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百貨店の将来を憂う

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デパートメント・ストアー(Department Store)、日本名“デパート”について筆者は恥ずかしながら今の今まで、これの正しい発祥を知らなかった。

フランスについて知識の豊富な鹿野茂氏著「デパートを発明した夫婦」によると、その起源は、アリステッド・プシコーがマガザン・デュ・ヌヴォーの商業システムを改良して、厳しい品質管理と、返品自由の制度の導入によって、それ以前によくあった「騙し売り」の商人根性と決別、「誠実」を売り物にして近代的商業のシンボル、“デパート”を誕生させたとある。

フランスでの近代的なデパートの源は、マガザン・ド・ヌヴォテ(流行品店)で、それは、問屋を介さない直接取引による「商品の低価格化」、「定価販売」、「入店の自由」がその主な謳い文句だったと鹿野氏が述べているが、これは我々が知っている日本式の百貨店像と少しかけ離れているように思える。

「定価販売」の徹底を踏襲した点はその通りだが、「問屋を介さない」、「商品の低価販売」らについては、日本では忘れられていたのではと思わざるを得ない。

百貨店で値切る客は日本ではマレで、何故なのかとあまり思ったことが今までなかったのは何故だろう?

コンビニでは、それが24時間の営業で、客に便利さを売り物にしているのだから仕方ないと思うのだが、百貨店は商店を大きくしただけの企業でしかない。

問屋を介さない商法をとっている百貨店は日本には存在しないし、むしろ日本では、どの百貨店も問屋に“おんぶにだっこ”で今まで生き残ってきた。

先日、或る有名百貨店に行き、Yシャツの売り場を尋ねると、店員が「どのお店に行かれますか?」と聞いた。そこで筆者は●●百貨店のものを探していると云えば「それは置いていません」と言う返事。

今や、そこは複数の店舗に場所を提供して「場所貸し」百貨店でしかないことが判った次第。

日本のどの百貨店にも特殊な顧客用として「外商部」と云う部署がある。筆者の兄がながく百貨店勤務をしている関係から知ったのだが,高級外車のような高価なものを買うなら、外商を通して買えば、“ある時払いの催促なし”で、暫くほって置いても利息もつかなければ、或る期間、催促も来ないと教えてくれたことを覚えている。

滅多に売れないような高価な品物を売れば、それは外商店員の手柄で、売掛金勘定扱いになって、その内容はともかく、会社の財務部は、売掛金勘定が多いほうが良いと云う成績重視、内容無視と云う殿様商法的風土に浸っているきらいがある。

話はかなり本題から逸れてしまったが、筆者は日本の百貨店業界は今や重大な曲がり角に差しかかっているのではと警鐘を鳴らしたい気持である。

今の有名百貨店のどの一つをとっても、特殊性は見当たらず、ただむやみに増床競争をエスカレートさせ、自ら泥沼に首を突っ込んでいる感がある。

つまらない見えを捨てて、大型小売店の特色が何かを見つけ、常道を進んで欲しいと願うばかりである。

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沖縄防衛は日本の責任

京都新聞7月25日社説に米軍「オスプレイ搬入」に際して“安保のありを方考えたい”と云う見出しで、米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが、一時駐機のため岩国基地に搬入されたことについて、“国と地方の信頼関係を損ねる極めて残念なやり方だ。“との言い分を述べている。筆者から考えてこの「社説」は日本国に対しての発言なのか、又はアメリカに対しての抗議なのかハッキリとしない。

日米安保成立から既に40年以上も経過しているのに今更「安保のありかたを考えたい」とは、誰が何をどのように考えるのだろうか?

日本では未だに有事の時にどのように国を守るのかもハッキリと決まっていない。即ち政治家たちの議論の焦点「集団的自衛権」が是か非かも議論の分かれるところとなっている事実を聞いてアメリカはどのように感じているだろうか?

この社説は「日本国内でありながら、政府の力が及ばない基地があり、米軍機が訓練を繰り返している。日米安保のいびつさをオスプレイはあらためて見せつけた。これを機に、安全保障のありかたについて国民全体で考えたい」と書き、一方で「(オスプレイの)国内配備の日程を動かす考えはない」と森本防衛省の言を引用している。

森本防衛省は政府を代表して、アメリカ海兵隊が決めたオスプレイ配備は今更覆せないと断言しているのに、マスコミが社説で安保のありかたを国民全体で考えたいと叫んでも民意の混乱を招くだけでプラスに働かないのではと筆者は考える。

英語に”read between the lines”と云う表現があるが、日本政府は日米安保条約のすべての条項をたんねんに読み返す必要があるのではと考えざるを得ない。

沖縄に限らず日本全土に点在する米軍基地は果たして日本ガアメリカに公的に貸与しているのか、それともアメリカの治外法権の及ぶ領土なのか、是非とも国民に本当のところを開陳して欲しいと思っている。

アメリカはオスプレイをヘリの一種と考えていることは明らかで、決して特殊な機種とは思っていないのではと考える。

この社説でも、オスプレイ配備は、既に「重要な装備の変更」でなく、この機種に関して日米両政府の意見は一致していると述べている。

これに関して野田首相は既に“日本が(相手に)どうしろ、こうしろと云う話ではない”とまで国会で答弁している。

アメリカの行動が日米安保条約で認められた範囲内のものであれば、アメリカ側からすれば日本こそが民意を合意に導くべきだと思っているのではと考慮する。

民主党は2年半前の選挙公約で、沖縄の米軍基地は廃止して、国外か、少なくとも県外に配置換えさせると公約したことで問題はさらに大きくなったのだから、このシガラミを払しょくして民意の統一を計る責任は、アメリカになく日本政府にあることは明らかである。

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比叡山寺のこと

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京都の比叡山と云えば開祖の“最澄”と“延暦寺”を思い浮かべるのだが、京都新聞「京の山寺・山城跡を行く」梶川敏夫氏文章には、最澄(伝教大師)は始め、比叡山寺と呼ぶ小さな草庵を山中に建立したことから出発したとある。

最盛期には、東塔、西塔、横川の3塔16谷を中心として、比叡山3千坊と呼ぶ堂塔社殿や坊が広い山全体に点在、大伽藍を誇ったことが判る。

1571年(元亀2年)の織田信長の焼き打ちに遭い、略、全山が灰燼に帰したが後に秀吉、家康により再興が進み、明治維新の仏教排斥の難をも乗り越えて、今に至るまでに、多くの堂宇が再建され隆盛を誇っている。

この記事によると、比叡山は古事記にも記載があり、古来から信仰の山であったとのこと。

奈良時代の天平17年(745)の藤原仲麻呂の詩に、仲麻呂の父、武智麻呂が、俗世界を離れた神山(比叡山)に宝殿を建て、一人修業していたことが記されていて、このことは最澄の入山以前から霊峰として崇められていたことの証とも解釈できる。

最澄が初めてこの山に入ったのが延暦4年(785)、最初に建立した御堂が一乗止観院で、これは薬師堂を中心に、北に文殊堂、南に経蔵が存在し、都が奈良から京に移った直前の延暦13年(794)に初供養が行われたらしい。

