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ハワイ王国の数奇な運命

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1959年8月21日ハワイはアメリカ合衆国の第50番目の州になった。それと同時にアラスカが第51番目の州として編入され、アメリカは50州からなる大国となった。

ところで、ハワイとアラスカはアメリカ合衆国の一部であることには違いはないが、それぞれのの州の成り立ちを考えるとき、全く違った背景を持っていることに気づく人は少ないのではないかと考える。

1867年、アメリカ政府は700万ドルでロシア帝国から「アラスカ地方」を正式に購入した。これは正式な商行為であって、1803年、ジェファソン大統領時代に「ルイジアナ」を1500万ドルでフランスから購入した行為と同じであり、これには何らやましいことはない。

しからば、ハワイ諸島はどうだろうか?

1898年(明治31年)アメリカ合衆国第25代大統領マッキンリーは同年7月7日ハワイ諸島併合の為の決議案に署名、ハワイの主権はアメリカに移譲されたと宣言した。

1900年4月、ハワイ領土平合法が交付され、同年6月、ハワイ領土政府が設立された。

マッキンレー大統領の太平洋進出の発端なるものは正に日清戦争(1894^1895)であったと考えられる。(アヘン戦争から約半世紀後)

マッキンレーは当時、西インド諸島中最大の島、キューバの権益を巡ってスペインとの間で問題を抱えていたが、1898年2月15日、キューバ島ハヴァナ港に停泊中のアメリカ新鋭戦艦「メイン号」が原因不明の爆発で沈没した事件を取り上げ、スペインに宣戦布告、一挙に太平洋上の島、グアム島とフィリッピン諸島までもを占領、戦争を終結させた。

これは「フロンティアー運動」の延長であり、その線上にハワイ王国も存在していたと見るべきであろう。

アメリカの西方進出計画は南北戦争当時から検討課題となっていて、リンカーン政権時の国務長官であったウイリアム・シュワード(William Seward

はその急先鋒であった。即ち、シュワードの立案によりアラスカが購入され、アリューシャン列島、千島列島、樺太をシベリアにつなぐ海底ケーブルに加えて、船舶、鉄道延長でのヨーロッパへの伸長路が、ウエスタン・ユニオン会社と鉄道王、エドワード・ハリマンを中心にロシアのロマノフ王朝との間で真剣に討議されていた。

ハワイ王朝最後の国王のカラカウアを巧みに利用、ハワイ王国の最初の首相の座についたウオーター・ギブソン(Water M. Gibson,1822~1888)はカラカウアの死後追放されたが、カラカウアの後継として妹、リリウオカラニが、王朝最後の女王となった。彼女は1887年、アメリカ人によって作成された俗称「銃剣憲法」(bayonet constitution)に反対の立場をとった為、アメリカ全権大使ジョン・スティブンスは政府に要請、戦艦ボストンをホノルル港に派遣させ島民の暴動に備えた。

1893年、女王の執拗なるアメリカに対する敵愾心に業を煮やしたアメリカ側は海兵隊を市中に展開させ島民の鎮圧にあたらせ、女王も一時、幽閉の身となった。

このような悲しい運命をたどった後、ハワイ王国は武力によって大国アメリカに併合されることとなった。悲しみに打ちひしがれた女王、リリウオカラニが詠んだ「アロハオエ」はそのような悲しい環境から生まれた作品で、現在でも世界の名曲として謳われ続けている。

1993年11月、ハワイ王朝転覆100周年記念式典に際し、アメリカ大統領ビル・クリントンはアメリカ政府のハワイ王朝の転覆、その後の「併合」に悪意の策謀の存在の事実を認めハワイ人民に対し正式に謝罪した。

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