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日本工業品生産の中国撤退始まる?

尖閣諸島領有問題で意見が食い違ったがため、中国の各地で日本企業が襲われたり、放火や略奪が全土で発生した。これに対して中国の報道官は「責任は日本にある」として何の反省も示していない。

このことは、中国政府は国内での政争や人民の格差意識の不満を意図的に「尖閣」にすり替え、日本を“仮想敵国”化して国内政治の安定を図っている。

昨年来、アメリカでは中国から生産基地を本国に連れ戻す運動“Reshoring”が開始されて自国の製品の品質保持と失われた雇用改善が始まった。

3月21日付、産経新聞は「レノポPC生産 中国から移管」-Made in Japanブランド再びーの記事で中国最大のパソコンメーカー、レノポ・グループがその生産を一部、日本国内に移管する方針を決めたと報じた。

世界のパソコン市場では、9割以上を中国製品が占めている。

日本でもアメリカの”reshoring”運動の意義に悟ったのか、製品のコスト面からだけでなく、国内の産業の空洞化に少しでも歯止めをかけ、製品の性能や仕様に満足のもてる運動を開始したのではと思考する。

中国の人件費は、メキシコやタイのような新興工業国並みに迄上昇していている上、今回のような事件が発生するたびに、製品の需給に安定性を欠くようなことが起これば、全く何のために莫大な資本をかけて生産拠点をかの地に移したのか判らなくなる。

「質」や「信頼性」を重視、工場の移管を検討している企業はヒューレット・パッカード、富士通、その内特に法人向けで機能やソフトを顧客の注文に応じて変更する「カストマイズ品」。

中国生産では製品の納入までに約10日間かかるが、工場の国内移管により最短3日間程度に短縮できる。

輸送運賃、経費の削減だけではなく輸送中の故障発生のリスク回避にもメリットありとのこと。

「日本製」と云う製品に対する無言の信頼性が法人顧客にアピール、販売拡大に貢献している。

HPは東京の昭島工場で法人向けノートPCの生産を開始、10日間の納期を半分に短縮すると同時に「メード・イン・トーキョー」を全面に打ち出している。

富士通は島根県と福島県で生産したPCをそれぞれ「出雲モデル」「伊達モデル」と名付けてイメージアップ戦略をかかげている。

パソコンに限らず今後はリスクの分散の意味でも、すべて生産拠点を特定の外国に限定せず、日本の技術の保護に努めるとともに、国内の労働力の保護、温存に努力を果すべきことが肝要と考える。

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大徳寺「五百羅漢図」の謎

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明治の初期に仏教の排斥運動がおこり、多くの仏教寺院や中宮寺といわれる八幡宮や仏教寺院と神社が併合されていたところが破壊の憂き目をみたことては既に知られている。

その特徴的存在は、京都付近であれば、祇園社や、八幡の八幡宮であったが、臨済宗の大寺院の南禅寺や、大徳寺らもその例外ではなかった。

法隆寺なども経済的理由からか明治11年(1878年)寺宝157点を皇室に献納、京都の相国寺も貴重な寺宝であった伊藤若冲の「動採絵」30幅を納税の替わりに皇室に献上して苦境を凌いだとも云われている。

奈良の興福寺もその例外ではなく、貴重な「五重塔」までも売りに出したが買い手が付かず難を免れ今日に至っている。

その頃明治政府は所謂「お抱え外国人」としてアーネスト・フェノロサ

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Arnest Fenollosa,1853-1906)を最初、哲学の教授として招聘、後に岡倉覚三とともに美術行政の専門家として雇い入れ、東京大学で美術教育の育成を依頼した。

フェノロサの友人であったスタージス・ビゲロ(William S.Bigelow)やエドワード・モース(Edward Morse)チャールス・エドワード(Charles G,Weld)らは当時、彼等にとってはタダ同然と思われた膨大な量の日本の美術工芸品を主にボストン美術館に運んだ。

