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軍人・ウイリアム・テクムセ・シャーマン

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ウィリアム・テクムセ・シャーマン(William Tecumseh Sherman,1820-1891)は南北戦争での北軍の将軍。生まれはオハイオ州ランカスター、9歳で父親が死亡したため、近所に住んでいた上院議員、ユーイング(Thomas Ewing)に引き取られ育てられた。

“テクムセ”の名は1840年頃、アンドリュー・ジャクソンを悩ませた、有名なインディアン・ファイターの名前を頂いた感じだが、シャーマン程ハード・ボイルドな「勝つための戦争」に徹した陸軍将官は他には見当たらない。

1840年、ウエストポイント陸軍士官学校卒、砲兵隊士官としてメキシコ戦争に参加。1953年に一旦除隊して金融の仕事を手掛けるが失敗、南北戦争の勃発で、1861年志願して北軍に参加する。

グラント将軍{Ulysses Grant,後の第18代大統領}の協力を得て、、ヴァージニア、ジョージャー州の戦線で勝利をたて、ジョージア州のハヴァナを占領して、それをリンカーン大統領へのクリスマス・プレゼントとしたと言われている。

「風と共に去りぬ」の映画のシーンを記憶しているが、火の海のようになった町の中を逃げまどう人々の場面は、シャーマン将軍の徹底した破壊戦略の典型で、戦略には感情を挟まない冷徹な手法を物語っている。

1864年8月、シャーマンは正規軍の少将に昇格。退役して将軍となり、数多くの本を出版、戦略家としても名を馳せた。後に陸軍士官のための「上級士官幕僚大学(Command and General Staff College)の創設に貢献した。

シャーマンは優れた軍人であったが、“勝つためには手段を選ばず”の理念を貫いた人物であった。敵を倒すためには、物理的戦略の他に、先ず、敵の戦意の喪失に集中し、それによって相手を完ぴなきまでに叩きのめす戦略を手段とした軍人であった。

1870年以後、法制化された「ホームステッド法」で移民が西部地方に急増したせいで、それまで先住民居住地区とされていたオクラホマ州の半分にあたる地区をも国民に開放する際、そこに住んでいたスー族を放逐するためにシャーマンがとった手段は、先住民の生活の源、即ち、「バッファローの殺戮」であった。

アメリカ式プラグマティズムとでも云うべきか、”extermination、全てを消滅して障害物排除こそが彼の“絶対の勝利”の道であった。

結局、シャーマンは先住民の食糧源を絶つために、ユニオン・パシフィックの特別列車をチャーター、外国からハンターを呼び寄せてまでしてバッファロー撲滅を行ったと伝えられている。

フレデリック・ジャクソン・ターナーの唱えた「フロンティアーの消滅」を速める手助けをしたのはウイリアム・シャーマンではなかったろうか?

“敵に塩を送る”中世の騎士道の精神はもはやアメリカでは100年以上前から無くなっていた。

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