ミサイルの核弾頭情報が中国に漏えいしたことは既に知られている。

1991年から中国では、サイバー活動を重視し始めた。このきっかけは、イラクの軍関係施設がアメリカのサイバー攻撃であっけなく壊滅させられたことに衝撃を受けたからだと云われている。

さらに、ウエスト氏はオバマ大統領の選挙資料もハッカーに盗まれたと云い、他の多くの国家機密が、決定的な証拠はないが、跡をたどれば中国のサイバーに行きつくと述べている。

これらの範囲と規模から考えても国家が関与しているとしか思えないと指摘。

欧米のように照準を絞って近ずくスパイ方式とは異なり、中国式では千人に接近する。

彼等は短期的に結果を求めず、時間をかけても近ずいて来る中国式情報網に警鐘を鳴らしている。(産経)

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「テラ・アウストラリス・インコグニト」

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イギリス殖民地であったアメリカで、1756から始まった“フレンチ・アンド・インディアン戦争”(French and Indian War、別称7年戦争)は1763年まで続いたが、フランスが敗退し、そのの結果、フランスはミシシッピー東岸と、カナダの領土(New France)を失った。

アメリカ人はこの戦争に於いて殖民地軍として戦い、初代大統領となったギョージ・ワシントンもイギリスと共に闘い多くの功績をたてた。

その間、殖民地人は宗主国イギリスの戦いぶりや戦術パターンを学んで、1776から始まった「独立革命戦争」に臨み、宗主国イギリスを打ち破って独立を勝ち取った。

しかし、正にその間、イギリスでは天文学に関する研究が盛んになっていた。

天文学的研究を太平洋で試してみようと云うことで、1769年にジェームス・クックを南太平洋に派遣して、その年の6月3日に金星が太陽面を横切るtransit of Venus(トランジット・オブ・ヴィーナス)の記録を残すこととなった。(第一次クック探検隊)

この探検はゼントルマン植物学者、ジョセフ・バンクス(Joseph Banks,1743-1820)の指揮のもと記録係として画家2人や多くの分野の専門家からなる大掛かりな探検隊であった、

クックによるエンディヴァー号のもう一つの大きな目的は、ヨーロッパで、永く語り続けられていた“太平洋の南に存在する大陸”の発見であった。

(その学説の根底として北に陸地が偏在するには南にそれ相応の陸地がなければ地球のバランスが保てないから、可能性として南方に大きな陸地があるに違いないと云うような、現代から考えればまことに稚拙な話であった。)

クックは海図作成の技術に秀でた能力を持ち合わせた第一人者と認められていたことから、この謎の大陸“テラ・アウストラリス・インコグニタ”(Terra Australis Incognita)を見つけ出し、海図を作成させる任務を担って出発した科学調査隊でもあった。

タヒチを出たエンディヴァー号は先ず、計らずも、ニュージーランドに出くわし、それが南北、二つの島からなる領地であることを世界で初めて証明した。それが今云う“クック海峡”である。

エンディヴァー号は、それから航路を西にとり、伝説の「南方大陸」の一部を形成しているがどうかを確かめるため、ヴァン・ディーマンス・ランド(Van Deaman’s Land)(現在のタスマニア)を目指した。

しかし暴風雨で北寄りに流され、クックの舟は、、タスマニアに到着する前に、後にヒックス岬と命名されたオーストラリア大陸の東海岸に流れ着き、結果的にクックはオーストラリア発見の最初のヨーロッパ人となった。(1770年4月20日)

此の場所でジョセフ・バンクス達が多くの植物を見つけたことによって、ボタニー・ベイ(Botany Bay)と命名されることとなった。

結局、第一次の探検では「謎の大陸」を発見できず、クックは東海岸を北に船を進め、同年6月11日、グレート・バリアー・リーフの浅瀬に乗り上げ、船が大破、7週間を費やしてそれを修理、ヨーク岬半島の北側、オーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を抜けた。

クックはオーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認」1770年8月22日、ポゼッション島(possession Island)に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。

3回に及ぶクックの探検でクックはハワイ島で殺害されたが、結局、テラ・アウストラリス・インコグニトの存在は幻と消えたが、その結果、[Australia]と云う国家が誕生した。

蛇足だがクックは、当時アボリジニーがオオカンガルーのことを”Guuru Yimidhirr”と呼んでいたことからganngurruから変化してkangaroo(カンガルー)と云う言葉となったことを記しておく。

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国民に誇りと自尊心を与えよ!

Photo ネルソン提督

ホレーショー・ネルソン(Horatio Nelson,1758-1805)はイギリスの誇る、稀代の海軍提督であったし、今後もイギリス帝国が続く限り「英国の誇り」として名を残すものと考える。

ネルソンはナポレオンを宿敵と考え、命を賭して国の為に尽くした英雄であった。

ナポレオンのエジプト遠征のおり、アブキール湾でフランス艦隊に大打撃を与え、ナポレオンを震え上がらせた。その時、ナポレオンは密かに夜陰に紛れて帰国して難を逃れた。

ネルソンはその時の功績で子爵の位に叙せられた。ネルソンはナポリ王国駐在大使夫人、エマ・ハミルトンと不倫の関係となり、当時の英国上流社会からの顰蹙を買ったが、軍人としては数多の手柄を打ち立て、コペンハーゲン海戦では、デンマーク海軍を撃破して、その後、子爵に叙せられている。

何と云ってもネルソン提督の野望はナポレオンに勝利することであった。

1805年10月、ネルソンはフランス・スペインの連合海軍をスペインの南岸沖のトラファルガー(Battle of Trafalgar)に於いて壊滅的な打撃を与え、大勝利を収めた。