その中には東大寺の法華堂根本曼荼羅や有名な平治物語絵巻のような国宝級逸品も含まれている。

20世紀の初頭までにボストン美術館は日本、及び中国美術分野でのコレクションは世界最大のものとなった。

19世紀末頃数回にわたって日本美術の展覧会がボストン博で催されたが、その最後を飾るものとして1894-95年(明治27-8年)に「京都大徳寺蔵中国古代仏画特別展」が行われた。

これは中国仏教のメッカ寧波で14世紀(南宋時代)に描かれた100幅からなる五百羅漢図で永く大徳寺の秘宝として知られていたものであった。(写真)

ご多分に漏れず、仏教寺院である大徳寺もその頃では財政難にあえいでいた頃であったので、フェノロッサのつてで海外での展覧会を催して資金の獲得に臨んだのであった。

2009年8月、奈良博物館で特別展「聖地寧波」の名称で大徳寺所蔵の五百羅漢が展示された。しかるに、その説明書を見ると「82幅のうち」となっていて、大徳寺には元来所蔵していた100幅の内、18幅が欠けてしまっていたことに気づいた。

1895年、アメリカでの特別展が終了したとき求めに応じて「資金獲得」の理由で10幅を処分したことは知られている。その内訳は、10幅がボストン美術館に譲渡され、後に2幅がフェノロッサの手を通してワシントンのチャールス・フリアーの所蔵となった。

それなら、現在大徳寺に82幅しか残存していないならば、あとの6幅は何処へ消えたのであろうか?

この辺の事情を「ボストン美術館東洋部小史」、Jan Fontein.1898年4月1日、㈱木魂社  15頁に“Before the exhibition returned to Japan, the Daitoku-ji sold ten of the paintings to the Museum of Fine Arts to pay for urgently needed temple repaires, and two to Chares Freer to cover traveling expenses.

This great acquisition 

was one of the services Fenollosa was to render to the Department of Asiatic Art.”

(10幅はボストン博が大徳寺の要請で公式に購入を決めたことは判っているが、その他の二幅のことは( )うちで記されていて、フェノロッサが個人的に友人であり,スポンサーでもあったフリアー氏に商行為として売り渡したともとれる意味合いをもって書かれている。

ボストンの10幅は寺の修復目的で、フリアーに渡った二幅の金額は詳細も不明だが、大徳寺の代表者の為の旅費捻出のためだったと記されている。

それでは残る6幅の行方と所在に就いてどのように説明が付くのか今となってはハッキリとしないが、もしこの辺の事情が判れば幸いだと思っているが如何だろう?

それら6幅がアメリカでなく、日本のどこかの個人所有となっているならば、さらに困ったことになるのではと思う次第である。

                           

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アメリカの尖閣諸島防衛のスタンス確認

二年前、尖閣諸島沖の漁船衝突事件で中国人船長が逮捕されて後、その船長を起訴するかどうかで国内で混乱していた最中にアメリカ軍の船舶が沖縄復帰後初めて宮古島に姿を現していたことを毎日新聞が報じていた。(平成22119日(金)

その軍艦の名称はディフェンダー(約1300トン)、同月24日まで宮古島に逗留していたが、上陸した乗組員らは島民たちと食事をともにするなどして交流を深めたと云う記事に注目した。

ディフェンダーの艦長アンドリア・スラウ艦長は入港時の記者会談で“日米関係の揺るぎなき姿の誇示が寄港の目的だ”と率直に語っている。

この時の米艦に寄港についてレイモンド・グリーン在沖縄米総領事はそのとき“米軍艦の寄港は東アジア地域全体の安全維持に対する米国の関与を実証するものだ。米海軍の継続的プレゼンスは世界で最も大切な二国間の安全保障同盟に対する我々の関与の表れである”と、当時に明言した事実がこの毎日の記者会見の模様でハッキリとしていることを改めて確認した。