最澄の没年、弘仁13年(822)には朝廷から念願であった大乗戒壇建立の勅許が下り、さらに、弘仁14年(823)には嵯峨天皇から寺額をさずかり、そこで比叡山寺から始めて、年号を寺号とする「延暦寺」が誕生したことが判る。

従って延暦寺は平安京遷都以前の比叡山寺の頃から、比叡の山林修業を旨として、「論・温・寒・貧」戸」と称して、厳しい修業を積む寺院として伝統を継承しながら今日まで続いていることが判る。

「あきらけく 後のほとけの みよまでも 光り伝えよ 法のともしび」と謳った最澄の頃から、根本中堂内陣の「不滅の法灯」は文字通り絶えることなく伝承されているとのことである。

(2012年7月23日、京都新聞記事より抜粋)

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「ブラ」の考古学

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Epson001最近発見された15世紀の「ブラ 」

去る2010年5月28日、ニューヨーク市で”100 Anniversary and Cerebration of the Invention of the Bra NYC”は、ブラ発明100周年が催された時のヘッド・ラインであるが、これはファッション技術協会(Fashion Inst. of Technology)主催でモダーン・ブラの発祥地と言われるニューヨーク市で、ブラ研究家のロリー・トーマス(Lori Thomas)とブラの歴史家、ジーン・ルチアーニ(Jene Luciani)達が、歴史的展示品を加えて、近代ブラジャーが発明されたとされる1910年から1世紀を大々的に祝った。

最近では,Dr.kaveh Alizadehによる、自分の皮膚を使って内部から作ったと云われる”Big Apple’s first human Bra”、別名”Naturabra”も紹介されたとある。

メリー・フェルプス・ジェーコブ(Mary Phelpa-jacob)が、それまで身に着けていたコルセットがあまりにも窮屈であったため、1910年、夜会服の下に装着するように別注で作らせたブラが最初のものとされ、それは、1914年にパテントを取得したと云われている。

コルセットは19世紀、ヴィクトリア朝の産物で、女性たちはスズメバチのように細くくびれた腰に憧れ、その理想はほぼ45センチ(18インチ)とされ、「結婚するまでは自分の年を超えないサイズ、18インチを維持、ウエーストのサイズが21インチに達するとされる21才までに結婚するように努力した」らしい。(ヴィクトリア朝百科事典、谷田博幸編、河出書房社参照)

このコルセットには1840年頃迄肩紐が付いていて、乳房に合わせて作られたと云われている。

鯨骨入りの硬いコルセットを着用させられていた上流階層の女性たちの苦しみは現代人からは、まさに筆舌に表せない程の苦痛に耐えていたと思われる。

20世紀の初頭から、この苦しさから解放されるべく現れたのが、モダーン・ブラ(写真)で、それがアメリカ・ニューヨークに出現したとして大々的な記念式典が一昨年挙行された、

それでは、昨日(7月21日)ウイーン共同通信の写真入りの記事(京都新聞紹介)のオーストリアのインスブルック大学が、同国の古城から出てきたとされる15世紀の「ブラ」をどのように説明するのだろうか?

新聞掲載の写真では、マネキンに装着されて紹介されているが、それは肩から下る形式ながら、正に現代のスタイルと略同型である。

これはリネン製で、放射性炭素年代測定法によって制作年代が特定されたと云われる。

同大学の考古学者は、地元メディアに「これまでに発見された世界最古のブラジャーだ」と宣言した。

大学や地元のメディアによると、オーストリア西部チロル州の城で2008年、考古学者らが大量の放置されていた布の中から、肩紐や、二つのカップが付いたブラが複数見つけ、それら一部はレースなどで飾られたものもあったと云われる。

略2年前に“ブラ誕生1世紀”を大々的に祝ったニューヨークのファッション技樹協会の弁明を承りたいものである。

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蝶の分布

Photo_2イシガケチョウ」

本日(7月22日)京都新聞、本来は南方系の蝶5種が京都で見つかったと云う見出しで、「イシガケチョウ」、「クロコノマチョウ」、「ツマグロヒョウモン」、「ムラサキツバメ」、「ホソオチョウ」らが写真入りで紹介されていた。

それと、「ナガサキアゲハ」が1940年に九州北部で発見されて以後、2000年には山梨県付近にまで移動していることも指摘されている。

蝶に詳しい、京都府立乙訓高校の生物担当の宇高敦教諭、20年前まで府内では稀にしか見つからなかったナガサキアゲハが、他のアゲハの仲間より勢力を増していると述べている。

ナガサキアゲハは、東南アジアから中国南部、台湾あたりにいる大型のアゲハ蝶で、江戸末期に生物の研究をしたオランダのシーボルトがこの蝶を長崎で発見したことで、この名前がつけられたと云われる。

山城地方のチョウの研究家、相楽俊氏(54)も、1994年に同種を最初に目撃してより、今ではこの辺で最も多く見られる種類の一つとなったと述べている。

滋賀県立琵琶湖博物館(草津市)は、03~05年度、県内のアマチュア研究者と一緒に蝶の分布状況を調べ、その結果、前述の5種類の、今まででは南方系のものとされていた蝶たちが、滋賀県周辺で発見されだしたが、その反面、オオムラサキに代表される本来は普通種をみられていたものが減少していることが判ったとも云われる。

共同研究に携わった八尋克郎総合学芸員(49)によると、「ツマグロヒョウモン」は幼虫の食草となるパンジーが最近、園芸ブームで広がり、ホソオチョウは輸入された種が朝鮮半島から持ち込まれて広がったと云われている。

これは正に地球温暖化のバロメーターとして貴重な事象確認であり、北海道での米の収穫が定着したのも同じ現象、又、北極海の氷が減り、水面の上昇で多くの洋上の島々周辺での被害もこの現象と関係が深い。

恐らく、この地球温暖化現象は蝶類のみならず、渡り鳥の種類にも影響が及んでいることは事実だと思う次第。

自然観察を通じて季節の移り変わりを調べたり、世界に分布している蝶や昆虫の研究でいろいろのことを子供達に学ばせることは貴重であると筆者も認識を新たにさせられた。

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「日米安保」条約を再度研究!

米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22スプレイの米軍岩国基地(山口県岩国市)への搬入をめぐり、政府が地元地元自治体に予定を伝達したことで批判が高まっていることを7月21日の各新聞は大きく報道している。

渡邊周副防衛相は20日、カーター米国防副長官と会談、「これを強硬に配備すれば、日米地位協定や日米安保条約のありかたについて議論が起こり、日米同盟の損失になる」と云い米側の慎重対応を求めた。

また,玄場外相も外務省にカーター氏を呼び、「地元から厳しい反応が寄せられている」と述べて、とかく安全性に問題があると噂をよんでいる“オスプレイ”の運行上の安全性の確保に留意するように迫ったと毎日新聞は報じているが、冷静に考えて、日本政府は既に、この問題の米側との討議の時期を失っているのではと筆者は考える。

オスプレイの開発にアメリカは、恐らく膨大な国防予算を費やしていると考えられるし、これまでの日米交渉の経過に於いて、これ以上は“待てない”と結論づけた結果の行動であるに違いない。

日米安保条約規約をひもどけば、恐らく、今回のアメリカの動向を日本が否定できない「条項」が織り込まれているのでは、と筆者は思考する。アメリカは独立以来、あまたの多国間協議を経験してきた。

日米両国間の地位はともかく、日本側から見て、“唐突で強硬”と思われるアメリカの行動を法律的に糾弾できる「資料」が日本にあるのか否かが問われている。

筆者の考えるところ、今回、“沖縄進駐”以前に何故岩国を選んだのかも合わせて考えるとアメリカの目論見が如何に綿密で慎重だと云うことに気づかされる。

アメリカがオスプレイを日本に持ち込むに際して、何故、直接に沖縄ではなかったのか?