これによりナポレオンのイギリス侵攻の野望を打ちくじいたことでイギリスにとって大変意義のある大きな戦果であった。

残念にもその時、ネルソンは敵兵の狙撃を受け一命を落とした。

丁度、その100年後の1905年5月27日、日本海軍は対馬沖においてロシア帝国が世界に誇る「バルチック艦隊」を殆ど壊滅状態にして勝利し、連合艦隊司令長官、東郷平八郎の名を不滅のものとした。

ホレーショー・ネルソンの巨大な銅像は、海戦場の名をとったロンドン、“トラファルガー広場”に200年以上も誇らしげに立っている現実は、ほとんど全てのロンドンを訪れる旅行者が目にする光景である。

日本海海戦の日本の勝利は、今もゆるぎない我が国の誇りである。

日露戦争は決して日本の侵略戦争ではなかったことを世界のすべての国が認めているいる。

その時に日本がロシアに負けていたとすれば、アジア全体が、ユーロ・アメリカン(Euro-American)の殖民地となったであろう事は誰の目からも明らかである。

これは歴史の1ページの出来事であり、こんな日本にとって最も記念すべき事柄を文部省教科書から削除する理由があったのだろうか?(戦後65年も経過している現在では?)

日露戦争に関する限り、どの角度から見ても「自衛の戦争」であったことは明らかである。

国家の施政の中で教育は最も大切なものの一つである。何故なら、それは国民に、それぞれのアイデンティティーを知らしめ、自己の存在と価値観を植え付けるものであるからである。

日露戦争後、半世紀も経ずして日本は世界を相手に戦う運命となり、一敗地にまみれたが、その結果、計らずも、少なくともアジアから殖民地国家は姿を消し、全ての国が独立を達成した。

ネルソン提督の銅像はイギリスの名誉の象徴として誇らしげに、ロンドンのトラファルガーに空高く立っている。

筆者は思想的に国粋主義者でも、“右翼”でもない、しかし、どの国も自国の歴史を理由なく捻じ曲げて抹殺することはすべきではない。

これは正に、自虐的教育であり、国民の自尊心を抑制し、向上心を払しょくさせるだけである。

このような教育を敢えてする、心ない為政者にその是正を提唱申し上げ、猛省を求めるものである。

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「国会」を監視しよう!

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明日(5/21)からいよいよ国会で、与野党の間で討論が盛んになることと思われるが、以前に前鳥取県知事の片山善博氏は「ほとんどの議会は八百長。シナリオが決まっていて、それを読み合う学芸会・・・」と07年の地方分権委員会で批判した。

国会中継を見ていても、質問者は“これは提出質問状になく、突然の質問で恐縮ですが・・・”と断っているシーンに出くわす。

国会の開会が近ずくと、公務員は夜遅くまで残業になると云う。それは、議会で議員たちが討論する「セリフ」を書いて用意に忙しくなるからである。

つまり国会の討論のネタは公務員が作成したものであることはハッキリしている。

野党議員の質問の内容は事前に与党側に配達済み、質問者はその内容から逸脱しない範囲で発言することになっている。

議長もそれを知らされていて、事前通告にない質問をした場合、通告して訂正して謝るか、質問を撤回するように要請できることが決まっているらしい。

それでは国会での討論は、出来上がった原稿をお互いに読み合う「学芸会」に近いと云われても仕方が無い。

「議会を円滑に運営するには一定の事前調整が不可欠」が日本の議会の常識ならば、大勢の議員を一堂に集めて話し合うことは無駄で、イーメールか、文書の交換で事足りると云う議論も成り立つのではと考える。

与党側の大臣たちには、担当している省庁の内部事情や、専門知識に乏しい人達が多いが、そのような閣僚の為に公務員が「セリフ」を用意する場合、官僚に不利になるような原稿を作る筈がない。

国会開催中でも、野党議員の質問状(提出済み)の内容が複雑すぎて、担当大臣の知識に不安がある場合、必ず、背後に大臣の答弁の際、耳打ちする「返答補佐役」がいる。

これではいつまでたっても政治家と官僚は互換関係にあり続けざるを得ない。

今後の国会の議事進行を国民は目を皿のようにして見守っている。

約束済みの、議員定数削減、一票の格差の是正、公務員給与の削減等は少なくとも会期終了までに可決されることを願っている。

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徳川家康愛用の置時計

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毎日新聞5月18日記事によると、久能山東照宮に大英博物館の時計部のキューレーター(責任者)が訪れ、当神社に伝わっていた徳川家康が愛用した箱型時計を鑑定したことが報じられている。

この時計、関ヶ原合戦の数年後の、1609年、千葉沖で遭難したスペインの乗組員に救助の手を差し伸べた家康の厚情に報いるべく、当時のスペイン王、フィリッペ3世(1579-1621年)が、1611年、徳川家康に贈ったと云われる時計で、家康が終生愛用したことで、家康の死後、墓処、久能山東照宮(静岡市駿河区)に残された遺品である。

これは1979年、国の重要文化財に指定されていtる。

この時計は、1581年にスペイン国王のお抱えのベルギー人の時計職人が製作したことが知られていると云われる。

トンプソン氏によると、ベルギーで同じ頃に造られた類似の時計は、約20基残存するが、殆どのものは、内部に改修がなされており、東照宮のものは、オリジナルの革製ケース付きで、2,3か所の部分を除き当時のままの状態で、保存状態も良好、従って、世界的にもきわめて珍しい遺品であり、出来れば大英博物館のコレクションに加えたい作品であると太鼓判を押したと報じられている。