当時の外務省幹部は“ディフェンダーの寄港は中国に(日米同盟の存在を誇示する強いメッセージである”と一種の安堵感をもって述べている。

当日の毎日記事報道は、米軍は先島諸島への艦船寄港と云う既成事実を重ね、永年の「封印」を破り、対中シフトへと傾斜しながら中国をにらんだ防衛省の“南西シフト”がそれに重なり合うと述べ、前日(1118日)には防衛省、米海兵隊、陸上自衛隊が先島諸島有事に備え、両国の協力の在り方を議論する初の幕僚会議が持たれたことを確認している。

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京都市one wayの勧め

Photo 大阪御堂筋

人口百万都市で、市中の主なアヴェニューを一方通行にしていない「街」は世界広しといえども、我が京都市くらいではないかと思っている。

ニューヨークは半世紀以上前に、隣の大阪市も恐らく今から40年前に中心のアヴェニューである御堂筋をも含め市内を一方通行にしたではないか?

ニューヨーク、東京、大阪等の、遥かに京都より大規模な都市がそんなに前に市内交通を一方通行にしたことには何かやむにやまれぬ事情があったとしか考えられない。

このことに就いて筆者は以前に一度ならず「警告」の意味で拙稿「ブログ」に書かせていただいた。

1019日の京都新聞記事「東大路通整備に賛否」の大見出しで、「渋滞悪化生活に影響」、「車道拡幅安全確保」を訴えている。

京都市の道路整備構想として、三条通り~東福寺交差点を対象として、歩道の拡幅と電柱の地下処理、公共交通を優先させる手段として車線の減少と他の幹線道路への誘導を試案中と説明がなされている。市民が毎日のように不便に感じている場所は何も「東大路」に限ったことではない。

京都とニューヨークは道路が碁盤状になっている。大都市交通構想での先輩格であるニューヨークの道路交通事情を克明に研究して、ニューヨーク市が何故そんなに早くから全市の道路を思い切って一方通行(one way)にしたのかを考える価値は充分にあると考える。

ニューヨークでタクシーに乗って目的地を告げると、先ずドライバーは道路のどちら側で降りるかを聞いてくる。

一方通行の場合、どちら側でも利用できるので、たとえ目的場所が反対側にあっても、乗客は横断歩道を渡る必要がなくなる。

一方通行であれば交差点での交通事故が減少することも知られている。

例えば、烏丸通りが北方向の一方通行で四条通りが西向きとすれば、四条烏丸を右折する場合、交差点近くで「右折レーン」に寄っていれば、運転手はただ左側だけ注意すればよい。

one wayを実施すれば道路を広く利用できることも明らかで、「バスのレーン、バス停」も片側なので、歩道や自転車道も広く取れて安全になることも世界では実証済みである。

京都生まれ、京都育ちの筆者であるが、京都市民のエゴイスティックな考えにはうんざりすることしばしばである。

公共の福祉を優先に考えれば、少々の不便に耐えることも必要ではないかと思う次第。

大阪都構想を掲げて関西の脱皮に力を注いでいる橋下大阪市長は、今迄では実現が難しいと思われていた、大阪市バスの民営化を推し進めて赤字行政の刷新に立ち向かっている。

京都に於いても、今までなおざりにされていた「全市一方通行」システムの導入で安全で住みやすい街への革新に取りかかっては如何かと思っている。

「窮すれば通ず」、困った場合こそ市民の叡知を束ねて陋習や偏見を打ち破り21世紀にふさわしい古都の再生に勇断を下して欲しい。

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「治外法権」と「国家主権」

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沖縄米軍基地の周辺でまたも米兵による婦女暴行事件が起きた。これは、即ち去る16日早朝に起こった米兵2名による集団婦女暴行事件である。

我々としては又か?と思うことだが、沖縄に駐留するアメリカ兵の資質が問われる事件である。

日米間で相互協力および安全保障条約第6条に基づく日本国内の米軍施設利用協定(treaty of mutual cooperation and security ,regarding facilities and areas and the status of the US armed forces in Japan)が存在し、1960年(昭和35年)119日に両国間で結ばれた協定文を基準に運営されているものである。

