« 陳光誠事件を見守ろう | トップページ | 非現実的「北方領土」問題 »

通信技術の重要性

Photo

明治37年5月27日午前4時45分哨戒艦「信濃丸」から“敵艦見ゆ”の打電によりロシアのバルチック艦隊がいよいよ近海に迫って対馬海峡に向かっていることをいち早く察知できた。

これは、その当時、世界的なレベルに達していた日本の通信技術の賜物と言える。

モールス信号の技術を最初に我が国にもたらしたのは、1854年、ペリーアメリカ東インド艦隊であった。

ペリーは本国からこれを持参して将軍徳川家定に献上したのが日本の通信技術の始まりであった。

現在でも、この実物は国の重要文化財として東京丸の内のオフィス街にある、逓信総合博物館に保管されていると聞く。

モールス信号を使って、ワシントン~ボルティモアー間で最初に通信実験が行われたのは、1844年のことである。僅かに10年後の幕末の我が国に、これと同じモールス信号機が到来していたことは意外に思える。

交通と通信は切っても切れない関係にある。

戦時の場合では通信技術が勝敗を分ける場合が多い。前述の信濃丸からの電信による通達によって日本海軍は目前に迫りくる敵艦隊を余裕を持ちながら対峙出来た。

又、その反対は、第二次大戦時のミッドウエイ海戦でレーダー技術の遅れで、我が国の艦隊は貴重な4隻の航空母艦を喪失して、その後の戦争続行に支障をきたしたことである。

1866年(慶応2年)には大西洋に海底ケーブルが完成、1871年(明治4年)には上海~長崎~ウラジヴォストーク間に電線が敷設され、、アメリカ→ヨーロッパ→ロシアを経由して日本への通信網が完成した。

最初の頃はエンボス式モールス通信機であった。ペリーはこれを日本に持ち込んで幕府の役人達に展示、実演してアメリカ式威圧外交の材料に利用した。

その後、オランダからはカナ文字のモールス符号利用のテキストなども輸入されて暫時日本独特の信号伝達システムを積み上げて行った。

我が国最初の電信実験は1869年(明治2年)のこと、お雇い外国人、ギルバートが横浜弁天にあった灯明台から本町通りの裁判所、約800メートルの工事を担当、官用通信の実験をした。次いで東京~横浜、また、1970年(明治3年)、大阪~神戸間に通信設備が出来た。

鉄道技師ノエドモンド・モレルの進言で、伊藤博文、山尾擁三、大隈重信が中心となり工部省が設立され、1873年((明治6年)工部寮の初代教頭にグラスゴー大学出身のヘンリー・ダイヤーと七名のインストラクターを迎え、電気工学、応用化学、建築学等広範にわたって技術輸入に努めた。

その頃の学生たちも熱心に就学し、新しい西洋の科学技術の吸収に真剣であったが、教師もそれに負けない程真剣であった。その様子を伝えるエピソードとして、電気工学担当のウイリアム・エアトンは、帰国する日ぎりぎりの時間まで学生の実験を指導し、新橋駅に人力車で駆け付けたが汽車に乗り遅れ、再び学校迄引き返して、次の列車の発車時刻まで授業を行ったと云われている。

工部大学校は1879年(明治12年)に第一期生23人を送り出し、1885年(明治18年)迄に合計211人の卒業生を送り出している。

帝国大学の発足はその翌年」、明治18年のことであった。

日清戦争の勃発はそれから10年後のことであったが、ペリー来航から半世紀も経たない迄に日本は名実ともに近代国家として世界に羽ばたくことが約束されていた。

その史実を見るにつけ、21世紀の我が国の存在が如何にもみすぼらしく、悲しいまでに落ち込んでしまっている現状をどうしても立ちかえらせて、もう一度世界にその存在を知らしめて欲しいと念じるのは、唯筆者のみではないと考える。

※参考資料「日本の近代技術はこうして生まれた」馬渕浩一、玉川大学出版部、1999年

|

« 陳光誠事件を見守ろう | トップページ | 非現実的「北方領土」問題 »