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比叡山寺のこと

Hieizann

京都の比叡山と云えば開祖の“最澄”と“延暦寺”を思い浮かべるのだが、京都新聞「京の山寺・山城跡を行く」梶川敏夫氏文章には、最澄(伝教大師)は始め、比叡山寺と呼ぶ小さな草庵を山中に建立したことから出発したとある。

最盛期には、東塔、西塔、横川の3塔16谷を中心として、比叡山3千坊と呼ぶ堂塔社殿や坊が広い山全体に点在、大伽藍を誇ったことが判る。

1571年(元亀2年)の織田信長の焼き打ちに遭い、略、全山が灰燼に帰したが後に秀吉、家康により再興が進み、明治維新の仏教排斥の難をも乗り越えて、今に至るまでに、多くの堂宇が再建され隆盛を誇っている。

この記事によると、比叡山は古事記にも記載があり、古来から信仰の山であったとのこと。

奈良時代の天平17年(745)の藤原仲麻呂の詩に、仲麻呂の父、武智麻呂が、俗世界を離れた神山(比叡山)に宝殿を建て、一人修業していたことが記されていて、このことは最澄の入山以前から霊峰として崇められていたことの証とも解釈できる。

最澄が初めてこの山に入ったのが延暦4年(785)、最初に建立した御堂が一乗止観院で、これは薬師堂を中心に、北に文殊堂、南に経蔵が存在し、都が奈良から京に移った直前の延暦13年(794)に初供養が行われたらしい。

最澄の没年、弘仁13年(822)には朝廷から念願であった大乗戒壇建立の勅許が下り、さらに、弘仁14年(823)には嵯峨天皇から寺額をさずかり、そこで比叡山寺から始めて、年号を寺号とする「延暦寺」が誕生したことが判る。

従って延暦寺は平安京遷都以前の比叡山寺の頃から、比叡の山林修業を旨として、「論・温・寒・貧」戸」と称して、厳しい修業を積む寺院として伝統を継承しながら今日まで続いていることが判る。

「あきらけく 後のほとけの みよまでも 光り伝えよ 法のともしび」と謳った最澄の頃から、根本中堂内陣の「不滅の法灯」は文字通り絶えることなく伝承されているとのことである。

(2012年7月23日、京都新聞記事より抜粋)

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