トンプソン氏は、この調査結果をイギリスの学会で発表したいとの希望を表明している。

東照宮の落合宮司は「世界的に珍しい時計と評価され、大変うれしい。今後は国宝に指定されるように運動したい」と述べている。

1611年と言えば、は世界的画家、レンブラントが未だ5歳であった時の作品で、その意味から考えても、この時計の歴史的価値は高い。

(フィリッペ3Felipe III,、1579-1621年)は生まれつき病弱で、王位にあっての治世は僅かに23年、父君フィリッペ2世が残した強国スペイン帝国は衰退の途中にあった。)

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アメリカ青年拉致事件

David_sneddon デヴィッド・スネドン氏

小泉純一郎首相は2002年9月に北朝鮮を公式訪問、金正日代表と直接会談、それまでの北朝鮮による一連の日本人拉致を公式に認めさせた。

その2年後、数名の拉致被害者が釈放され(2004年5月22日)日本への帰還をはたした。

その直後、アメリカ人、チャールス・ジェンキンス氏も、妻の曽我ひとみさんと北京経由で帰国した。

何故、ジェンキンス氏と曽我ひとみさんが他の日本人たちとは別に北京経由で帰国したのかは詳細にはわかっていない。

ジェンキンス氏は1965年脱走して北朝鮮に入り北側の捕虜となったが、アメリカの報道では、その頃他に3名のアメリカ兵が北側に拘束されていたとされている。

今回問題となっている事件は、2004年8月14日、アメリカの青年、デヴィッド・スネドン(24歳)(David Sneddon)が、中国留学の終わりに雲南省を観光と、チベット民族の研究の為に訪れた名勝の地、虎跳渓付近で消息を絶ったことに関する疑惑である。

デヴィッド氏失踪を聞いたスネドン家の父親ロンと長男のマイケルは、事件が報道された一カ月後に現地、雲南省に飛び、捜索を始めている。

スネドン家はモルモン教の信徒で、デヴィッドは北京に語学留学する以前にはモルモン教の宣教師として韓国で2年間住み、流暢な韓国語も話せたと云われる。

デヴィッドはトレッキングを楽しみながら虎跳渓を通過したが、当時、捜索にあたった米国務省も中国当局も彼が「峪」に転落した事故とほぼ断定していたと云われる。

しかしスネドン一家は最初の現地での調査でデヴィッドが虎跳渓を通過後にシャングリラ県に入り、食事と散髪をしたのを目撃したと云う9名からの証言を得ていることが判明した。

又、デヴィッドが旅行に出発する前に、北京で米国からの留学生:ジャスティン・リッチモンドと数日過ごしたことも判明した。リッチモンド氏は北朝鮮に近い中国の延辺大学に留学して「脱北者」の研究をしていて、中国当局から出国要請を受けていたと云われている。(この二人は以前に韓国で布教に従事した仲間)

プロヴィデンス市(ユタ州)でデヴィッドの家族は、中国当局は、この事件には無関係であるとの証言を得ており、それならば、他に考えられるのは「北朝鮮」以外に無いと半ば結論付けている。

デヴィッドの母親のキャサリン氏は、夫の推論に同意しながら、デヴィッドが当地の朝鮮料理店からいなくなっている事実から考えて、デヴィッドは北朝鮮にとって完璧な候補者に映ったと思う、何故なら“デヴィッドは完全な朝鮮語、標準的中国語と英語に堪能”であったことをその根拠としている。

VOA(ボイス・オブ・アメリカ)との電話会談で、母親のキャサリン氏は“彼等(北朝鮮)がどのような目的でデヴィッドを必要としているかは知らないが、それ以上に我々家族はデヴィッドを必要と思っている、Let him go”と答えた。

アメリカ政府も中国当局もこの事件について確とした証拠はあがっていないと述べているが、北鮮拉致家族は既に今週、アメリカ国会議員にワシントンに招かれて「スネドン事件」について協議を行い、スネドン一家も先月、東京で、北朝鮮拉致関係者とも面会している。

北朝鮮拉致にアメリカの青年も永く関係していたことが明白な事実となれば、この問題のは意外に早く解決するのではと期待したい。

本日(5/19)付、産経記事は、スネドン一家は地元ユタ州選出のマイク・リード上院議員やジェイソン・シェイフィッツ下院議員にデヴィッド氏の行方捜査要請を直接始め、次期共和党大統領」候補(モルモン教徒)みっと・ロムニー氏にも直訴も考慮中とか伝えられ、これが一気にアメリカ外交問題になる可能性も考えられる。

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アメリカの覚醒

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今年11月に迫った中間選挙を目前に、オバマ大統領の「新兵器」とも云うべ新手の戦略は、新語「リショアリング」(reshoring)、「バックショアリング」(backshoring)と「ニアショアリング」(nearshoring)を提唱した、ハリー・モーザー(Harry Mozer)に共鳴を示し、前世紀末に一旦、低賃金を求めて、中国やアジアの各地に出て行ったアメリカの産業を本国に呼び戻そうと云う運動である。

shoreとは岸辺のことで、従って、リショアリング(reshoring)は一度、オフショアー(offshore)したものをバックさせる意味を持たせた新語である。

これはアメリカの“覚醒”とも云うべき革命的な新発想ではないかと筆者は考える。

米企業のリショアリングを促進する団体「リショアリング・イニシャティヴ」の創立者、ハリー・モザー氏は「米製造業は復活し、米経済の回復を導いている」と強調している。

この現象の背景には中国での人件費の上昇やカントリー・リスクへの懸念が背景にある。錆びついたベルト(rusting belt)と呼ばれ、一時は見捨てられた重工業を中心としたアメリカ産業の再興をオバマ大統領が再び呼び戻す号令を下したと思われる。

