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最新外科手術の将来

a Vinci Surgical System(ダ・ヴィンチサージカルシステム)はアメリカで生まれた内視鏡下手術用の医療用ロボット。

これは米国では20077月にアメリカ食品衣料品局より承認され、日本では2009年、厚労省で国内の製造販売の承認がなされた。日本での代理店は株式会社アダチである。

ことの始まりは、2000年に九州大学に導入されたのが最初と言われる。

ところが、先進医療としての認可申請はされたが、長い間、認可が下りず、201241日から前立腺がんの手術のみ保険が適用される運びとなった。

相変わらず、日本の行政の壁により国民の福祉がなおざりにされている例を見る感がある。

週刊1月号ダイアモンド誌によると、これを大々的に取り入れて手術を行っている病院は徳州会グループで国内の7病院にダヴィンチを設置し手術を行っている。

今後の問題の焦点は、先進医療や公的保険の対象になる癌の種類に対する対応が拡大するかどうかである。

この認定を行う国の会議では「膀胱」「子宮」等が俎上に上っている。自由診療ではさらに「胃」「食道」「大腸」「肺がん」などで、多様な「癌」で手術がなされていると云われるが、これらの手術が健康保険の対象になるかどうかが問題である。

ここで指摘されていることは、ダヴィンチがアメリカ製のため、小柄な日本人には装着が大き過ぎる問題がある。

もう一つの課題は器具費用が高価であることと、(3億円超)ランニングコストも高価で、患者が負担する自由診療の場合、がんの種類にもよるが、200万円前後が必要と言われ、たとえ将来公的保険対象が認められる種類が増えても、今度は国の医療財政に影響が及ぶことが危惧されかねない。

光学機器メーカーのオリンパスは129日、東大らと共同で、開発した小型手術支援ロボットの試作機を発表、福島県の復興計画プロジェクトの補助金を得て今後3年をかけ試作に取り掛かるスタートを切った。

オリンパスの目標は、ダヴィンチが腹腔手術全般を対象としている機種を目指しているために高価なことに対して、用途を限定した小型装着の開発を目標としている。

オリンパス光学の医療用技術は既に世界的で、ダヴィンチの基本特許が2015年に切れ、以後周辺特許も徐々に消滅することになるとすれば、オリンパス社が試作機の発表を3年後に設定した理由もわからないものではない。

今のところのオリンパスの目標は、近年日本でも増えつつある「大腸ガン」を同社の特殊技術を利用する和製「ロボット手術用器具」に絞っているのではと考える。

これからの医療現場からは、なるべく小型で廉価、繊細な操作に耐える装置で、ダヴィンチの弱い処に対応できる器具であり、それには、この領域の最右翼と見られる内視鏡最大手のオリンパスが最適と考えられる。

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「宗教法人」の宗教行為の定義の問題

月刊誌「選択」一月号に土着権力にの研究の名称で奈良の東大寺を取り上げていることに注目した。

奈良の大仏を持つ華厳宗「東大寺」は荘厳で近寄り難い、と云うだけでなく、その影響力は奈良県・市政は勿論、時には国に迄およぶとのこと。

奈良県議会議員の一人は”奈良には県議会や知事をコントロールできるドンや、地元で権威を振る国会議員はいない、かってあった有力建設会社が倒産して以来、財界もぱっとしない。”

あえてあげるとすれば、奈良の唯一の地方銀行となった南都銀行か、奈良交通ぐらいだという。

地方紙の奈良新聞の公称発行部数は僅か11万部余りで世論を動かすような実力も持ち合わせない。

宗教法人の東大寺の年間収益は伝統的に公表されない。このうちの収入の一部は一般の拝観料だが、年間の拝観者の数は200万から300万人、500円程度の拝観料を集計してもせいぜい10億円程にしかならない。