アメリカの情報機関は健在で、他国の内情の微妙な事情にも精通する専門家を多く抱えている。ましてや、海外の軍事基地周辺の事情に関わる問題である、岩国市の抱える「事情」にも調べが付いていると考えれば、自ずと全てが見通せるのではと考える。

尖閣諸島を如何にして防衛するかは我が国にとってひっ迫した国防の大問題である。

しかも、それは沖縄本島から、さして遠い位置ではないことを我々は忘れてはならないし、今こそアメリカと共同で安保問題を前向きに考えるべきである。

そして、日本国にはあまり時間は残されていない!

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季節のたより2題

Photo_2 (ノゼンカズラ)

今朝(7/20)NHKラジオ深夜便を聞いていたら、今日の誕生日の花が“ノーゼンカズラ”と云うことを知った。

これは中国原産で平安時代には来ていたらしい。

夏から秋にかけて橙色、或いは赤の鮮明な花をつける“つる性”の落葉樹(deciduous)

気根をだして樹木や壁などに付着しながら伸びて行くところはクレマイス、和名「てっせん」(てっせん唐草)もそういえば中国産なのだろう。

ノウゼンと云うのは淩霄の字音によるとのこと。霄は「空」、「雲」の意味で暑い夏の空、雲を目指して伸び、美しい花をつけるところを見るとエネルギッシュで、暑さに負けない強いシンボル的存在と思える。

花冠ははラッパに似て、5片の花弁をもち、葉も奇数葉状の複葉。

蔓には根があり、何かに固着しながら伸びる。

幹も藤のように、年とともに太くなり大変丈夫な種類であるとのこと。

落花すると、蜜がたれ、あたりを湿らす程で、それを目指してメジロが集まってくるらしい。

このロマンティックなところを、正岡子規が「家ごとに淩霄咲ける温泉(いでゆ)かな」の句が残っている。

もうひとつ、夏で思いだすのは「キキョウ」。子供の頃、庭のキキョウの蕾が潰せば音がするので悪戯して親に叱られたことを記憶している。

今日の京都新聞に亀岡市宮前町の観光園「キキョウの里」に約5万株のキキョウが見ごろを迎えているニュースが写真入りで出ていた。

戦国の武将・明智光秀のゆかりの寺として知られる谷性寺の檀家が、光秀が旗印としていたキキョウにあずかって、町おこしをするために、2004年から栽培を始めたものらしい。

毎年5000人以上の観光客でにぎ合うとのことである。9:00~17:00、入園料500円小学生無料。ききょうの里℡:0771-26-3753

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「ベーリング海峡トンネル」2

Bering Strait Tunnel Linking Russia & N.America will be World’s Longest

と云う見出しでAubrey Chang 記者の記事(Sept.21,2011.Ask.com)を紹介したい。

これは昨日のブログを修整する目的で、この記事の内容を最大限忠実に翻訳文の形態で伝えるものである。

ロシア(ユーラシア大陸)と北アメリカ大陸をベーリング海峡でつなぐプロジェクトで、今後、生まれる“世界最長のトンネル”構想は、ロシア政府により今月(2011・09・21)始め正式に承認された。

これが完成すれば全長65マイル(104キロ)となり、ドーヴァー海峡に出来たBritish Channel Tunnel,フランスとイギリスを結ぶトンネルの2倍の長さになる。

このプロジェクトは三か所に分けて構成される予定である。第一は、大ディオミード島(Big Diomede)迄、次は、小ディオミード島(Small Diomede)迄とし、それで、2大陸を結ぶ手筈となる。

この総工費は約$65billionと予算されて、これが完成すれば、全長3700マイル(5920キロ)となる予定で、現在、ロシア側のヤクーツクとカナダ側のブリティッシュ・コロンビアの間で工事が進行中とのこと。

これが完成すれば2大陸間にハイ・ウエイと高速鉄道、ファイバー・オプティック・ネットワークにガスと石油のパイプ・ラインが同時にできる予定である。

このプロジェクトの歴史は100年以上前、ロシア皇帝ニコラス2世が、1905年(日露戦争時)に構想したが、技術的な問題で先延ばしになっていたと云われる。

今回の構想は以前からあったが、2007年、ロシアの政治家、アレキサンダー・レヴィンサル(Aleksandr Levinthal)が、PPP構想(private public partnership)の名称でクレムリンが側からアメリカ側に提唱されたと云われる。

これは、ロシアの通産大臣、ヴィクター・ラズベジン(Victor Razbegin)RussiaTodayのインターヴューに答えた公式発表であり、ラズベジン氏によると、“工事は既に始まっており、ヤクーツク(Yakutsk)までの鉄道は15年来、進行中でこれが我が方の最初の工事部分で、一年以内に完成を予定している”

しかしこの時点(201111月)では、“未だ完全に全工程が決定した訳ではない、これには多数の国家が絡む政治的問題があり、必ずしも簡単ではない“と慎重な発言をしている。

この計画は時間が経るに従って現実味が加わってきていることは確実で、既に昨年の状態からはかなり前進している。

トンネル本体はともかくとして、ロシアとアメリカ、カナダ側のそれずれの国内での工事は日々確実に進行している。

トンネル自体の工事はほぼ15年が必要と云われ、去年の時点では、これの完成は恐らく、2045年とされていたが、今年の予想(別の新聞報道)では、2035年と前倒しにかわっていることからも、このプロジェクトが具体的に進んでいると思われる。

これがロシア側から西側に、少なくとも15年以前(1995年頃)にプロポーズされていた事を知るにつけ、この重大性を意識せずにはいられないと思う。

テオドール・ルーズヴェルトが日露戦争直後、日本の戦勝により、東洋からの脅威を感じとり、そこで、日本の封じ込めを覚悟、「オレンジ計画」を立ち上げて(1906年)、40年後に第二次世界戦争が開始されたいきさつがある。

当時、国務大臣を務めていたエルフ・ルート(Elihu Root,1845-1937)の顧客であった,鉄道王、ハリマン(Edward H. Harriman,1845-1909  は、ポーツマス平和会談の途中から来日、桂内閣の承諾を得て、戦後満州にて日米共同の鉄道網をシベリア鉄道と連結、鉄道と海運での「世界一周」計画が進むかに思えた矢先、会談から帰国した、小村寿太郎外相の断固たる反対で、この計画の破棄となった。

それまで日本に好意的であった、ルーズヴェルトはこれを聞いて、激怒、それ以後、日米関係が急変したと云われている。

いずれにしても、筆者が前号に指摘した、「米ロ親密」の歴史は、それ以後も根底的の民族間の心情はかわることなく連綿と続いていたと解釈すべきであろう。

又、100年前では、“日本”であった米ロのターゲットが“中国”と云う東洋国家にシフトされたと考えるべきであろう。

最近では北米大陸を中心にシェール石油ブームが叫ばれている。

それに加えて、北極海の海底探査も多くの国が注目している状態で、地下資源の供給、風力発電等、クリーン・エネルギー開発が益々進む事は確実であろう。

世界最強の米ロのドッキングこそ将来の世界を一挙に変えてしまうようなポテンシャルを秘めて、両者間では「夢」が膨らむばかりであろうと想像する。

日本政府はこれまで、「ベーリング海峡トンネル」のプロジェクトが可なり具体的に進行中と云うニュースを公にしたであろうか?

