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「テラ・アウストラリス・インコグニト」

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イギリス殖民地であったアメリカで、1756から始まった“フレンチ・アンド・インディアン戦争”(French and Indian War、別称7年戦争)は1763年まで続いたが、フランスが敗退し、そのの結果、フランスはミシシッピー東岸と、カナダの領土(New France)を失った。

アメリカ人はこの戦争に於いて殖民地軍として戦い、初代大統領となったギョージ・ワシントンもイギリスと共に闘い多くの功績をたてた。

その間、殖民地人は宗主国イギリスの戦いぶりや戦術パターンを学んで、1776から始まった「独立革命戦争」に臨み、宗主国イギリスを打ち破って独立を勝ち取った。

しかし、正にその間、イギリスでは天文学に関する研究が盛んになっていた。

天文学的研究を太平洋で試してみようと云うことで、1769年にジェームス・クックを南太平洋に派遣して、その年の6月3日に金星が太陽面を横切るtransit of Venus(トランジット・オブ・ヴィーナス)の記録を残すこととなった。(第一次クック探検隊)

この探検はゼントルマン植物学者、ジョセフ・バンクス(Joseph Banks,1743-1820)の指揮のもと記録係として画家2人や多くの分野の専門家からなる大掛かりな探検隊であった、

クックによるエンディヴァー号のもう一つの大きな目的は、ヨーロッパで、永く語り続けられていた“太平洋の南に存在する大陸”の発見であった。

(その学説の根底として北に陸地が偏在するには南にそれ相応の陸地がなければ地球のバランスが保てないから、可能性として南方に大きな陸地があるに違いないと云うような、現代から考えればまことに稚拙な話であった。)

クックは海図作成の技術に秀でた能力を持ち合わせた第一人者と認められていたことから、この謎の大陸“テラ・アウストラリス・インコグニタ”(Terra Australis Incognita)を見つけ出し、海図を作成させる任務を担って出発した科学調査隊でもあった。

タヒチを出たエンディヴァー号は先ず、計らずも、ニュージーランドに出くわし、それが南北、二つの島からなる領地であることを世界で初めて証明した。それが今云う“クック海峡”である。

エンディヴァー号は、それから航路を西にとり、伝説の「南方大陸」の一部を形成しているがどうかを確かめるため、ヴァン・ディーマンス・ランド(Van Deaman’s Land)(現在のタスマニア)を目指した。

しかし暴風雨で北寄りに流され、クックの舟は、、タスマニアに到着する前に、後にヒックス岬と命名されたオーストラリア大陸の東海岸に流れ着き、結果的にクックはオーストラリア発見の最初のヨーロッパ人となった。(1770年4月20日)

此の場所でジョセフ・バンクス達が多くの植物を見つけたことによって、ボタニー・ベイ(Botany Bay)と命名されることとなった。

結局、第一次の探検では「謎の大陸」を発見できず、クックは東海岸を北に船を進め、同年6月11日、グレート・バリアー・リーフの浅瀬に乗り上げ、船が大破、7週間を費やしてそれを修理、ヨーク岬半島の北側、オーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を抜けた。

クックはオーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認」1770年8月22日、ポゼッション島(possession Island)に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。

3回に及ぶクックの探検でクックはハワイ島で殺害されたが、結局、テラ・アウストラリス・インコグニトの存在は幻と消えたが、その結果、[Australia]と云う国家が誕生した。

蛇足だがクックは、当時アボリジニーがオオカンガルーのことを”Guuru Yimidhirr”と呼んでいたことからganngurruから変化してkangaroo(カンガルー)と云う言葉となったことを記しておく。

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