この協定の内容は明文化されているものの、その運用解釈において日米間に食い違った状態が永く続いていることは残念でならない。

日本が被占領国でなく、立派な独立国ならば、外国人が日本に入国する場合、必ず入国審査が行われ、そこで日本にとって好ましくない人物の入国は許されないのが常識。

日本に多くある米軍基地勤務の為に来日する米軍関係者が入国検査を受けずに日本領土内で生活する「特権」があるとすれば、それは米軍基地内だけに限定されるべきである。

米軍関係者が米軍基地外に出ようとする場合、その行為は「入国」であり、そこで日本の官憲(税関)の審査を受けなければならない。

「日米地位協定」がその辺の事情をどのように規定しているのかは門外漢の筆者の克明に知るところではない。

今回の事件を起こした兵隊たちは明らかに彼等にとっては外国で犯罪を起こしたと考えられる。それまらば、その国の法律に服すべきであることは明白なのだが、この辺の事情をcase by caseで克明に国民に知らせる義務は日本政府にあることは明白である。

これを再びうやむやにして司法権を放棄するとなれば、在日米軍基地及びその周辺はアメリカの治外法権下にあったことが明白になったと考えざるを得ない。

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「自動車関連税制」に見直し急務

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日本自動車工業会の豊田章夫会長は先月20日の定例記者会見で、2013年度の税制改正で車体課税の撤廃を引き続き要請することを明らかにした。

国民の自動車所有に対する過大なコスト負担は内需を冷やし、企業雇用に迄影響を及ぼすため、「撤廃するまで言い続ける」と断言した。(921日、日経産業新聞)

この会見で豊田氏は「一台あたりでアメリカの50倍もの負担は国際的にも高い」と述べ、さらに「エコカー補助金切れにともなう反動減に消費税増税が加われば大きな影響が出る」と語った。

中国での反日デモによる物的損害や、これから始まるであろう日本製品のボイコット運動にも憂慮、政治と外交の正常化の一日でも早い解決を望んでいる。

我が国のクルマに関わる税制についてはかねてから疑問な点が指摘されながら一向に改訂されないことは不思議でならないが、これは一旦勝ち得た「既得権益」に対する行政(公務員)の典型的な悪しき習慣とみなして間違いない。

前述の豊田氏のコメントを知り、筆者が検索エンジンで調べたところ、自動車に関する税金は1954年(昭和29年)に道路特定財源制度が創設されて以来、道路整備計画に関連して、これまで税率のアップや新税増設が繰り返され、現在では9種類もの税金が課せられている。

2007年を例にすれば、ユーザーが負担する税金は89,920億円、これは国の租税総額収入95.5兆円の1割弱に相当する。

世界に悪名高い日本の「車検制度」は「行政指導」の典型で、今では性能、安全性について世界一と云われる日本製自動車に対して半世紀前からの制度に変更を加えることなく続いている。

自動車の不整備による事故や、環境汚染のもととなる迷惑を社会に及ぼすことに対する罰則規定をしいてすべて自己責任とし、このような悪法は1日でもはやく失くすべきだと考える。

自動車の税金もエンジン馬力に課税するのではなく、各車両の投影面積を基準にして、(道路占有面積)決めるべきではないかと考える。

乗用車、貨物車、特殊自動車にしても、それらを使って産業に貢献し、利益を稼いで国家を支えている国民の立場を考慮に入れれば、このような姑息な制度を廃止、産業を支援するサイドに目線を変えることで自然増収を考慮することこそ政治ではないかと考える次第。

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[White Man's Burden]

Photo 以前のクラーク空軍基地

世界第二と第三の経済大国の間で「領土問題」がおこり、一触即発の空気であると云うニュースは意外と世界中の注意を引きつけている。

翻って考えると「尖閣諸島問題」は、19824月、イギリスとアルゼンチンの間で戦争にまで進展した「フォークランド問題」とは比較にならない程重大なインパクトを世界に及ぼす可能性を秘めているからだと思われる。