賽銭料は以前では長老達で山分けされた時代もあったそうだが、今では金庫番の財務執事が管理しているとのこと。

2010年に竣工を見た「東大寺総合文化センター」は美術館とも「参考館」ともとれる施設で、寺宝を並べて当然のように大仏殿の「拝観料」とは別に「入館料」を徴収している。

別料金を取る一般公開の他に、各地美術館での宝物展や正倉院展への文化財の貸し出しも行っている。

以上のような収入が加わり、収入の合計は百億円超になるのではと言われている。

ここで興味を引く事実は、昨年の東日本大震災の折、東大寺は日本赤十字社を通じて1億円の寄付を申し出たが、その財源は銀行からの借入金であったっという事実だ。

前述の文化センターの総工費は約30億円。こんな事業費は早晩回収できるであろうとの仏教関係者の弁。

現在進行中のプロジェクトは、かって消失した東塔の再建。高さ100メートル超の木造の建造には200億円が必要となるが、東大時はこれを寄付や勧進で行うつもりらしい。

これに過去の例をみると文化庁からの多額の補助が税金から投入されることもあり得る。

前出奈良県議員によると、1960年代に県の収入をあげるべく、「奈良県文化観光税」を創設して県内の寺院入場者一人当たり10円を課税したことがあったが、他の寺院の賛成にもかかわらず、東大寺だけが反対を唱えて立ち消えとなったらしい。

東大寺には歴代、別当制度が健在で発言力を維持し、学園も経営ている。

東大寺は南都七大寺の一つで、「檀家」や「墓」をもたないところ、他の地方の寺院とは違っている。

それだから「独断専行」も可能であると言い、「選択誌」は寺の姿勢は極めて閉鎖的で厚い秘密のベールに包まれていると表現している。

奈良と同様に、京都にもそれに劣らず多くの観光寺院が存在しているが、東大寺と同じように、多くの裕福な寺院では、「宝物殿」と称する、言わば「美術館」とも考えられる施設を併設しているが、ここに入るにも入館料が必要となる。

筆者の考えるところ、本殿での「参拝」に加えて、美術館、参考館での勉学も併せて宗教行為と認定してその収入をも併せて無税とすることには少し無理があるのではと思うのだが、如何なものだろう?

第二次阿部内閣は、憲法の改正を考慮しているようだが、政府が永く寛容に扱ってきた宗教行為に対しても規制を改め、一般庶民の商行為に対すると同じ目線で宗教法人への課税を考えるべきではないかと考える。

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ラナルド・マクドナルド

200pxranaldmacdonaldmonument Ranald McDonald

太平洋を遭難中にアメリカの捕鯨船員に救助され、アメリカに連れていかれ、数奇な人生を送ったが、我が国の発展にも多いに寄与した中浜万次郎は有名だが、アメリカでスコットランド人とアメリカ先住民の混血として  生まれ、その後、自分で志願して命を賭して来日、英語を日本に広めたダナルド・マックドナルド(Ranald McDonald)についてはわが国ではあまり知られていない。

彼の父親はハドソン湾会社に務めていたスコットランド人で彼の母親はチヌック・インディアン(Chinook Indian)であった。

ラナルドは、いつか海の彼方の日本に行きたいと云う願望にかられ、ある日勤めていた銀行をやめ、捕鯨船に乗り込んだ。

彼の決心は硬く、1845年、捕鯨船”プリムス”に船乗りとして契約を済ませ、その間勤勉に働いていたが、1848年、船が北海道、利尻島近辺に近ずいたとき、船長に懇願して小舟をださせて、それを北海道沖で転覆させ、泳いで岸辺にたどり着きあたかも漂流民を装ってアイヌに救助された。当時では日本は外国人の上陸、入国を厳しく取り締まっていたことを承知の上の、暴挙とも考えられる行動であった。

時に嘉永元年(184857日であった。しかしラナルドは密入国者として拘留されて後、長崎に送られ調べられたが、役人達は彼の人柄と教養を見抜き、その後は長崎藩の英語教師として抜擢された。