米ボストン・コンサルティンググループ(BCG)が製造業106社を対象に行った調査では、「中国から製造拠点の移管を計画、もしくは、それを検討中」と回答した企業37%、その内年間売上高が100億ドル以上の大企業に限れば48%と半数近くに達している。BCGはこれらの企業のリショアリングによって米国内の企業に80万人の雇用が発生するとの試算も出しており、これに関係するサービス業なども含めると、さらに300万人の雇用創生となると予想している。

最近中国で顕著となりつつある、政治・社会リスクも看過できない現象で、その中で、特に象徴的なのが、米電子機器大手アップル社をめぐるトラブル。(商標権)

アメリカと中国間の商習慣や商道徳の顕著な違いもさることながら、手厚い政府の保護下にある中国企業と、自国産業がフェアーなグラウンド上で勝負することが至難な段階になりつつあると考えだしたとも思われる。

筆者はこのあたりに、したたかなアメリカ外交が働いていると思う原因として、米中間で4月に開催された経済フォーラムで、米ケイトー研究所のダニエル・イケンソン研究員が「中国は市場の自由化を進めているがメディアがそれを経済摩擦としてあおっている」と強調したり、別の米シンクタンクの関係者は「安全保障では譲れなくとも通商問題では決定的な摩擦を避けたいのがオバマ政権、米産業界の本音」とも云ったりしている。

米産業の「リショアリング運動」の起こりの発端と目的は、最近顕著となっている米中間の貨幣価値問題の是正の為のアメリカ式“恫喝”が考えられる。

それに加えて、商道徳にもとずく米中間の商標権やパテントの法律や習慣の問題の是正要請。

昨年に日本で発生した地殻変動や政治的混迷等の研究結果としての危険の回避や、輸送コストの削減等も重要要素である。

しかし何と云っても、既に半年後に迫ったオバマ政権の再選に向けてのプロパガンダと考えられ、これに依って、アメリカの失業問題の改善と、貿易収支の改善を達成する目的で掲げられたオアバマ大統領の切り札と思って間違いない。

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軍人・ウイリアム・テクムセ・シャーマン

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ウィリアム・テクムセ・シャーマン(William Tecumseh Sherman,1820-1891)は南北戦争での北軍の将軍。生まれはオハイオ州ランカスター、9歳で父親が死亡したため、近所に住んでいた上院議員、ユーイング(Thomas Ewing)に引き取られ育てられた。

“テクムセ”の名は1840年頃、アンドリュー・ジャクソンを悩ませた、有名なインディアン・ファイターの名前を頂いた感じだが、シャーマン程ハード・ボイルドな「勝つための戦争」に徹した陸軍将官は他には見当たらない。

1840年、ウエストポイント陸軍士官学校卒、砲兵隊士官としてメキシコ戦争に参加。1953年に一旦除隊して金融の仕事を手掛けるが失敗、南北戦争の勃発で、1861年志願して北軍に参加する。

グラント将軍{Ulysses Grant,後の第18代大統領}の協力を得て、、ヴァージニア、ジョージャー州の戦線で勝利をたて、ジョージア州のハヴァナを占領して、それをリンカーン大統領へのクリスマス・プレゼントとしたと言われている。

「風と共に去りぬ」の映画のシーンを記憶しているが、火の海のようになった町の中を逃げまどう人々の場面は、シャーマン将軍の徹底した破壊戦略の典型で、戦略には感情を挟まない冷徹な手法を物語っている。

1864年8月、シャーマンは正規軍の少将に昇格。退役して将軍となり、数多くの本を出版、戦略家としても名を馳せた。後に陸軍士官のための「上級士官幕僚大学(Command and General Staff College)の創設に貢献した。

シャーマンは優れた軍人であったが、“勝つためには手段を選ばず”の理念を貫いた人物であった。敵を倒すためには、物理的戦略の他に、先ず、敵の戦意の喪失に集中し、それによって相手を完ぴなきまでに叩きのめす戦略を手段とした軍人であった。

1870年以後、法制化された「ホームステッド法」で移民が西部地方に急増したせいで、それまで先住民居住地区とされていたオクラホマ州の半分にあたる地区をも国民に開放する際、そこに住んでいたスー族を放逐するためにシャーマンがとった手段は、先住民の生活の源、即ち、「バッファローの殺戮」であった。

アメリカ式プラグマティズムとでも云うべきか、”extermination、全てを消滅して障害物排除こそが彼の“絶対の勝利”の道であった。

結局、シャーマンは先住民の食糧源を絶つために、ユニオン・パシフィックの特別列車をチャーター、外国からハンターを呼び寄せてまでしてバッファロー撲滅を行ったと伝えられている。

フレデリック・ジャクソン・ターナーの唱えた「フロンティアーの消滅」を速める手助けをしたのはウイリアム・シャーマンではなかったろうか?

“敵に塩を送る”中世の騎士道の精神はもはやアメリカでは100年以上前から無くなっていた。

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お詫びと訂正

筆者の前号ブログにて、「アメリカ人口の推移」の欄で、1867年の人口を306万と紹介したが、3060万であることに気付き、お詫びを述べ、改めて訂正いたします。

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アメリカ人口の推移と日本の人口問題

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筆者は最近自宅の物置から、1867年発行のアメリカの歴史教科書を発見した。(Pictorial History of the United States,Pub.by E.H.Butlar & Co.)