毎日新聞、105日付「金言」欄で編集委員:西川恵氏は、或るフランスの政治研究所の幹部の発言として、“中国の若者が暴走して日系スーパーや、日本レストランを荒らしたが、日本で同様の報復がなかったことは幸いであった”、又“昨年の震災で日本人は感嘆すべき自制心と、成熟度を世界に見せたが、今回でも同様の資質を見せた。これは他のアジア諸国を安心させ、地域の安定にとっても大事なことだと思う”と日本人の資質に敬意を表されたと述べ、続けて西川氏は、尖閣諸島問題での日本の抑制的な姿勢に信頼を寄せるアジア諸国は少なくないだろうが、日中対立の行方を注視していることも確かだとの意見である。

中国と南シナ海の島々の領有権問題を抱く国々は、日本が尖閣問題を中国と如何に対処するかの結果を注意深く見詰めている。もし、日本が中国の圧力に屈して引きさがることにでもなれば、将来、同じような境遇を彼等もたどることになりはしまいかと恐れが広がり問題がますます大きくなる懸念はぬぐい去れない。

アメリカの有力紙、Stars & StripesNew York Timesでは既に、6月の時点で、アメリカがフィリッピンに再び軍事基地を持てることになるように交渉中であると述べている。

前々回のブログで書いたように、フィリッピンとアメリカには19世紀末からの相互における苦い過去の問題が存在している関係から、アメリカも慎重な姿勢を貫いている。

しかし、最近の中国の攻勢には東南アジアも含め、共通の脅威を深めているので、フィリッピンとしても、アメリカの軍事援助を受けるためには“スービック海軍基地”、及び“クラーク空軍基地”の使用許可に踏み切らざるを得ないのではと考える。

既にオーストラリアとアメリカは“ダーウイン軍事基地”の使用で同意に達しており、中国封じ込めには、最後に、ロシアを如何にして取りこむかにかかっていると筆者は想像する。

ここで思いだすのは、昔から言い古された「Whiteman’s Burden」という白人間の諺じみた表現である。

これを云いだすと、誤解を招くきらいがあるが、米国、豪州が同じ目的で組むならば、それに露国が加わることは予想できない話ではなくなると感じるからである。

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京都市地下鉄経営姿勢の批判

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毎年赤字経営に悩む京都市地下鉄、副業として始めた乗降客の多い繁華街の四条駅」など3駅で開業した商業施設「コトチカ京都」を山科と北大路の二つの駅に新たに展開することを決定した。(京都新聞、104日)

この計画の始まりは、駅構内の空きスペースを使って云わば、家賃収入で増収を計る、通称「駅ナカビジネス」

2年前から始まったが、年間5億円の目標収入が1年前倒しの本年度に達成できる見込みとなり、これに味をしめて経営健全化計画最終年度の2018年度までに年間10億円の収入を目指すと満足げである。

民間人から見ると、これは副収入であって、決して経営健全化とか、経営体質改善とは映らないことを市行政責任者は悟るべきであり、このことで周辺小売業の売り上げ減に繋がっていることもあり得ることを自覚すべきではないかと考える。

京都市の行ったことは「空きスペース」を利用して家賃収入を得ただけのことで、そのアイディアーは立派だが、自分たちの労働で稼いだものでないことを知るべきである。

市行政の先ず取りかかるべき施策とは、高すぎる職員の給料の削減、週休二日制の廃止、ボーナスのカットなどで経費の削減を行うことではないだろうか?

地下鉄経営が何故赤字なのかは誰が考えても判るが、これを民間の経営者に分析させて回答をもらい、その指針に従って経営を見直すことぐらい始めては如何だろうか?