彼は、その後、座敷牢での格子をへだてての授業ではあったが、翌年に送還されるまでに14人の若い長崎藩士に英語を教えたと言われている。

その中には5年のちに我が国を訪れたアメリカ東のインド艦隊総督ペリーの通訳として活躍した森山栄之助も含まれている。

ラナルドは嘉永2年(1849年)3月、長崎に入港したアメリカ船に引き渡され約10ヶ月の日本滞留を終えるが、帰国後アメリカ議会に、日本は法治国家であり、人民は礼儀正しく教養も高いことを陳述書のかたちで提出したと言われている。

ラナルド・マクドナルドは1894年、70才でこの世を去るが、病床で”さようなら”と言ったとも伝えられている。

ラナルドは日本滞在中に経験した事柄を書きとどめて、晩年「日本回想記」を表している。

彼の生地は、現在のオレゴン州アストリアで、当時ではイギリスのハドソン湾会社が太平洋の毛皮の集積地として占拠していた所であった。

父親の名はArchibald McDonald(アーチボルド・マクドナルド)、母親はRaven(レーブン)と言い酋長の娘とのことである。

ラナルドは子供の頃から度々、西海岸に漂流した日本の漁民に出くわしている。その中には有名な音吉もいて、日本人の血がチヌックにも流れていると聞かされていたらしい。

彼はマニトバ州にあるレッド・リバー・アカデミーで一般教育を受けた後、最初、父親のつてで銀行に職を得ていたと伝えられている。

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習近平の直近の仕事

中国憲法第41条によれば「中国の公民はあらゆる国家機関や公務員に批判や、建議を提起する権利を持つ」と規定されている。

胡錦濤前総書記、習近平新代表がいずれも「国を滅ぼす」とまで言及せざるを得ない深刻な大問題「汚職」の撲滅に関して、新政権発足後変化が見られてきた模様。

汚職問題の現状と課題について、共産党幹部の腐敗を告発するサイト「人民監督網」(ネット)を運営し、これまでに120人以上の役人の不祥事を暴露してきた朱瑞宝編集長(43)のリポートが1223日の毎日新聞の「オピニオン」欄で「隣国のホンネ」として発表されている。

編集;毎日新聞記者;工藤哲氏 応答者;人民監督網編集長;朱瑞峰氏

工藤;貴方が権力争い利用される恐れはありませんか?

朱氏;確かに提供された情報の多くは権力闘争に伴うものですが、私が目指すのは権力に関わることではなく、あくまで真相を明らかにすることです。

活動の間に当局に嚇かされたことは何度もあります。サイトが閉鎖されたり、地方の当局の関係者が北京まで脅しにやってきたり、殴られたりしたこともあります。家族まで脅かされ、2年程前から離れて生活しています。

私は憲法に代表される「法」を尊重したいと考えております。国内外のメディアや、学者が活動を理解してくれていることが大きな支えです。

工藤;近年の中国の腐敗の現状をどう見ますか・

朱氏;特にここ4年ほどは不敗が深刻で、それに伴って抗議行動も過激になっている気がします。

少しでも長く特権を享受するために、年齢を実際より低く公表している幹部も目につきます。当局は真相を明らかにすると言いますが、実際にはインターネットを操作し、関連サイトを閉鎖し関係者を抑圧しています。既に多くの国民は政府を信用していません。

アメリカ・ブロンバーグやニューヨークタイムズ紙は前首相、温家宝氏の巨大蓄財を既に大きく報道しているし、米国の中国語ニュースサイト「博汛」は16日、今年中に巨額の資金を北京から海外に持ち出した政府や北京市幹部は354人に上り、年間人数では最多を記録、その総額はは3000億元(約45000億円)に達していると云う。