今年のウラジヲストックでのロシア主催のAPEC会談では何らかの形で公表の運びになるのではないだろうか?

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ベーリング海峡トンネル

Photo Photo_2 ベーリング海峡トンネル開通後の予想マップ(2図)

ロシアとアメリカがベーリング海峡のトンネル(100キロ)で結ばれることが現実になりつつあることは人類史上、画期的なことである。

ソ連時代では、思想の問題でアメリカとロシアが地続きでドッキングするなんて事は夢の又夢と考えられていたが、ベルリンの壁崩壊(1989・11・09)と、それ以前に起こった天安門事件(1989・06・04)以来、この二国は急速に接近を始めたと考えられる。

共産主義を放棄したソ連は、それ以後、何の迷いも見せることなく西側に接近し、中国が頑迷に、その思想に執着を見せる中、ヨーロッパ及びアメリカ陣営の仲間入りを果たそうとしている。

その間にあって、ロシアは日本が頑迷に「北方領土」を引き合いに出して、それより遥かに重要と思われる「日・ロ間問題」のことを考えようとしないし、中国は内部崩壊を恐れて「共産党体制」を堅持、資本主義陣営とは厚い壁で守りに徹している事実に嫌気して、急速にアメリカに接近していることが判る。

人類の長い歴史の中で、二国間をトンネルで結ぶ事業を起こした事実は、他には英仏間のドーバートンネル(34キロ)があるだけである。

イギリスとロシアの仲は昔から悪いことで有名である。ロシアがアメリカの友人であることは独立戦争時代から知られている事実で、此の事をイギリスは何百年の間根に持っていて忘れられないのではないか?

ロシア人とアメリカ人とは性格的に似た面があるが、この両国には、貴族的なイギリス人とは似ても似つかないところがある。

概念的に、今やアメリカとロシアは共通の目的を見出したように思われる。

それは「中国の脅威」と云う問題の共有と、北半球大陸間での地下資源の共同開発である。

アメリカもロシアの後ろ盾なしには中国の囲い込みの実現は不可能と思っていることは明らかである。一見、ロシアは中国に近いと思われがちだが、事実は反対で、ロシアとアメリカは事実上同盟関係にあると思われる程近い。

19世紀の中頃、アメリカの電信網は鉄道より遥かに早く発達した。それは今日のコンピューター・ネットワークに似て、蒸気機関と同様、新しい可能性を情報機関にもたらした。

アメリカの考えでは電信による情報伝達は北西に向かって、北アメリカを経由することで、昔ながらのインド経由より早くロンドンに到達することが証明されなければならなかった。

電信技術のパイオニアー、ペリー・マックドノー・コリンズ(Perry M. Collins)は電信を利用、アメリカを新しい大陸間商業の支配人と試みた。コリンズはこのことを、1857年、シベリアを単独横断したときに発想した。

コリンズはアメリカとロシアをつなぐ600マイルに及ぶ電信システムをベーリング海峡を使って試みると云う画期的な試みを国会に提案している。

これがなされたのが、アメリカがアラスカの買収を行った(1867年)10年以前のことである。

国務長官シュワードとウエスタン・ユニオンがこの事業に参画して取りかかった。この大事業、Russian American Telegraph Companyは残念にも、大西洋海底ケーブルに先を越されて「果されぬ夢」に終わったが、その頃からアメリカのロシア帝国にかける友情の絆の一端を偲ばせる事柄として興味深い。

イギリスの新聞タイムズは昨年、全長、100キロにも及ぶベーリング海峡横断トンネルが1000億ドルをかけて現実に開始されていて、2030年までに実用に供され、ユーラシアとアメリカが鉄道で結ばれると報じている。(写真)

この予想地図を見て判ることは、この戦略的鉄道路線が中国領土を囲むようにモロッコに通じていて、如何にも、米ロの計画は中国の封鎖を目指しているかに見える。

集団的自衛権の是非を巡って未だに小田原評定に明け暮れし、北方四島に拘ってばかりでロシアとの間で何の譲歩もしようとしない日本の将来は益々暗いものとしてしか映らない。

今朝の各新聞の報じるところでは、アメリカは今後、「自国の防衛を先行させる」と明言、新型ヘリ“オスプレイ沖縄への配備に関しては、今後は問答無用と云うジェスチャーを見せているが、さて日本の官僚はこのアメリカの態度にどのように反応するつもりなのだろうか?

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「故買」禁止制度の是非

オークション制度(auction,公開入札)未開国、日本では、自分の所有する財産も自由に売却できないことになっている。

此の事を誰も不思議に思っていないところに日本のエニグマ(eniguma)がる。

日本人は「お上」の統制に慣れ切ってしまっていて、現実に“反乱”を起こそうとしない大人しい国民である。

日本では「故買」と云う行為を取り締まるべく、警察が「古物」を自由に売買出来ないように取り締まっている。

公開の市場で「古物」を売買することは“古物営業法”で規制されていて、許可証を所持した者以外は出来ないことになっている。

これは、どちらを保護する目的でできた法律なのかハッキリとしないが、その目的が犯罪防止であることには違いない。

我が国は全てに“過保護”で“親切”過ぎる面が目に付く。電車に乗っても、バスに乗っても、“何々に注意”とか“次は何駅で、乗り換えは何番線とか”、云わなくて済む事までマイクでやかましく叫ぶ。

オレオレ詐欺から無知な国民を助けるために、銀行預金から大金を引き出せないようにして保護、正常な人に迷惑をかけていることなんともおもっていない。

何故、自己の責任は自己が持つように教育しないのか! 