このことは市バスの運営にも当てはまる。大阪市が考えているように或部分は民営化に切り替えて、交通局母体のスリム化こそ大切だと思う次第。

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日米はアジア全体の安全を考慮する義務を負っている!

Photo フィッリピン・スービック海軍基地全景

アメリカは明らかに沖縄に軍事基地を持ち、日米安保条約の範囲内で、それを如何に利用するかは、アメリカサイドの意思で決まることを当然と考え、住民との折衝は日本政府の義務と考えていることは明らかである。

政府は沖縄対策に3000億円規模で沖縄県と折衝していると聞く。

沖縄県民の考えを代弁しているのが仲井真弘多知事なのだが、今回アメリカ軍が新型ヘリ「オスプレイ」配備に真っ向から反対、島の安全の為に住民の意見を代弁して任務を忠実に実行している。

その反対にもかかわらず、アメリカ側の予定通りオスプレイは沖縄に配備された。

話は少し飛ぶが、1884年、その頃、フィリッピンの宗主国であったスペインがスービック湾にあるスービック地区を海軍基地としていたが、1898年の米西戦争でアメリカが占領、それ以後そこはアメリカの海軍基地となった。

第二次戦争中日本軍がそこを占領したが、1945年の戦争終結で再びアメリカ軍が取り戻した。

1947314日、アメリカとフリッピンは19919月迄スービック海軍基地の使用を規定した軍事基地協定を定めた。

この基地は1975年のベトナム戦争時には重要な出撃基地の一つとして沖縄とともに重要な役目を果たしたと言われている。

アメリカとフィリッピンのスービック基地の使用期限延長交渉中の19914月、ピナトウオ山が活動を始め、6月に大噴火をおこしたとき、その近くにあったアメリカのクラーク空軍基地が多大な損害を受け、兵員の大半とその家族の非難場所としてスービック海軍基地があてられた。

火山灰の堆積の重さで建物が倒壊し死者が出るなどの被害を受け、アメリカはクラーク空軍基地の放棄を決定した。

 その一方で、アメリカはスービック海軍基地については、さらに10年間の使用期限延長を申し出たが、フリッピン上院はその申し出でを拒否、同基地は19911126日にフィリッピンに返還された。

その後、この場所はフィリッピンのスービック経済特別区として使用され現在に至っていると思われる。

何故アメリカはクラーク空軍基地を放棄したのか不明であるが、筆者の考えるところ、アメリカが駐留軍全体を一時スービック海軍基地に避難させ、クラーク空軍基地に代わる第二の空軍基地をスービック海軍基地周辺に建設する予定で考えていたのではないか?

クラーク空軍基地を放棄することはアメリカの決定でなされた。しかしスービック海軍基地はそれからの交渉で、10年間の使用延長についてはアメリカは楽天的に考えていたところ、フィリッピン政府にあっさりと断られたことで、それ以来アメリカ駐留軍基地は、フィリッピンからなくなった。

それ以後(1991年)、アメリカの防衛線は沖縄一本に絞られたわけであり、日米安保条約を遂行するためのアメリカ軍の任務は悲壮な状態にあるのではと考える。

日本と中国の間で尖閣諸島問題がギクシャクしているが、フィリッピンも南シナ海で領有権問題で中国と対立していると聞く。

我が国を含め、東南アジア諸国すべてが中国の武力攻勢に思案投げ首の状態の中、経済大国の日本が、フィリッピンに働きかけ、経済的に援助を行ってでも、アメリ軍基地を再びフィリッピンの何処かに造成させて、沖縄住民の精神的負担を軽くするように働きかけを行っては如何かと思う次第である。

誰が考えても中国の軍事介入を防ぐことこそ、アジアの平和を保てる惟一の手立てと考える。

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恐るべき三菱鉛筆の「ポンk-ペンシル」

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三菱鉛筆が発表した「ポンキーペンシル」、未だ見ていないのでなんとも言えないが、「何にでも書けて折れにくい」性質があり、幼児を目標に企画されたものらしい。