11月の党大会の前に突然多くの幹部がアメリカやカナダなどに出国したと云う情報が流れている。

英国BBCなどは、今月、北京理工大の胡星斗教授ら1000人あまりの知識人が党大会で新たに選ばれた中央委員205人の財産の公開を求める建議書をまとめたと報じた。「高級幹部の特権を廃止し、政府の透明度を高めなくてはならない」として、中央委員自身に加え、配偶者や子供の財産などにまつわる情報を公開対象にすべきだと訴えている。

中国は、ここにきて国内外から自国の不透明な政治態勢、腐敗が暫時明らかになりつつあり、今や国内問題では済まされない段階にまでに至っている。

これが正に「一党独裁」の悪弊と認めて、自らを正す姿勢をなんらかのかたちで示すことが習近平新代表の当面の仕事だと心から思う。

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新発見、「じゅらくだい」遺構石垣について

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先日、京都の神泉苑と百花亭について寄稿したが、去る21日の京都新聞に秀吉の築いた聚楽第の遺構の石垣の一部が発見されたと出ていた。

聚楽第は豊臣秀吉が天正15年(1587年)に築いた城郭風の邸宅で周囲に堀を巡らし「聚楽第」と云われたもの。

これ以前に秀吉は大阪城をきずいて入城していたが、さらに京都の宮邸に近い、大内裏のの旧地の東北部の地を選んで、別宅として、天正15年8月に移り住んだと云われている。

これの中心がほぼ智恵光通り上長者町周辺で、東西約600米、南北約700米に亘る広大な地で、現在の二条城より一回り程大きかったと推定されている。

「国家安康」の釣り鐘で有名になった東山正面に奈良の大仏殿を似せて創建した方広寺もほぼ聚楽第と同じ時期に完成している、

これは家康の時代には壊されてその遺構は残っていないが、寺の基礎となった石垣は立派に残って、京都博物館の西門塀に利用されている。

秀吉の城郭の石積みには定評があり、その好例は大阪城のものであるが、方広寺のものもこれに匹敵するような立派な石が使われてる。

これに比べて今回京都府埋蔵文化財調査研究センターが聚楽第の基礎積みと発表したものは大阪城や方広寺址のものとは比較にならない程小ぶりで、粗末な石材と思えてならない。

聚楽第は本丸を中心に、北の丸、西の丸・南二ノ丸などの廓を持ち、塀をめぐらした平城であったが、記録によると屋根には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守を持つ重装な建造物として当時に描かれた屏風絵にも見られる。

その周辺には秀吉の側近の大名屋敷を配していたと伝えられるので、考えるところ、そこには必ずや、同じ時期に立てられた方広寺のものと同じ位の石材が使われていたと信じたい。

聚楽第の後に、その近隣に徳川家康が築城した二条城に石組の殆どが使われたのかも知れないが。今のところ両者の位置関係すらハッキリとしていないので確定はできない。

秀吉は聚楽第に移ると、翌天正16年、正親町上皇、御陽成天皇の行幸を仰ぎ家来を率いて御前に忠誠を誓い歓待を尽くしたと伝えられる。その後、秀吉の養子、関白秀次がここを住居と定めたが、秀吉に秀頼が誕生し世継ぎができたことで、文禄4年(1595年)、突如として秀次は謀反の嫌疑を受けて高野山に移されて切腹させられた。

こともあろうに秀吉は、その翌年、豪勢を極めた聚楽第をこともなげに取り壊してしまった。

僅か8年の短い運命であった聚楽第であったが、この遺構はその後、移築されて再利用されたことは何よりの慰みである。

主な聚楽第の遺構と伝承されるもの:伏見城の一部(焼失)、大徳寺勅使門、妙覚寺表門、西本願寺飛雲閣、白書院前舞台、南禅寺金地院方丈、唐門、二条城二の丸御殿、三渓臨春閣、他

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アウンサン・スーチー氏の信用度

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1947年7月、アウンサン・スーチーが二歳の時、ミャンマー独立の中心人物、父のアウンサン将軍がイギリス軍によって暗殺されたと云う風説がある。