この教科書は恐らく、我が国ならば中学校程度を目指したものであるが、最後が1865年のリンカーン大統領の暗殺と、事件後、アンドリュー・ジョンソン副大統領が大統領(17代)を引き継いだところで終わっている。

勿論、そこにはアラスカ領は東ロシアとして扱われているし、ハワイに関する記述はない。

インデックスにあった、その頃のアメリカの人口を見ると、総人口は306万である。

各州での人口分布別を調べると、①ニューヨーク(388万)②ペンシルヴァニア(290万)③オハイオ(234万)④イリノイ(171万)⑤インディアナ(135万)⑥マサチューセッツ(123万)⑦ミズーリ(118万)⑨テネシー(111万)⑩ジョージャー(106万)となっている。

2010年発行のニューヨーク・タイムズのアルマニャックによると、2008年現在のアメリカの総人口は3億406万で、1867年(141年以前、慶応4年)と比較して略100倍の増加を見ていることが判る。

明治5年の日本の人口は3480万であったが、現在では大略1億2000万として、多く見積もって、それから3.5倍にしか増えていない。

国土の広さを考えると仕方が無いとも思うが、アメリカと日本の国力の差は人口の面からも歴然としていることが判る。

そこで現在、アメリカの何処に人口が集中しているかを調べると、①カリフォルニア(3675万)②テキサス(2432万)③ニューヨーク(1949万)④フロリダ(1832万)⑤イリノイ(1290万)⑥ペンシルヴァニア(1244万)⑦オハイオ(1148万)⑨ミシガン(1000万)⑩ノース・カロライナ(922万)と人口分布が19世紀当時より可なり変化していることが判る。

日本では間もなく、人口が1億人を切るのではと憂慮されている。中国も人口政策の失敗から今後、老人の比率が高くなり、一人っ子政策の影響が顕著となり国力が衰えるのではと憂慮されている。

我が国がこれまで移民政策に極端に消極的政策を引いてきたツケが、今後取り返しのつかない結果を生むのではと心配になる。

この移民問題をどのように修正して行くかは、今後の教育にかかっていることは云うを待たない。

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アメリカのエネルギー事情の展望ー2

アメリカの経済状態は間もなく「大変貌」をする前兆を見せている。

前号に引き続き「エネルギー革命」によるアメリカの貿易収支が恐らく急激に改善されると思われるからである。

筆者が見る限り、「選択」5月号によると、「シェールガス革命」によっアメリカの国際競争力が急速に改善される可能性が見られる。

水圧破水砕法や水平掘削法と云う掘削技術の開発で、地下3千メートル頁岩から天然ガスと石油の抽出が出来ることが確実になった。

現在のところ判っている埋蔵量だけで考えても米国が消費する年間天然ガス量の100年分か、それ以上の資源が確認されたことをオバマ大統領が一般教書で明らかにした。

~6年前まではアメリカは60%のエネルギー資源を輸入に依存していたが11年度ではそれが45%に改善された。

将来の予想では、エネルギー収支は悪くてトントン、うまく行けばプラス(輸出超過)に転じると予想する専門家もいるほどである。

アメリカ貿易収支の赤字は最近では450億ドル、それから原油の輸入額を引くと、それが182億ドルに減少することが判っている。

このトレンドが正しければ、アメリカの貨幣価値は上昇(ドル高)に振れると考えられる。

ボストンの電力会社NSTARは2月に1キロワット時、8.5セントから5.5セント(34%)に値下げした。これは、これまでの石炭発電から天然ガス発電に切り替えたためで、今度は、家庭用電力も同じように値下げすると言う。

或る州では電力の卸売価格を1キロワット時2セントにするところも出てきている。

因みに我が国の電力料金は16~17セントに相当するわけで比較にもならない価格。

これだけの料金差では将来、日本はアメリカ製品とどのようにすれば太刀打ちできるのだろうか?

アメリカの電力供給量は約4兆キロワット時だから、例えば、20%カットでは7200億ドルの節約が見込まれる。

アメリカのシェールガスが天然ガスに占める比率が10年度では27%、11年度、34%であった。

現在の予想では、15年度43%、35年度には60%と予想する。10年~35年の25年間にシェールガス関連投資額を1兆9000億ドルと見ているとのこと。その間の雇用人員増は160万人、その結果GDPへの寄与を2311億ドルと見込んでいる。

これを見ていると良いことずくめだが、「シェールガス革命」の経済波及を4半世紀後まで予測して研究しているところに、アメリカ政府のこれにかける期待が如何に大きいかが見て取れるような気がする。

これに太陽光、風力発電の研究が進むにつれ、石炭や原子力に頼らないで生産力を向上させるエネルギー開発の将来像が見えて来るような期待に胸が膨らむ感があり、将来に希望が見えることは嬉しい。

(詳しくは「選択」5月号参照)

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シェール・オイルが世界産業を変える?

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シェールガス(shale gas):泥岩に含まれる天然ガス。泥岩の中で、特に、固く、薄片状に剥がれやすい性質をもつシェール(頁岩)に含まれることから、シェールガスと呼ばれる。
(注)通常の油田・ガス田以外から生産される天然ガス。すでに一部では商業生産が行われているもの(タイトサンドガス、炭層メタン、バイオマスガス、シェールガス)および今後商業生産が期待されるもの(メタンハイドレート、地球深層ガスなど)を含む。

頁岩層の微細な孔に含まれる天然ガスは10年ほど前の技術では簡単に採取することが難しいために放置されてきた。

今世紀に入って、アメリカでこの採取技術が見出され、それ以後、一転してアメリカの天然ガス生産は増加し始めた。

日本もこれまで液化天然ガス(LNG)の輸入を中東やロシアに依存してきたが、シェールガスの供給がアメリカ、カナダから安く調達できることになると、高い石油に頼っていた日本のような、世界中の非生産国と産出国との関係が大きくかわってくることが考えられる。