それは、初等教育の段階から見られ、「落ちこぼれ」を守るような、過保護な教育から、はいつまでたっても自立して独立を守れる個人は育たないことを認識すべきだが。

「故買」から、イノセントで、弱い国民を守るために公の場所で素人は古物の売買を禁じる制度も同じ発想である。

盗難品を売買しないように、又、盗んだ品物を簡単に処分できないように、これらの品物を、買ったり、売ったり出来ないように規制している、これは古書の世界でも、質屋の世界でもおなじである。

行政が国民を管理しやすいように法律を作って、“上”から庶民を監視していることに何らの不思議を感じないのが日本の庶民である。

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「ミッド・ウエイ」

Gambia_2 Midway_island_1970 軍艦:ガンビアとミッド・ウエイ島

ハワイのホノルルから約11マイル北西の太平洋上にミッドウウェイ島がある。

此の島は全体でも、6キロ㎡の小さな島であるが、アメリカにとっては戦略上重要な処であることは第二次世界戦争中に証明された。

1859年(ペリー来航の6年後)、ガンビア号でホノルルを出港したブルックス 艦長(N.C.Brooks,onBambia)により発見された。

最初は、middlebrookIslandsと呼ばれていたが、後日、それはbrooks島に改名された。

1867年になり、スワード国務長官(William H.Seward,1801-1872)の努力で議会の承認後(Guano acts of 1856),アメリカの領地に編入された。

スワードは南北戦争中(ⅰ860-1865年)リンカーンの国務長官を務め、リンカーンの暗殺事件当日(1865年4月15日)スワードも暴漢に襲われ重傷を負った。

アメリカはロシア帝国よりアラスカを高額の760万ドルで購入したが、同年、ミッドウウェイを全く無償で取得した。

これに依って、ハワイ王国に無言の圧力をかけ、間もなくハワイはアメリカに併合された。(1899年)

ミッドウエイを取得後、議会の決定で、5万ドルを費やして岩礁を切り開き大型の船舶の通路を安全なものとしている。

このような小さな岩礁に大金を投入して、“ミッドウエイ”と命名したアメリカの意図は何処にあったのかを考えるとき、「フロンティアーの終焉」を宣言した頃から、既に“アメリカは西に向かって進む”計画を鮮明にしていたことが判る。

太平洋に海底カーブルが敷かれることとなり、その際、派遣された技師によると、この島は人間が生活するには不向きであると報告している。

そこで、アメリカ政府は此の島に多くの植物を運び、「東島」には間もなく「緑」が茂るようになったと報告されている。

その後、グアム島とハワイ島から専門家が派遣されて、本格的な植物栽培が始まったと云われている。

1921年には9000トンの土が運ばれ、岩礁だった島は人間が住める島に姿を変えた。

カバの木や、ココナッツ、松などの種類が植樹され、ほぼ100年後の現在、全島は緑で覆われる美しい状態になったが、土と一緒に、白アリ、アブラムシ等が輸入され自然の脅威となっていることは事実らしい。

日本から次第に多くの漁師や、美しい熱帯の鳥類の羽根を求めて日本人がしげしげ訪れる様子を見た、テオドール・ルーズヴェルトは、海兵隊を派遣して、この島の保護に努めるとともに、地下水の確保と、永久的な軍事施設を構築した。

1935年にはパン・アメリカ航空会社の“チャイナ・クリッパー”の就航を見るに至り、ミッドウエイはアジア向けの中間空港としての役割を果たすことになった。

第二次大戦では日米の間で、「ミッドウエイ海戦」の戦場となり、ここで4隻の日本海軍の貴重な空母が撃沈される事件がおこった。

これ以後、日本はアメリカに太平洋上の制空権、制海権を奪われ、敗戦の道を進まざるを得なくなったのであった。

“Didway”とは中間点の意味だが、奇しくも、この島が、日米の決戦場となるとは今となっては、それは「歴史のいたずら」と思えてならない。

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アメリカ、ノース・ダコタ州のシェール・オイル

Pipe_line_2 アメリカ、ノース・ダコタ州の石油パイプ敷設現場

先週は、東京大学が南鳥島周辺の6000メートルを越す海底に大量のレアーアースが眠っていて、その量は現在の日本の消費量の200年分との情報を明らかにした。

又、本日(7月9日)の新聞発表では、佐渡ケ島の周辺、愛知県、渥美半島沖の周辺、秋田県沖に、大量のシェール・オイル(shale oil,頁岩油) )採掘がのぞめる資源が眠っている可能性が大きく報道された。

南鳥島の周辺海底、本州周辺のオイル資源の報道にしても、これら資源が利用できるようになるのは、恐らく数十年後の将来のことで、今の段階では、日本は、今まで通り輸入に頼らざるを得ない。

シェールオイルの採掘が出来るようになったのは、アメリカで”fracking technology”が考えられて以来のこととされている。

残念ながら、日本に於いては、未だ模索段階で、石油の発掘にはなっていないが、3月8日のN.Y.タイムスの報道によると、最近始まったシェール・オイルの発掘ブームで、これまで、最貧州の一つと考えられていたノース・ダコタ州(North Dakota)が、その産油量で、カリフォルニア州を抜いて、第三番目の石油産出州に名乗りをあげたことを正式に発表している。

シェール・オイルの採掘が始まったことで、ノース・ダコタ州は一気に失業率の指数が全米最低にまで下がったとされ(3.3%)、今秋の大統領選を控え、民主、共和両党の経済政策論点の重要なポイントとして取り上げられているとのことである。

ノース・ダコタ州のオイルブームは建築、土木建設等の他の産業をも刺激し、人口も増え、それに従って犯罪も増えているらしい。

カナダは早くから、サンド・オイルの産地として知られていたが、最近では、アメリカ同様、シャェ・オイルの産出で経済が急速に上向いているとのことである。

ノース・ダコタ州はカナダに近く、又、幸い国立公園(例えば、イエローストーン国立公園)から離れていることから、今後も石油パイプ・ラインの延長が続くことであろう。

アラスカ、テキサスに次いで、第3番目の石油産出州となったノース・ダコタは、これまでは、全米中第1の最貧州であったが、これで予期していなかった贈り物を得、人口の増加が期待されることになる。

アメリカが今後、石油輸出国に変身できるとは思わないが、ロシアの豊富な天然石油の存在、日本周辺の海底油田等を見るにつけ、これから北半球に地下資源の探査活動が続くのではないかと想像する。

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イタリアでの一大発見?

Caravaggio

時価に換算して8600億ドルとも云われる、イタリア・バローク(17世紀)の巨匠としてランクされている、「カラヴァッジオ」(Michelangelo Merisi de Caravaggio,1571-1710)の作品と推定される、100枚以上のデッサンと数枚の作品が新たに発見されたと云うニュースに学会は揺れている。

モーリジオ・B・クルス(Maurizio B,Curuz) とアンドリアナ・C・フェドリゴリ(Andriana C,Fedrigolli)の両氏は、イタリア・ミランのスフォルツァー城(Sforza Castle)に長く収蔵されていた、カラヴァッジオが、11才の頃から師事した、ルネッサンス画家、シモネ・ペテルザニ(Simone Peterzano)の作品の中から、これらのカラヴァッジオ独特の手法の特徴を顕著に示す100枚以上のデッサンと数枚の優秀な作品が発見されたとラ・リパブリカ・デイリー誌が述べている。

このニュースによる発表がどの程度の信憑性があるこは不明だが、専門家によるとこれらの多くの習作画の中には既にカラヴァッジオの真作として広く知られている有名な作品の一部を切り取ったとしか思われない部分が描かれているとのことで物議を醸している、もし、近い将来この一群の作品がカラヴァッジオの真作と証明されたなら、恐らくその価値は8億6000万ドルを下らないと期待されてい