1960年、母、キンチーがインド大使となりインドに赴任するとき同伴(15才)し、デリー大学で2年間、その後。オックスフォード大で4年間政治、経済、哲学を学ぶ。ロンドン大のアジア・アフリカ研究所に就職、その間、一時京都大学にも在職したこともあった。

その後、マイケル・アリスを名乗るイギリス情報機関員と結婚する。

1988年のネ・ウイン独裁に対する蜂起の際に、母キンチの病気見舞いの名目で帰国、独立革命の英雄アウンサンの娘として、民主化の「希望の星」となり、90年の総選挙では彼女の率いるNLDが大勝した。

彼女は「民主化」を実現するスローガンのもと、夫のイギリス情報機関を利用、アメリカ国防長官のオルブライトと頻繁に情報交換を繰り返し、物資や資金援助を取りつけて「抵抗運動」を続行してきた。

2007年の反政府暴動の時、情勢は一変して、その後「軟禁状態」が続いていた。

アウンサン・スーチーは1947年に、当時はイギリスの殖民地であったビルマの独立のため運動を起こした中心人物の父、アウンサン将軍をイギリスに殺されながら、イギリスの情報機関員を名乗るマイケル・アリスなる人物と結婚した。

祖国の独立の為に尽力し、殉死した父親を持つ娘が、こともあろうに憎むべき敵国の情報機関員と結婚したのが事実としたならば、このことにミャンマーの国民は何と思うことだろう?

このような親不孝を平然と行い、父親を暗殺した、憎むべきイギリスで高等教育を受け、民主主義に目覚めたアウンサン・スーチーなる人物が、ノーベル平和賞を受賞し、今や世界にその名を知らない人はない程の有名人になった。

最近ではクリントン米国務長官がミャンマーを訪問、将来の国交再開を約束したり、中国に危険を感じた多くの日本企業が視察団を派遣して進出を模索していることが毎日の如く新聞紙面にのっている。

2008年11月18日の日本経済新聞、2009年6月18日の産経新聞は「中国“石油の道”」、ミャンマーの石油パイプライイン「中国が経営権」と地図入りで克明に仔細を説明している。(写真)

産経の情報では、“9月着工マラッカ海峡回避、(石油)調達に拍車か”として工事着工の予定まで報道している。

その大略はインド洋から陸揚げされた中東からの石油が、ミャンマー領土を斜めに縦断して中国の昆明に至る計画である。この計画でミャンマー軍事政権は既にこの経営権を中国に委ねる契約に同意したことになっている。

いくらアウンサン・スーチーの身柄が自由になって、総選挙に勝利しても、前政権が策定した他国との条約を破棄するようなことは不可能だと思うのだが。

この辺の事情をアウンサン・スーチー氏はアメリカや欧州連合国に説明して了承されているのだろうか?

この間、中国政府から何らの声明も、反論も聞かれないことで、尚更、アウンサン・スーチー氏が何処まで信用される人物なのかも謎と思えてならない。

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千手千眼観音の秀作例

Photo 葛井寺蔵木彫千手観音坐像(8世紀)

日本の仏教は西から渡ってきたものであるが、信仰の対象である「仏」の造形(絵画、彫刻)表現は日本独特のものがある。

京都の太秦(うずまさ)の広隆寺と同じように、西国三十三ヵ所、第五番の札所、大阪の藤井寺市にある葛井寺(ふじいてら)も百済の王族の後裔である葛井氏の興したところと云われている。