筆者は専門外なので、シェールオイル(Shaleoil)とオイルサンド(oilsand)をどのように区別して定義ずけるかを知らないが、オイルサンドに関しては世界の分布図ではカナダとヴェネズエラがその大半を産出するとされている。

中国でもシェールオイルの産出は確認済みであるが、技術的な関係から国営頁岩石油公団がカナダとの輸入交渉に入っていることが判明している。

本来ならば、世界中の天然ガスの需給関係は崩れ、今頃では、スポット相場が暴落しそうなものだが、昨年の東日本震災以後、次々と日本での原発が停止状態となった関係から日本の天然ガス輸入量が前年比52%も増加している関係から急激な相場変動は今のところおこっていない。

頁岩オイル抽出技術が今後順調に進めば、過去1世紀続いた産油国と非産油国の力関係に変化が生じ、天然ガス価格は石油と比較して八分の一の価格で、今後は石炭とも競合できることが予想されそうである。

今後は天然ガスが石油に代わって自動車の燃料として使用され、特にアメリカでは既に天然ガス火力発電所計画が机上の話題にのぼっているとのこと。

天然ガスを圧縮した圧縮天然ガス(CNG)を燃料とする自動車も発明された。

1980年以来続いた、オペックとメジャー石油による化石燃料価格のスペキュレーション時代に幕が降り、新しいステージに移行しつつあることが肌で感じられる。

“Gas to Liquid”(GTL)、即ちこれまでは液体燃料の時代であったが、ガスを液体として自動車や飛行機に使用する時代が到来、将来性が宿望されている植物を媒体とする燃料や、エタノールの本格的研究と合わせて「燃料革命」が始まろうとしていることに注目して、今度こそ我が国が世界の潮流に乗り遅れないことで「世界の強国」の位置を確立することを切望するものである。

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或る政治資金集め「パーティー券」代金

Georgeclooney3 (ジョージ・クルーニー)

アメリカ、ハリウッドの映画俳優ジョージ・クルーニー氏(georgeClooney,1961年生まれ)は民主党の支持者の支持者として知られているが、このほど(5月10日夜)オバマ大統領を自宅に招待して、再選に向けての資金集めパーティーを開いた。

本日の毎日新聞(5/12)によると、米CNNテレビ報道として、この選挙応援パーティー一回で、大統領選史上最高の金額1500万ドル(約12億円)が集まった。

オバマ氏が著作権保護問題に消極的なため、映画業界では不人気であったといわれていたが、今回のクルーニー氏の仲介で映画界との関係修復が図れたと云われる。

このイヴェント、夕食会チケット1枚4万ドル(約320万円)と云う豪華なものだが、女優のバーバラ・ストライサンド(Barbara Streisand)さん他、150人が参加、オバマ陣営からも、3ドル以上の寄付者の中から抽選で二人を選び、パーティーに招待した。

それで、クルーニー氏のファンからも総額900万ドル(7億2000万円)の寄付が集まることとなり、大成功となったらしい。

大手の映画製作会社ドリーム・ワオークス・アニメーション等も共同主催者として協力。ウオール・ストリート・ジャーナル紙によると、08年の選挙でオバマ氏支持にまわって、今回は見合わせている複数の業界大物をも説得、同意を取り付けたと云う。

政治資金の操作で、4億円を隠したとか、しなかっかで騒動となっている小国の日本政界にも、こんな桁外れの話は参考にもならないが、何処の国でも“政治は高くつく”と云う話の一例として参考になると考える。

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非現実的「北方領土」問題

戦後65年以上も経過して、未だに日本政府は「北方4島」は古来の日本領土をロシアが不法に占拠して返さないことを理由に二国間に平和条約も結ばれないままになっている。

現在その地方にロシア人を中心に8000人以上が生活しているのが現実である。

勿論のことその人達は戦後はソ連による共産主義教育を受けて育った人達が住民達を中心に生活共同体を構成して、今ではロシアに忠誠を誓って生活していると考えるのが常識と思える。

森前首相を中心に民主党からも度々ロシアを訪れて4島の日本への返還をやかましく要請しているが、「4島返還」が例え現実のものとなっても、どのようにしてここに住む住民達を待遇するのだろう。

まさか、島の住民に退去を命じて、代わりに日本人の住む領土に変えようと考えているとすれば、これは笑止千万、夢のまた夢の外交戦略として世界中の笑い物になるのではないだろうか?

ロシア側の理論にたって「北方4島」を論じるならば、それは1945年2月に行われたヤルタ会談で、アメリカ大統領フランクリン、 ルーズヴェルトの要請に従って、いわば、国際協定に基ずいて行った「千島列島」の日本からの割譲と云う立場をとっている。

北方4島がすべて無人島ならば、日本は返還されても困ることは無いが、現実問題として、そこには日本語を解しない、イノセントなロシア人民が生活しているからには、これがむずかしい問題になる前に、ロシアと妥協の道を探るべきであると考える。

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通信技術の重要性

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明治37年5月27日午前4時45分哨戒艦「信濃丸」から“敵艦見ゆ”の打電によりロシアのバルチック艦隊がいよいよ近海に迫って対馬海峡に向かっていることをいち早く察知できた。

これは、その当時、世界的なレベルに達していた日本の通信技術の賜物と言える。

モールス信号の技術を最初に我が国にもたらしたのは、1854年、ペリーアメリカ東インド艦隊であった。

ペリーは本国からこれを持参して将軍徳川家定に献上したのが日本の通信技術の始まりであった。

現在でも、この実物は国の重要文化財として東京丸の内のオフィス街にある、逓信総合博物館に保管されていると聞く。

モールス信号を使って、ワシントン~ボルティモアー間で最初に通信実験が行われたのは、1844年のことである。僅かに10年後の幕末の我が国に、これと同じモールス信号機が到来していたことは意外に思える。

