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「時は金なり」ベンジャミン・フランクリン

ガス灯が普及する以前では、太陽が沈むと暗闇となり、ロウソクか焚火で周辺を明るくしなければならなかった。

その頃の西洋では、朝晩の祈りを告げる教会の鐘で時間を知り、人は太陽とともに生活していた。

当然のことながら、夏と冬で昼夜の長さが違う、一定でない時の刻み(不定時法)が自然の理にかなった「教会の時間」として捉えられていたのである。

中世紀の13世紀以後、いたるところで商業都市がおこるに従って、商業活動の便を考えるようになり、一定の時の刻み「定時法」を求めるようになり”business first”で市場を開く時刻や、契約期限の明示など、時間が貨幣と同じくらい貴重なものとの意識が芽生えた。

都市の商人は利潤を生む時刻が必用視され、「教会の時間」に対抗して「商人の時間」が生まれることとなった。

教会の脇に立つ市庁舎には機械時計が据えられて、“時は神のもので、それを売ることは神への冒涜”と云う感覚が次第に消えうせ始めた。

電気の世界となった20世紀以後は「不夜城」と呼ばれる大都市が世界にあふれ、時間が機械的に時計によって告知されるようになる。

それより以前では人は夜明けとともに起き、日没とともに眠ると云う、自然態でなくなる運命をたどる。

“daylight saving time”即ち、自然の明るさを利用する夏時間は、従って昔の人間らしい生活サイクルに戻ることで、それは、より健康的で素晴らしい人間の生活パターンなのである。

“時は金なり”と云ったのは18世紀のアメリカ人、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin,1706-1790)であった。その考えが「商人の時間」の始まりであったのではないだろうか?

プラグマティックなアメリカ人の考え方が「神の時間」を犯し始めたと言える。

我が国は、昨年3月の東日本大震災以後、電力不足に喘いでいる。しかるに誰からも「夏時間」回帰を叫ぶ人間はいない。

商人のエゴ、官僚のエゴ、かたや、利潤の追求、あたや、規範、規則重視の型にはまった官僚政治の犠牲になるのはいつも農民や市民なのである。

夏至になると日本列島は殆ど午前4時半に明るくなる。それなのに役所や商店の開店時刻は9時か10時、その無駄は5時間以上、平均勤務時間、8時間の62.5%をも無駄にしていることは再考の余地があるのでは思う。

真夏の午後の「電力不足」を何故、自然の力を利用してこの困難を克服しようとしないのか?

西洋の殆どすべての文明国が採用している夏時間が、何故我が国には不向きなのか、再考の余地ありと筆者は考える。

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