その源流は7世紀の中頃、神亀2年(725)聖武天皇の発願で始まり、寺の伝承では本尊は、神亀2年(725)行基開眼となっている。

葛井寺の本尊の千手観音坐像(写真)を見る限り純粋の日本人の仏師の手に依る秀作中の秀作と言われてはばからない立派な仏教彫刻と見受ける。

ナノテクの粋と言っても良い緻細な技術の結晶ともいうべき、この千手観音像は国宝に指定されている天平時代・8世紀、脱乾漆で像高131.3センチ。

寺では毎月の18日に本尊を開帳して多くの参拝者を引きよせている。

写真で見る限り人を圧するような姿を想像するが、高さは一メートル強の坐像である。

お顔には涼やかな中に凛とした気品が感じられ、周りを圧する崇高さも備えている誠に稀有な文化財の一つとして奨励できる秀作である。

日経新聞2010年3月14日の「美の美」欄に紹介され、筆者も最近、お寺を訪れ、再度確認したところであるが、「千手」とはゆかないまでも、数え切れないほどの御手を小さい場所に埋め込む技術はまさに驚異的で、これだけで日本の伝来工芸の粋を実見した感じがする。

これらの御手は桐材を芯に使用した木芯乾漆造りと聞き、さすがにここにも軽量化と高温多湿の国土をも考慮した苦心の程が判る。

藤井寺市は大阪から奈良に至る道筋にあり、奈良時代にはすでに多くの人々が奈良の都を目指して行き交う要衝に位置していたと思われる。

前述の日経新聞の記者の意見によると、「この本尊と東大寺の法華堂の日光・月光菩薩の顔や、梵天、帝釈天の肢体が似通っているとの指摘は古くからあったと云う。実は葛井氏からは、造東大寺司の要職にあった高級官僚や、奈良時代を代表する学僧の慶俊、慈訓らが出ており東大寺との関係も深かった」と指摘している。

いずれにしても、これは恐らく我が国最古の木彫千手観音と断定されるべき作例と見受ける。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

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「モリソン事件」について思うこと

Photo モリソン号

アメリカ海軍提督マシュー・ペリーが江戸沖に数隻の軍艦を率いて現れ、それまで、平和に明け暮れしていた日本人の心胆を寒むからしめ、(1853年)15年後に明治維新をもたらす遠因を作った時より遡ること略半世紀の1808年10月(文化5年)、イギリスのフリゲート船「フェートン号」が長崎出島に、オランダ国旗を掲げて突然あらわれた。

イギリスはかねてより日本幕府がオランダと清国に対してのみ港を開放して差別的貿易を行っていることに不満を募らせていたが、フランス革命後、イギリスに亡命して逃げてきた、オランダ、ウイルヘルム5世の承認で、長崎の出島のオランダ東インド会社商館の検閲を強行するべく寄港した。(フェートン号事件)

同年、8月15日フェートン号はオランダ船の拿捕を目的として、オランダ国旗を掲げて(偽装)入港、人質を取り、長崎奉行(鍋島藩)より薪水や米、野菜、肉を調達後、翌日、8月16日悠然と引き揚げた。

これは正に、平和に明け暮れていた我が国の無防備を突然と襲った大事件であったと言える。

ところが、幕府はフェートン号がそれ以上の問題を起こさず、いわば平和的に引き上げたことを良いことに、17年後の天保13年(1825)に「異国船無二念打払令」を発令して沿岸に接近するオランダ船と清国船以外の異国船を見つけ次第、砲撃して追い返す号令を下したのであった。

1837年(天保8年)に”音吉”を含む、日本人漂流民3名を救助の上、送り届けてきたアメリカ商船「モリソン号」(Morrison)をイギリス軍艦と誤認、薩摩藩と浦賀奉行は異国船打払い令に基づき、これに砲撃を加えて追い返すと云う事件が起こった。(音吉の生涯に就いては次号に紹介予定)

実際は、このときモリソン号,マカオで保護した日本人漂流民の送還と通商、及び布教に訪れたことが、それから一年後に判明し、突然として「打ち払い令」に対する批判が高まり改訂される原因となった。

この時の幕府の外国船に行った非礼を糺すべく「慎機論」を著した、江戸末の著名な画家、蘭学者の渡邊華山は、幕府の対外政策を批判した理由で逮捕され(蛮社の獄)獄中で自害した。