交通と通信は切っても切れない関係にある。

戦時の場合では通信技術が勝敗を分ける場合が多い。前述の信濃丸からの電信による通達によって日本海軍は目前に迫りくる敵艦隊を余裕を持ちながら対峙出来た。

又、その反対は、第二次大戦時のミッドウエイ海戦でレーダー技術の遅れで、我が国の艦隊は貴重な4隻の航空母艦を喪失して、その後の戦争続行に支障をきたしたことである。

1866年(慶応2年)には大西洋に海底ケーブルが完成、1871年(明治4年)には上海~長崎~ウラジヴォストーク間に電線が敷設され、、アメリカ→ヨーロッパ→ロシアを経由して日本への通信網が完成した。

最初の頃はエンボス式モールス通信機であった。ペリーはこれを日本に持ち込んで幕府の役人達に展示、実演してアメリカ式威圧外交の材料に利用した。

その後、オランダからはカナ文字のモールス符号利用のテキストなども輸入されて暫時日本独特の信号伝達システムを積み上げて行った。

我が国最初の電信実験は1869年(明治2年)のこと、お雇い外国人、ギルバートが横浜弁天にあった灯明台から本町通りの裁判所、約800メートルの工事を担当、官用通信の実験をした。次いで東京~横浜、また、1970年(明治3年)、大阪~神戸間に通信設備が出来た。

鉄道技師ノエドモンド・モレルの進言で、伊藤博文、山尾擁三、大隈重信が中心となり工部省が設立され、1873年((明治6年)工部寮の初代教頭にグラスゴー大学出身のヘンリー・ダイヤーと七名のインストラクターを迎え、電気工学、応用化学、建築学等広範にわたって技術輸入に努めた。

その頃の学生たちも熱心に就学し、新しい西洋の科学技術の吸収に真剣であったが、教師もそれに負けない程真剣であった。その様子を伝えるエピソードとして、電気工学担当のウイリアム・エアトンは、帰国する日ぎりぎりの時間まで学生の実験を指導し、新橋駅に人力車で駆け付けたが汽車に乗り遅れ、再び学校迄引き返して、次の列車の発車時刻まで授業を行ったと云われている。

工部大学校は1879年(明治12年)に第一期生23人を送り出し、1885年(明治18年)迄に合計211人の卒業生を送り出している。

帝国大学の発足はその翌年」、明治18年のことであった。

日清戦争の勃発はそれから10年後のことであったが、ペリー来航から半世紀も経たない迄に日本は名実ともに近代国家として世界に羽ばたくことが約束されていた。

その史実を見るにつけ、21世紀の我が国の存在が如何にもみすぼらしく、悲しいまでに落ち込んでしまっている現状をどうしても立ちかえらせて、もう一度世界にその存在を知らしめて欲しいと念じるのは、唯筆者のみではないと考える。

※参考資料「日本の近代技術はこうして生まれた」馬渕浩一、玉川大学出版部、1999年

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陳光誠事件を見守ろう

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「食足りて礼節を知る」とは何処の、誰の言葉だったのだろう?

先日、「大使館を出なければ、妻を殴り殺す」と中国当局者が米側を通じて、北京のアメリカ大使館に保護されていた盲目の人権活動家・陳光誠氏に投げかけた伝言であったと云われている。

実際にこれが事実ならば、中国政府当局の役人は正に暴力団か闇組織構成員に近い性格で、これは脅迫行為でしかない。

その後、陳氏は大使館から出て北京市内の病院で家族と再会した。現在アメリカ側は中国側の圧力を否定、「陳氏の安全は保障される」と述べていると云うが、それには具体性が見られない。

「妻を殴り殺す」との脅迫で一旦逃げ込んだアメリカ大使館を出て、病院に移ったことは、脅迫に対してアメリカがある程度の妥協を示したことで、“窮鳥懐に入れば漁師も・・・・”と云う例え通りにはなっていない。

世界第二の経済大国、中華人民共和国のモラルは健全とはいえないばかりか、今回の陳氏事件は彼等の人権抑圧の実態が顕在化した大事件と云えない事はない。

盲目でありながら、軟禁されていた自宅から          怪我の体を引きずって8時間もかけて北京につき、結果、アメリカ大使館に保護を求めた。

クリントン国務長官をはじめ世界のメディアも今後の事件の進展を注視、中国側としても、今まで恒常的に行ってきた仕打ちで、すべてを抹殺することは出来ないのではと思われる。

最近では何処でもネット社会が広がり、情報がリークしやすくなった、全世界のメディアがアンテナを張り巡らして監視している。

重慶の実力者、薄煕来氏の失脚事件と国内の権力闘争の詳細も既にアメリカに漏えいした。

陳光誠氏に関する事件の進展を注視、彼らが家族ぐるみの亡命を果せば、アメリカの面目躍如となるし、その反対の結果に終われば、アメリカが中国の影響力に屈したことが明らかになると云う誠に微妙な「綱引き」ゲームを監視したい。

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ハワイ王国の数奇な運命

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1959年8月21日ハワイはアメリカ合衆国の第50番目の州になった。それと同時にアラスカが第51番目の州として編入され、アメリカは50州からなる大国となった。

ところで、ハワイとアラスカはアメリカ合衆国の一部であることには違いはないが、それぞれのの州の成り立ちを考えるとき、全く違った背景を持っていることに気づく人は少ないのではないかと考える。

1867年、アメリカ政府は700万ドルでロシア帝国から「アラスカ地方」を正式に購入した。これは正式な商行為であって、1803年、ジェファソン大統領時代に「ルイジアナ」を1500万ドルでフランスから購入した行為と同じであり、これには何らやましいことはない。

しからば、ハワイ諸島はどうだろうか?