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カラヴァッジオの晩年は、謎めいていて未だはっきりとは判っていないし、画家の死亡の原因追究に多くの専門家が懸命になっている。

アンドリュー・グラハム・ディクソン(Andrew Graham-Dixson美術史家)が、

”A Life Sacred and Profane “のタイトルで、カラヴァッジオの複雑な人生に関して、彼が性的に錯倒した人物で、死ぬまでに多くの不嫡子をもうけたことを指摘している。

カラヴァジオはテニスの最中に喧嘩となり殺人を犯したと云われたり、借金でのトラブルで人を殺したとの主張もあるが”、アマゾンが7月1日発表した2冊、700ページに及ぶ評論に依ると、グラハムーディクソン氏は、前述の“神聖で冒涜な人生”で、殺人は、嫉妬と愛に苦しんだカラヴァッジオの短気な性格によるとのことを発表している。

この殺人は、1606年、ラヴィニア(Lavinia)と云う名のポン引きをしていた、ラヌチオ・トマシニの妻を巡っての喧嘩中に起こったと、グラハム・ディクソン氏は最近ローマで発見された古文書を参考に記述しているとの事。

カラヴァッジオは当局の追及を避けるためマルタ島に逃亡、そこでマルタ騎士団に参加したと云われているが、画家の死んだのは、ナポリからローマに向かっている途中、タスカニーのポルト・エコールであった。(16010年、享年38才。)

“カラヴァッジオの存命中、特に、1584年から88年の間に、何も習作の類を残さなかったことが不思議だと”とクルス氏。

これらの作品が今まで長きにわって秘蔵されていた訳ではなかったが、誰もこれらの作品が学会で発表しなかったことは不思議だと、関係者。

この発見をもたらしたのは、永い間、北イタリーの数々の教会や有名コレクッションを調査し、その中から、1378点にも及ぶペテルザノと、その工房の作品を調査していた研究の結果であった。

すべての新発見の作品はe-bookでアマゾン社によって7月6日に”protest written and signed by the young Caravaggio”のタイトルで発表されるとのこと。

蛇足だが、筆者の経験では、カラヴァッジオが今の様に有名になり、騒がれ出したのは第二次戦争後のことだと記憶している。

カンサス市のネルソン・ギャラリーにある聖ヨハネ像は特に秀作で、カラヴァッジオの特徴であった“光と影”が見事に表現された作品でこの技法は、その後、北ヨーロッパの画家、レンブラントやルーベンスに多大な影響を及ぼした。

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「時は金なり」ベンジャミン・フランクリン

ガス灯が普及する以前では、太陽が沈むと暗闇となり、ロウソクか焚火で周辺を明るくしなければならなかった。

その頃の西洋では、朝晩の祈りを告げる教会の鐘で時間を知り、人は太陽とともに生活していた。

当然のことながら、夏と冬で昼夜の長さが違う、一定でない時の刻み(不定時法)が自然の理にかなった「教会の時間」として捉えられていたのである。

中世紀の13世紀以後、いたるところで商業都市がおこるに従って、商業活動の便を考えるようになり、一定の時の刻み「定時法」を求めるようになり”business first”で市場を開く時刻や、契約期限の明示など、時間が貨幣と同じくらい貴重なものとの意識が芽生えた。

都市の商人は利潤を生む時刻が必用視され、「教会の時間」に対抗して「商人の時間」が生まれることとなった。

教会の脇に立つ市庁舎には機械時計が据えられて、“時は神のもので、それを売ることは神への冒涜”と云う感覚が次第に消えうせ始めた。

電気の世界となった20世紀以後は「不夜城」と呼ばれる大都市が世界にあふれ、時間が機械的に時計によって告知されるようになる。

それより以前では人は夜明けとともに起き、日没とともに眠ると云う、自然態でなくなる運命をたどる。

“daylight saving time”即ち、自然の明るさを利用する夏時間は、従って昔の人間らしい生活サイクルに戻ることで、それは、より健康的で素晴らしい人間の生活パターンなのである。

“時は金なり”と云ったのは18世紀のアメリカ人、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin,1706-1790)であった。その考えが「商人の時間」の始まりであったのではないだろうか?

プラグマティックなアメリカ人の考え方が「神の時間」を犯し始めたと言える。

我が国は、昨年3月の東日本大震災以後、電力不足に喘いでいる。しかるに誰からも「夏時間」回帰を叫ぶ人間はいない。

商人のエゴ、官僚のエゴ、かたや、利潤の追求、あたや、規範、規則重視の型にはまった官僚政治の犠牲になるのはいつも農民や市民なのである。

夏至になると日本列島は殆ど午前4時半に明るくなる。それなのに役所や商店の開店時刻は9時か10時、その無駄は5時間以上、平均勤務時間、8時間の62.5%をも無駄にしていることは再考の余地があるのでは思う。

真夏の午後の「電力不足」を何故、自然の力を利用してこの困難を克服しようとしないのか?

西洋の殆どすべての文明国が採用している夏時間が、何故我が国には不向きなのか、再考の余地ありと筆者は考える。

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クルド人国家誕生?

クルド人は独自の国家を持たない世界最大の民族集団と云われている。トルコ・イラク北部・イランの北西部・シリア北東部等に住む民族で、その人口は2500~3000万程と推定される。

中東ではアラブ人、トルコ人、イラン人の次ぎに多い集団で、宗教は、その大半がイスラム教。もとはオスマン帝国領内に住んだが、第一次大戦後、オスマン帝国が敗れ、サイクス・ピコ協定で、フランスとイギリスに依って引かれた国境線のためにチリジリとなり放浪民族化した。

20世紀後半、トルコ、イラクを中心にクルド人独立運動が高まりを見せると両国は「クルド民族」の存在を認めず、徹底的に弾圧する政策を開始した。

80年代、クルドはイランの援助のもとイラクを攻撃したため、サダム・フセインによる徹底的弾圧と化学兵器により大量虐殺の憂き目をみた。

イラクの敗戦により、多国籍軍がクルド人居住地区を飛行禁止地区にして以来クルド人自治区がイラク国内に誕生した。

トルコは最近、イラク国境を越えてクルド自治区への攻撃を認める法案を可決したが、アメリカはそれに反応、トルコに対して、越境攻撃反対の圧力をかけ始めている。 

クルドのマスード・バルザニ大統領が去る4月、アメリカのオバマ、バイデン正副大統領を訪問した頃より、クルド人自治区の存在が高まりを見せ、5月にバルザニ氏がトルコを訪問した時には、国賓並みの待遇で迎えられ、トルコはクルド人自治区から直接に石油を輸入するため、何十年もの間、休眠状態にあったパイプラインを使用することを提案、クルド自治政府はそれを了承したと云われる。

タラバニ・イラク大統領自身クルド人と云われ、 バルザニ氏も祖父の代からの怨念を捨て、今はただ力を蓄えるときと自認、タラバニ大統領も「今は山岳ゲリラの時代ではない」と発言、急に周辺の諸国に融和の風が吹き始めている。

