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マリア・ルス号事件

Hannsenn

明治政府は明治5年7月始めて国際的紛争処理問題に直面した。これが世に云う「マリア・ルス号」である。

これは結局、日本単独では裁けずにロシアの仲介で国際裁判にまで発展したが、日本政府の努力で多くの清国人が奴隷としてアメリカ大陸に連れ去られるところを未然に防いだ美談である。

1872年(明治5年)7月9日、中国の澳門から南米ペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス(Maria Luz)号が横浜港に修理の目的で寄港した。調べたところ、同船内には清国人苦人、231名が乗船していることが判明した。停泊中に一人のが逃亡をはかりイギリス船に救助されたことで、いぶかしく思った取調官がこの船を奴隷船と判定、イギリス船長からの要請を受けてこれらの苦人の救助のためマリア・ルス号の出港を禁じる命令をだした。

明治改元後まだ日も浅く、国内法も国際法も未整備であり政府としても正直なところ、マリア・ルス号船長、リカルド・ヘレイロに出港禁止を命じたが船長が強引に出港してしまえば黙って見送るしか方法が無いのではとも考えられたが、幸いにも海軍省が当時日本が保有していた最強の軍艦「東」(蒸気軍艦、1350トン)を品川から横浜に回航させ3本マストの帆船を艦砲の射程距離内に停泊監視にあたらせた。

当時の清国は全くの不法国家に落ちぶれていて、欧米人達の思いのままになる国家でなく、地域であった。

それにアメリカでは南北戦争後、大陸横断鉄道がほぼ完成していたが、未だ国家をあげての建設ラッシュにあり、安い賃金で働く苦人労働力は、いくらあっても足りない状態と考えられていた。

リンカーン大統領(共和党)の就任後、奴隷制度の廃止が叫ばれる時代にあって契約で安い賃金で働く苦人はことの他重宝がられていた、また、当時、黄禍論が叫ばれ、東洋人は消耗品に近い扱いを受けていたことは事実である。

裁判の過程で、その後判明したことだが、マリア・ルス号では、日本に到着するまでに既に3名の清国人の投身自殺者をだしていた。

福島種臣外務大臣は神奈川県副知事の大江卓に人道的手段として、マリア・ルス号に乗船している清国人の解放に努力するよう命じた。

リカルド・ヘレイロ船長の抵抗を排除して、略一カ月後、清国人全員を下船さえることに成功した。船長は訴追され、神奈川県庁内の特別裁判所において、大江卓氏を裁判長として7月27日、裁きが下り、清国人全員の釈放を条件としてマリア・ルス号に出港許可をだした。

船長は「移民契約書」を盾に、乗船者を船に戻すように要求、イギリス人を雇い、日本国内における娼妓の人身売買の例を持ち出して抵抗したが、結局日本政府は人道的見地からそれら要求を却下、9月13日清国人全員を本国に送還させた。

清国政府は日本のこの友情的行為に謝意を表明した。

未だ国際法が精緻に行われていなかった事、当時では船泊上での「治外法権」の認識が我が国において解釈の域に及んでいなかったどうかも判りにくが、結果は全ての清国人がつつがなく本国送還になった事実であった。

ところが、ペルー政府はその翌年、1873年海軍大臣を派遣、マリア・ルス問題に対する謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。

この両国間の紛争解決には、第三国のロシアが国際仲裁裁判の仲介役となり(皇帝アレキサンダー2世)、1875年(明治8年)6月、日本のマリア・ルス号に関する裁判上の判定と措置は国際法に照らして妥当であると云う判決で、ペルーの訴えが退けられた。

我が国が現在、中国政府との間に抱えている所謂「尖閣諸島」問題にかんがみ、何事も“人の道”に背かないよう心がけ、冷静になって国家間の紛争を話し合える時がくることを願うのみである。

マリア・ルス号事件の詳細は:武田八洲満著「マリア・ルス事件」有隣新書参照。

8月より、ブログのコメントを受け付けております。ショウチャン

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