1898年(明治31年)アメリカ合衆国第25代大統領マッキンリーは同年7月7日ハワイ諸島併合の為の決議案に署名、ハワイの主権はアメリカに移譲されたと宣言した。

1900年4月、ハワイ領土平合法が交付され、同年6月、ハワイ領土政府が設立された。

マッキンレー大統領の太平洋進出の発端なるものは正に日清戦争(1894^1895)であったと考えられる。(アヘン戦争から約半世紀後)

マッキンレーは当時、西インド諸島中最大の島、キューバの権益を巡ってスペインとの間で問題を抱えていたが、1898年2月15日、キューバ島ハヴァナ港に停泊中のアメリカ新鋭戦艦「メイン号」が原因不明の爆発で沈没した事件を取り上げ、スペインに宣戦布告、一挙に太平洋上の島、グアム島とフィリッピン諸島までもを占領、戦争を終結させた。

これは「フロンティアー運動」の延長であり、その線上にハワイ王国も存在していたと見るべきであろう。

アメリカの西方進出計画は南北戦争当時から検討課題となっていて、リンカーン政権時の国務長官であったウイリアム・シュワード(William Seward

はその急先鋒であった。即ち、シュワードの立案によりアラスカが購入され、アリューシャン列島、千島列島、樺太をシベリアにつなぐ海底ケーブルに加えて、船舶、鉄道延長でのヨーロッパへの伸長路が、ウエスタン・ユニオン会社と鉄道王、エドワード・ハリマンを中心にロシアのロマノフ王朝との間で真剣に討議されていた。

ハワイ王朝最後の国王のカラカウアを巧みに利用、ハワイ王国の最初の首相の座についたウオーター・ギブソン(Water M. Gibson,1822~1888)はカラカウアの死後追放されたが、カラカウアの後継として妹、リリウオカラニが、王朝最後の女王となった。彼女は1887年、アメリカ人によって作成された俗称「銃剣憲法」(bayonet constitution)に反対の立場をとった為、アメリカ全権大使ジョン・スティブンスは政府に要請、戦艦ボストンをホノルル港に派遣させ島民の暴動に備えた。

1893年、女王の執拗なるアメリカに対する敵愾心に業を煮やしたアメリカ側は海兵隊を市中に展開させ島民の鎮圧にあたらせ、女王も一時、幽閉の身となった。

このような悲しい運命をたどった後、ハワイ王国は武力によって大国アメリカに併合されることとなった。悲しみに打ちひしがれた女王、リリウオカラニが詠んだ「アロハオエ」はそのような悲しい環境から生まれた作品で、現在でも世界の名曲として謳われ続けている。

1993年11月、ハワイ王朝転覆100周年記念式典に際し、アメリカ大統領ビル・クリントンはアメリカ政府のハワイ王朝の転覆、その後の「併合」に悪意の策謀の存在の事実を認めハワイ人民に対し正式に謝罪した。

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貴方の身にsつける「腕時計」の価値

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貴方は実用派か、ブランド派か、それは各人各様だが、、本日の毎日の「水説」を読んで驚いたことがある。

筆者は実用主義で高級な腕時計には何の魅力を持たない。“時は一つ”主義で、1000円の時計も、1個、100万円のものも刻む時刻は同じだからである。

Wall Street Journal magazineの5月号に、世界有名時計ブランド7種類が掲載されていて、そのいずれもがスイス製で、日本製のものは含まれていない。

我々日本人はオリンピックの陸上競技場で「SEIKO」が使われていることで、この世界はカメラと同じく日本製が世界一と云う感覚を持っていた。

ところが最近の資料によると、(日本時計協会)2011年の生産高は6430万個(前年比2%減)、総売上高、1689億円、内輸出5790万個(同2%減)で、売上金額は1010億円であった。

これに対し、スイス時計協会によれば、同年のスイス製時計の輸出額は、前年比19.2%増の約193億スイス・フラン((約1兆7000億円)だとのこと。

これはスイスは時計産業の規模(売上高)で日本の17倍をたたき出していることになる。

1969年にセイコーは、正確なクオーツ時計を売り出し、一種の革命を起こした。

そして、これを機に日本製のウオッチがスイスを追い抜いて世界一の座を占めたことを世界中が確認したと思われた。

今日の記事によると、スイスの時計産業は70年代、76000人を雇用していたが、80年代には3万人強に激減したらしい。しかし現状の数字が示すように、腕時計の世界市場では日本はスイスに再逆転を許してしまったことが判る。

スイスは苦境時には部品をアジアの工場に分散してコストダウンを図る一方、メーカーを集約し、ブランド力の強化に努めたと云われる。

そうした努力の積み重ねで、世界の高級時計市場を独占できるようになった。

これは各人の趣向の問題で、筆者としてはどちらでもよい話だが、スイスの産業規模における1兆7000億円がGDPに占める比率と、同じ金額の日本での価値観は比較できるものではないことは明らか。

米アップル社のIPHONEの部品の3分の1は日本製だとのことであるが、これに匹敵する日本製の携帯電話はない。

女性はブランドものの時計にはあまり興味は示さないが、ハンドバッグ類には男性には見られない魅力を感じると云う。

「ブランド」とは自分にとって“何物”なのだろうか?

ミッキー・マウスのデザインのおもちゃのような時計は、大の大人が身につけるにはふさわしいとは思わないが、「時は一つ」の感覚からすれば一個、100万円の時計はアクセサリーで、何ら1万円のセイコーと時計としての実質的価値は少しも違わないと云うのは唯の筆者のやせ我慢。

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