その後、隣国の清国でアヘン戦争(1839~1840)が勃発、オランダ人を通じて刻々とニュースが飛来、さすがの徳川幕府も危機襲来の可能性を感ずるに至る。

今から 顧みれば、我が国は「アヘン戦争」以後、イギリが、清国との通商に携わる中、インドでは、シク教徒との二度にわたる戦争(1845~49年)他、中東、アフリカ、ニュージーランド内戦等にかかわる内、時間が経過、アメリカ東インド艦隊の訪問(1853年)を迎えることとなった。

周辺の海で国境を他国と共有しない地理的条件にある日本は、19世紀半ばまで外国の干渉を受けずに平和が保てたことが「幸」であったか、どうかは一概には決められない。

具体的な敵意をもって、武力で我が国に迫ってくる外国の干渉を払いのけるには、やはり相手の力に見合う兵力を持ち合わせなければ,平衡(equilibrium)は保てないことは云うを待たない。

先日決行された北朝鮮の大陸間弾道弾試験や尖閣諸島にむけての中国の積極的攻勢に対して、近い将来において取るべき我が国の手段は限られてくることであろう。

本日(12/16)、衆議院総選挙が行われている、我々国民としては、今後、これ以上、時間を無駄にすることなく具体的に迫ってくる外国のやむなき攻勢や圧力を如何に平和的に避けながら国家の威信を維持することに邁進するほかはないものと考える。

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アメリカの人口構成と人種傾向

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本日(12/14)京都新聞が共同通信の報道として将来の白人種と有色人種の人口傾向を予測して、白人の数が30年後(2043年)に全国で過半数を割り込み、現在の63%から43%にまで減少、それに反してヒスパニック(中南米系)人口の割合31%に上昇して白人人口に迫ると予測、有権者の構成や労働市場、教育環境などでアメリカ合衆国社会に大きな変化をもたらすことを予測していると報じている。

2010年の国勢調査に基づいた最新の予測では、現在では3億人余りの総人口は2050年には4億人を突破し、60年には4億2千万に達することを示唆している。

カソリック教徒の多いヒスパニック系は高い出生率を誇り、現在では総人口に占める割合は17%に過ぎないが、2060年には31%に増えると予想、アジア系も現在の5%から8%に、黒人のそれも、13%から15%に増えると考えている。

人口増加が望めない白人種は、このままでは、現在の63%から43%になることで一種の恐怖感をもった予測をしているが、そこは移民王国のアメリカのこと、19世紀後半に行ったホームステッド法(Homestead Act)を復活させて、人種別人口比率の調整をさせること位は朝飯前ではないかと考える。

これは蛇足だが、2011年のニューヨーク・タイムズのAlmanac(暦)によると、女性の出産傾向としてシングルマザー(childless women)の増加傾向について、2006年度では、40から44歳までの女性の20%が子供を持たず、これは30年以前の2倍となっている。

2007年度では、170万人の子供が未婚の女性から生まれている、これは全国出産児の40%であったとし、2000年での未婚女性の出産は33.2%であったと付記している。

黒人の70.2%、先住民の64.6%、東洋人系の16.5%が未婚の母、それらの60.8%は24歳以下となっている。(295~296頁)

少しアメリカらしい参考資料は、白人対黒人のカップルの例として、夫が黒人で、妻が白人の件数が1960年では全国で25,000件であったが、2008年では、317,000件、反対に、妻が黒人で夫が白人の場合では、1960年、26,000件であったものが、2008年では164,000件とのこと、最近では、白人女性が黒人を好む傾向にあることが伺われるケース・スタディーとして興味深い。(298頁)

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楊海英「中国異質論」

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内モンゴル自治区出身で日本に帰化した楊海英氏文化人類学者、(日本名、大野旭、48歳)が今朝(12/9)毎日新聞「発言」欄で“中華民族”の定義について述べていたことを紹介したい。