2003年のイラク戦争後、クルドはアメリカ軍、特にCIAの頼れる同盟者となった。

それ以後、クルドは飛躍的に戦闘能力を伸ばし、現在では兵員20万が重火器、装甲車両で武装している。

前触れが少し長くなったが、一体、何がクルド人自治区周辺で起きているかと云えば、それは石油の存在である。

これには前述のトルコ向けの石油パイプラインがその切り札で、このまま進めば数年内にリビアを凌ぐような大産油国に変貌をとげると云われる。

イラク政府の反対を押し切ってトルコとの石油交渉を強行するクルド自治政府の行動には、イラクのマリキ首相もただ手をこまねいてこれを黙認を続ける筈もないが、クルド側は外資系の中でも冒険心の旺盛な中堅石油企業に働きかけ、資源管理を進めようとしている。

その中にあって、独立系のヘリテージ・オイルのトニー・バッキンハムCEOなどは危険すぎてメジャーも手を出さないような紛争地域での開発を地盤に伸びてきた企業で、アフリカでの傭兵ビジネスにも手を染め、この度、イラクの国力低下にしたがってクルド自治区での石油採掘チャンスの到来を見越して接近してきた。

クルド人自治区の石油の採掘は日量30万バレル程だが、来年になれば50万、2019年までに200万バレルに達すると予想される。

この地域には、今迄、エレベーター付きのビルは見られなかったが、現在では猛烈な建設ラッシュが起こっていると伝えられ、エルビル、スレイマニア両県の国際空港にはヨーロッパ、中東の有力航空会社が直行便を飛ばし、空港で査証(ビザ)が発給されている特殊な場所となっている。

トルコ、イラン、イラク、シリアに散らばって住むクルドの人口は3000万を超え、各支配民族は次第に現実味を帯びてきた「クルド人国家」の出現に畏怖の念を抱いている。

イラクに制裁を加えて分裂状態にした責任はアメリカにあり、それにつれて台頭してきたのが、クルド自治政府である。

また、イラクを連邦制にして、クルド語をアラビア語と並ぶ公用語にしたため、自治政府が力をつけたと云われる。

弱体化したイラクにしても、今やクルド自治政府を意のままに出来ない状態、トルコとの間で協定が結ばれて石油がイラク国境を超え、輸出が始まるとなれば国を持たない世界最大の民族による「クルド民族国家」への変身が実現する可能性はリアリティーを持つようになる。

(資料:月刊誌「選択」7月号、他)

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「北方四島問題」はロシアには存在しない

“蟷螂の斧をもって牛車の落るを防ぐ”と云う喩えの如く、小国日本の武器は心細いカマキリの斧で、重い牛車のようなロシアの戦車にはとても勝ち目はない。

本日の各新聞はロシアのメドジェーエフ首相が再び国後島を訪問、「北方四島」がロシア領土と叫んだことを報じている。

これに玄場外相が「国民の感情を傷つける」とおざなりの抗議を発信している。

ここまで来ると、この両国の領地問題の罵り合いは恒例化してしまって、何らの新鮮味も現実性もない。

日本政府もこの問題が「ロシア側の不法行為」だと云う主張は、事あるごとに国民に向かって云わなければならないメッセージと考えているだけで、どの政冶家も、この四島の返還が実現するとは真剣に思っていないことは常識人の間では「無言の了承」となっていると考える。

フルシチョフ首相の時代の、ソ連時代では、経済的に困窮していたソ連政治家のリップ・サーヴィスとして、四島の返還発言があったとは思うが、「四島」のロシア帰属は紛れもない事実と考えられ、この返還交渉をするかしないかはロシア側からは論外でしかない。

筆者はこれまで、この問題の発端は、1945年2月の「ヤルタ会談」にあり、当時のアメリカ大統領が“原子爆弾”以前に日本占領を考える際、何としてもソ連の参加が不可欠と思っていた。

従って、その会議の席上、ソ連の極東での戦争参加の代償として、樺太とクリール諸島(千島列島)の領有を戦勝国ソ連に許したところから始まっている。

北方四島がクリール諸島に含まれるか否かは見解の分かれるところだが、世界の常識では「含まれる」との見解で、ヤルタ会談の席上、ルーズヴェルト大統領がスターリン首相に申し出た「クリール全島」の割譲話では、日本が主張する「北方四島」は「クリール諸島」の一部との考え方で討議されたと思われる。

従って、日本が北方四島の帰属を主張するのであれば、その相手はロシアでなくアメリカに向けられるべきと考える。

戦後半世紀以上、日本がこれほどまでに北方四島返還をロシアを相手に叫んでいる間、アメリカは完全に沈黙を守って、これの問題解決に同盟国の立場で仲介に入る姿勢も示していないことは何故か?

これは公然の秘密であり、どの国も「カマキリ」の主張には耳も貸さない現実問題こそ、我が国の抱える弱点中の弱点として反省すべきではないだろうか?

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京都版究極のエコ通勤

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京都市の地形は北に行くほど高くなっていて、九条通りにある東寺の五重塔の頂点が紫野の金閣寺の地面と同じ標高にあるとのこと。

東西に走る大路には、加茂川を跨ぐため「大橋」が架かっていて、それらは少なくとも10本以上を数える。

市街を北から南に貫くように流れる加茂川の両岸には立派な歩道と自転車道が整備され市民の交通に開放されている。

20キロメートル以内の南北高低差が、少なくとも20メートある地形、従って、北から南に向かう為に自転車を利用すれば、努力なしに気持よく目的地に行ける。

上記の大橋の内、市営バスが走っている北山大橋から、北大路、今出川、丸太町、御池、四条、五条、七条、九条の各橋下に京都市営駐輪場を設置、北から南への通勤者の便に供するサービスは如何なものか?

「グリーン・バイサイクル・ハイウエー」(仮称)の名で、放置自転車を市条例を改正の上、合法的に取得、緑色に塗り替え「緑の自転車」として市民のためにサービスすれば、市内の不法駐輪問題にも、市内の交通渋滞の問題解決にも役立つのではと思う。

夜間のうちに職員が川下で回収した自転車を、それぞれの橋下駐輪場に戻しておけば良いので作業はさして難しいとは思わない。

これを無料にするか有料にするかは京都市が決めれば良い、いずれにしても

“らくらく下り一方通行”自転車通勤が京都市の心配りで実現すれば、一石二鳥以上の効果のあるユニークな“京都ブランド”になるのではと考える。

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エンリケ・ペニャニエト、メキシコ大統領(45)