三菱鉛筆は明治時代より主に鉛筆を造り続けている会社。その間、シャープペンシル、ボールペンシル等、主に大人用の筆記具に的をしぼって商品開発をしてきたが、昨年末、発売した全芯タイプの色鉛筆「ポンキーペンシル」は全く幼児に的を絞った商品と考える。

折れにくく、しかも紙以外の素材にも描けると云う一見恐ろしさを覚える筆記具だそうである。

三菱鉛筆では「これ一つで全部できる」。商品開発を担当した、開発部商品第二グループの牛久信一課長はポンキーペンシルの性能について、プラスティック、石、木材、ビニール、や牛乳パックにでも濃い色で生らかに描けると説明する。

芯に、同社のサイインペン「ポスカ」の不透明インク素材を配合した製品。その原理は描く時の摩擦で固形化したインクが解けて付着し、冷めて固まる。

不透明インクなので黒くて濃い色紙の上でもしっかりと発色するとのこと。たとえ重ね塗りをしてもクレイヨンのように下の色が削れる心配がない。

これを開発した理由は小学校低学年の図工の教科書。それは殆ど絵を描くより工作が主で、ペットボトルや木材などを使う場合威力を発揮するからだ。

牛久氏らは一年かけて全国の保育園を訪れて幼児や母親に試作品を作らせて意見を聞いた。

そこで問題は子供たちの筆圧に耐えられる強度を持つ素材が必要だと判った。そこで芯を紙で巻くペーパーロール加工を施し問題を克服、商品名をポンキー(PONKY      として船出となった次第。

残念ながら筆者も未だ商品を実見していない段階で批判は下せないが、確かにこれまで未開発の分野なので、今後は幼児でなくとも他の分野で充分素材の利用価値が見出されるのではと思うが如何なものだろうか?

しかし子供がこれを家に持ち込んで遊ばれると父兄の心配事が増えるのではと思うと寒気を覚えるのは決して筆者だけではない。

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明るいニュース

明光義塾と云う個人指導塾を展開する明光ネットワークは「講師一人に生徒が3人」と云う個人指導の塾を始めたパイオニアー、「教育ビジネスのフランチャイズチェーン(FC)   」と云われる。

これを始めたのは渡辺弘毅社長であった。塾の業界では「FC展開は困難」が常識だったが、明光義塾は今年、全国で2000教室を突破。その90%がFCとのこと。

オーナーが教室開設費を負担し、本部が教材や教育のノウハウを提供する。

「勉強を教えず、勉強の仕方を教える」と云う渡辺社長のモットーで仕上げた教育システム。

今後は子供向けのサッカー教室にも力を注ぎ、将来は美術教室をアメリカの同類」企業と提携して、10万人規模の生徒数を10年を目標に手掛ける。

日本M&Aセンター(三宅卓社長)曰く、“日本経済には閉塞感がみなぎっていて今のままでは自社を成長させられないところが多い、M&A方式を活用して他の分野や地域に進出すべき”。

日本M&Aセンターは1991年に地方の中堅、中小企業を専門のM&A仲介会社として誕生した。

仲介業は従来、税理士事務所などが請け負っていたがが同社は全国の情報網を生かして最適な相手などを提案、親身な顧客対応が評価され昨年は合計194件の仲介で最高益を達成した。

三宅社長はこれでは満足せず、“我々の潜在的顧客は年商100億円以下で、後継者のいない黒字企業(国内に15万社)”らしい。

同社は会費を支払う税理士などの有料会員からM&Aの情報を収集しながら顧客を集め、事業の成約時に高い報酬を得るのがメリット。

今後は無料会員も集め全国規模で情報網をめぐらしながらビジネスを展開すると意気軒高である。

NEEDSの発表では、2011年度は上場334社(金融、流通、外食系を除外)が過去最高の営業利益となり、このうち12年度の連続更新は220社に達することが明らかとのこと。

