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神泉苑と百花亭

Kami 神泉苑

京都市埋蔵文化財研究所は11月28日、平安時代の貴族邸、藤原良相邸(百花亭)跡地で文字を記した一群の土器を発見し、そこに記された書体が「ひらがな」の最古の遺品ではないかと発表した。

これらの土器片は西三条第跡地であると云う。土師器の皿など約20点に墨書で平仮名で記されていた。このような文字は、これまでの研究では10世紀後半にしか見られなかったらしい。

これが発見されたのは、京都市中京区の西三条第「百花亭」址でそれは藤原良相(813~867)。良相(よしみ)は摂関政治の基礎を築いた藤原良房の弟で、文学や仏教に造詣が深い文化人であったとされている。

これを発見した井上満郎所長は“平安前期の文化が見えて来る”と所見を述べ、平仮名への変遷過程とともに、当時の貴族文化や文字の解明の助けとなることは確かであろう。

新聞記事には近辺の略図が添えてあるが、それは二条城の西南の近辺にあり、筆者が考察するところ、略「神泉苑」のごく近くであることが判る。

京都の略中心を東西にはしる「御池通」の御池の名称はかねてから神泉苑の池を取ったのではと筆者は考えていた。

ウイキペディアで調べると、神泉苑は東寺真言宗の寺院。不動明王、弘法大師を祀り、もとは平安京の大内裏に接して造営された天皇の庭園(禁苑)であった。

延歴13年(794年)、平安京遷都とほぼ同時期に造営されたもので、史料に初めてその名が見られるのは「日本記略」の記事、延暦19年(800年)、桓武天皇が行幸したことで知られる。

神泉苑には竜神が住むと言われ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入ることとなったと云われる。

この神泉苑は元来二条通りから三条通りにかけて南北約500メートル、東西に約240メートルに及び、池を中心とした大庭園であったが、慶長8年(1603)の徳川家康の二条城造営により敷地の大部分を城内に取りこまれてしまった。

また、天明の大火(1783年)で堂塔、社殿が焼失している。

従って、この近辺は神泉苑の池の水流の影響で常に湿地帯のような地盤で西三条第(百花亭)の池の水源も神泉苑からのものでははなかったかと考えられる。

文化都市京都に住んでいると時としてこのような発見が見られ、考古学愛好家にとってはきょうみが尽きない。

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