Calderon

カルデロン(Calderon)にかわって、メキシコに新しい大統領が12年ぶりに登場した。

その名は、エンリケ・ペニャニエト(Enrike,Pena Nieto,45)、は若くてハンサムと評判。

アメリカの超高級ブランド「ピジャン」を着こなし、制度的革命党(PRI)の腐敗政治を消し去ると云う身構え。

父母それぞれがメキシコ州知事の親戚と云う名門出の出身。

15才の頃からPRIの選挙運動を手伝った経験を持つ。カトリック系、パン・アメリカン大出身。

親類筋のモンティエル元州知事(在任99-05年)の下で、選挙運動の時から働いた。

03年にメキシコ州下院議員となる(36才)、05年にメキシコ州知事になり、足早に政治家としての階段を駆け上る。

07年、前妻が突然死去、10年にテレビ人気女優、アンジェリカ・レベラ(41)と再婚して知名度をさらに高める。

モンティエル前州知事仕込みの巧みなメディア操作を駆使して人気を得ることに成功したと云われる。

二つ命があっても足りないとも云われるメキシコの麻薬戦争の撲滅キャンペーンに自ら身を投じ、それに加えて、中産階級貧困問題の解決等、課題は尽きない。

これまで、PRIの操り人形と云った批判もあり、それを如何に払しょく出来るかが課題である。

前妻との間に3人の子供がいる他に、婚外子が二人、現婦人の連れ子3人、(合計5人)の7人家族だが、大統領ならば扶養には問題ないだろう。(毎日)

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稚拙きわまる民主党外交

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日本では民主党が覇権を握って3年になろうとしているが、早くも、その政権党がボロボロになり、解散寸前に追い詰められている。

昨今の新聞紙面は、昨年3月の東日本大震災、小沢一郎と民主党内の確執、沖縄における米軍基地問題とにほぼ占められている。

前者二つは国内問題であり、世界的見地から見れば、むしろローカルの事件として世界の大ニュースとはならないが、後者の「米軍沖縄基地」問題は決して国内問題として放置され続けることは許されない。

沖縄県知事、中井眞弘多氏の存在は、今や沖縄人民の代表者として総理大臣より大きく新聞紙面を賑ぎあわしている。

民主党が政権をとって、“これで日本の政治がかわる ”と喜んだ国民は多い。

ところが、歴史感に暗い民主党の政治家たちは、そこで将来、日本にとって取り返しがつかない程の失敗を犯した。

それが、民主党の対「アメリカ観」である。民主党は、そのマニフェストの中で、沖縄米軍基地を、他国に、或いは、少なくとも県外に移転することを誓約して、政権を自民・公明連立政権からもぎ取った。

新政権の最初の総理となった鳩山氏はアメリカ大統領の面前で、沖縄米軍基地問題をアメリカ側の立場で解決することに付いて”trust  me”と表明、その後、それが「空手形」で終わった。

その後、鳩山氏は国会答弁で、アメリカの沖縄での“プレゼンス”が日本にとって如何に重要かを始めて知ったと言い、日本の政治にとって、重大な失言を重ねている。

民主党の代表となった小沢一郎氏は、自分が時期の総理大臣だと誤認、百数十人の新人党員を引き連れて北京に飛び、それぞれの党員と胡錦涛代表を握手させ、誰から見ても日本が中国の隷属国家との印象を植え付けた。

その後、中国の次期代表との噂の高い、習近平氏を日本に招聘、天皇に謁見させて、自分の存在を海外に誇示、知識人の顰蹙を買った。

鳩山氏にしても、小沢氏にしても外交に疎いと云われる日本人の稚拙さを外国に再び、発信したことに本人達はどの程度の意識を持っているのだろう?

110年程以前、アメリカはスペインと戦争してフィリッピンを占領した。その後、半世紀たって、アメリカは日本を占領した。

ここで我々が意識すべきことがある。それは、アメリカ人は日本人もフィリッピン人も同じ感覚で捉えていることである。

民主党議員達の内、何人が、19世紀末フィリッピンで何が起こったかを知っているのだろう?

その時、アメリカ海兵隊は独立を志していたアギナルドが率いる住民四十万人ほどをバターン半島に追い込んで文字通り約四十万人を虐殺した。(ここで”no-prisoners”=皆殺しと云う表現が生まれた。)

それに引き換え、半世紀後のアメリカ政府は日本占領の際、天皇制の保持を約束して、紳士的に行動したことは事実であった。

その後、アメリカが譲歩したとされる、沖縄返還の際の、日米安保条約締結(1960年)に際して、現民主党の中堅と云われる、仙石隼人、菅直人、枝野幸男氏らは、若い命を賭けてこの条約締結に反対した事実は既にアメリカ諜報部の知るところであろう。

アメリカは盛んに中国に対して人権保護を促しているが、事が自国問題となれば彼等は言動不一致の政治をしてきた人種である。

そのことは、第二次大戦中に在米日本人を捕虜と同等に待遇、人種偏見をあらわにしたことも周知の事実である。

沖縄駐留に権利を持つアメリカは「防衛遂行」を国是として、最終段階では、日本に対して一歩も譲歩しない姿勢をとると筆者は確信している。

”self-defence”が出来ない個人、国家には特殊な軽蔑感で身下す傾向のアメリカ人から見れば、今沖縄で騒いでいる「国内事情」をどの時点まで黙認して、自重できるかはアメリカの問題(世論)である、

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「血は水よりも濃し」

Great_white_fleet1907 グレート・ホワイト・フリート写真

リムパック(rim-pac)=環太平洋合同演習はアメリカが2年ごとに行っている世界最大規模の軍事演習、日本も入れて、22カ国参加で、7月29日から8月3日までハワイ周辺で行われる予定だが、今回、驚くべきことにロシアがこれに参加を表明していることを知り、愈々再び“白が黄”を囲い込む態勢が出来上がったと思われる。

日露戦争が終わって2年後、アメリカ大統領、テオドール・ルーズヴェルトは、アメリカ海軍のニック・ネーム「グレート・ホワイト・フリート」(Great White Fleet)を、国の示威行為の目的で派遣した。

日露戦争後間もなく、アメリカに排日論がさかんとなり、ロシア海軍を破滅させるほどの規模に発展した日本を威嚇するために戦艦コネティーカットを旗艦とする、戦艦16隻を含む、大艦隊を編成、パナマ運河が未だに完成していなかったために、南米マゼラン海峡を経て遠路日本に寄港した。

今回の演習では、参加22カ国のうちに、日露戦争の敗者、ロシアが含まれていることに驚きを覚え、さらに、この大演習に中国がオミットされている事実を考慮すれば、105年前にアメリカが日本に対して行ったことを今度はロシア、オーストラリアを入れて、あからさまに中国に行っていることが明白と思われる。

去る4月23日、ロシアは中国と共同で、山東省沖で海軍大演習を行ったが、今度は突如として西側の大演習に参加することの意味は何処にあるのだろうか?

プーチン時代となって、ロシアは極東に進出する意気込みを増してきている。

ロシアは今後、中国のかこい込みにアメリカと手を握ったと思わざるを得ない。

沖縄米軍基地の問題でアメリカは苦慮し、オーストラリアのノース・テリトリーの首都ダーウインに海兵隊を駐留させることとした。ダーウインは第二次大戦中、日本軍が爆撃を行った数少ない町の一つで、反日感情の良い処でないことで知られている。

黄禍論の発生はオーストラリアであることも頭に入れると、あまり良い感じはしないが、日本政府があくまで、米軍の日本での駐留に反対の姿勢を押し通すと、将来に何が起こるかを、中国を含め、アメリカは日本にも厳しく対応を迫ってくること必定と筆者は予感している。

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