その他、血管用カテーテル「静脈留置針」を世に出した「朝日ネット」、点滴や輸血に使用するカテーテルで血液の逆流を防ぐ機能を備えた「静脈留置針」は看護士が針を抜いて後、止血の処理がいらなくなる特殊針は今後世界的な需要が見込めるため貴重な発明、これからは東南アジア、欧州にも事業展開を目指している。

紙面には50社に上る大小の昨年度に過去最高益を出した企業が列記され、最近打ちひしがれがちな心も少し癒された気持になった。

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新東京駅駅舎とレンガについて

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今では都心からJRの高崎線まで1時間あまりで到達する。

高崎の少し手前に深谷と云う駅がある。駅舎を出て振り返るとその駅舎の立派さに驚きを覚えない人は少ないだろう。

それは赤レンガ造りの洋風建築、その場所柄にそぐわないと云う感じを持つ。

それが東京駅をそっくりモデルにして造られたことは誰にでも判る、田舎にしては立派すぎる駅に驚きを感じる。

深谷は明治の事業家渋沢栄一の生地である。駅舎の横に渋沢の銅像が立っているのも無理からぬこと。

周知の通り、渋沢は16銀行や77銀行など、俗称、ナンバー銀行の大半や、日本興業銀行、東京海上、東京電力、東京ガス、日本郵船、帝国ホテル等々、日本を代表する一流企業500社あまりの設立に関与したことでも知られている日本資本主義の祖と呼ばれるに相応しい人物である。

前大戦で戦火の犠牲になった東京駅舎が長い改装工事を終え本日、目出度くお披露目することとなった。

今回の工事で40万枚に及ぶ煉瓦作りに苦労したと云う。補修に要したレンガの枚数が40万枚なら、大正6年(1914年)新築当時に要した枚数はこれ以上であったことが判る。

渋沢は、1840年(天保11年)に武蔵の国榛澤郡血洗島村で当家の長男として生まれた。渋沢家は豪農で、当然のことながら周辺に広い土地や田畠があったと思われる。

日本政府は明治8年(1886年)首都を大々的に欧米式の近代都市に仕立て上げる構想で、ドイツ人建築家ウイルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデを招聘し、東京の近代化の意見を聞いたところ、彼らは都市整備には大量のレンガが必要との意見を具申したと云われている。

ここからは筆者の想像であるが、当時では、国産のレンガは無かったが、この製造技術はそんなに複雑なものではなかったと思われる。

何の理由かは知らないが、日本で最初のレンガ工場「日本煉瓦製造」は渋沢の生地の深谷でその産声を揚げた。

琵琶湖疎水の完成は明治23年であっったが、その頃では既にレンガは入手できたにかかわらず輸送の関係で、レンガ工場は工事現場の近くの天智天皇御陵近くで焼かれた。(御陵地下鉄駅横にレンガ工場の碑あり)

深谷は東京都心からキロ数でどのくらい離れているかは知らないが、何故東京近代化にとって最も必要なレンガを都心から遠く離れた深谷で造られたかに疑問を感じずにはいられない。

「日本煉瓦製造株式会社」で製造されたレンガは最初利根川を利用して運ばれていたが、輸送力の向上のため18957月、日本鉄道の深谷駅から工場まで、42キロの引き込み線が造られた。(1975年まで存在)

日本煉瓦製造のレンガを使用して出来上がったその当時の「近代建築」の名の一部を列挙すると;

東京駅、中央本線万世橋高架橋、司法省、日本銀行旧館、赤坂離宮、東京大学等である。

勿論、その他に数え切れないほどの煉瓦建建築物がある。

今朝(10月号1日)のテレビで東京駅補修に約40万枚のレンガを特注して要した材料費と運送費がいかほどのものであったかを知りたいものである。

当時の「日本煉瓦製造」が専売の形で東京近代化事業に供給したレンガの枚数と費用は恐らく天文学的な金額であったと想像する。

筆者の疑問は「政財界の癒着」は既に維新の頃から存在していたと云うことにある。

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