楊氏によると、“日本では言及されることは少ないが「中華民族」と云う民族は存在しない。なるほど中国は漢族と55の少数民族からなる「中華民族」が古代から分割不能な国民であるとの公式見解をとっている。しかしこれは、多民族国家のアメリカ国民を「アメリカ族」と定義するようなもので、中国に少数民族問題は存在しないと云う立場からの虚構、幻想に過ぎない。”と云いきっていることに注目した。

昨年100周年を迎えた「辛亥革命」の首謀者、孫文は「駆除韃慮、回復中華」をスローガンにして満州族である清朝を倒して、周辺の韃靼人らも排除して、漢族中心の「中華」を打ち立てるナショナリズムで立ち上がろうと試みた。

孫文の思想を継承した蒋介石の顧問であったアメリカ人オーエン・ラティモアは、その当時、「シナは西欧諸国の殖民地だが、少数民族には殖民地政策をとっている第二の帝国主義だ」と辛らつに批判したと云う。

当時の孫文の心中には1840年(アヘン戦争)以前の大国復活の夢があったと思われる。

楊海英氏は、彼等は“一方で「中華」と云いながらモンゴル帝国の版図も含め、冊封体制を根拠に「琉球回収」を主張し、軍部は「利益国境」の概念を打ち出している。”又は“モンゴルの草原(外蒙古?)を失っても釣魚島(尖閣諸島)を守ろうと唱え、何千万人が死んでも、これを死守すると発言したことでモンゴル人の怒りを買っている。”と憤慨している。

楊海英氏が言う、1950年代の中国大躍進政策では4000万人の雅死者を出し、文化大革命の時には5万人のモンゴル族の虐殺があったとは、我々には初耳だが、それでは日本人が行ったと云われる「南京虐殺」なんか比較にもならないような凄惨なことが戦後中国近辺で発生していたことになる。

楊氏は、“中国異質論”は敢えて唱えないが、日本と同質の国と考えることは出来ない。

「日中国交正常化40周年にあたり、日本人として中国と云う国を冷静に見つめ直すべき。“と自省の意味を込めて述べている。

※楊海英:静岡大人文社会科学部教授

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北京官制「法制宣伝日」の意義

Photo 天安門事件

中国政府が国の法制度が公平に守られていることを公に宣伝する日「法制宣伝日」にあたる12月4日、報道(マスコミ)を通して官僚の腐敗ぶりを訴えようと、北京市内の中国中央テレビ近くに集まってきた数百人の陳情者を公安当局が直ちに拘束連行した。(京都新聞12月5日)

報道によると、この日には例年多くの陳情者が同テレビ局前に集まり、当局に拘束されることが恒例になっていると云う。

それではこの連中は捕まることを覚悟の上でやってくるのだろうか?

4日は習近平体制発足後、始めて迎えた法制宣伝日であったが、北京の人権活動家はこの国では以前と変わらず体制維持のために庶民の不満を抑え込み共産党の都合で社会の安定を最優先する路線に変わりがないと口ぐちに訴えた。

このことを予測してか、中央テレビ局周辺には4日早朝から多数の警官が警備体制を敷き、公安当局が陳情者達を収容施設に運ぶために準備した大型バス数十台が待機、集まってきた大半の民衆を呼びとめて用意したバスで市内の収容施設に連行、その後、各地方政府の担当者に引き渡されて送還となったとのこと。

土地の強制収容、司法の腐敗、貧富格差が極度に深刻化している中国では、毎日平均2~3000人の直訴者が遠路をいとわず北京にやってくると云われる(グーグル)。

この日には、北京中央テレビ局前の他、天安門広場、新華門等前にも数百人が挙り、中共政府・国務院前にも可なりの人数が集合した。これらの直訴者たちは訴えの内容を記した衣服を身につけ、スローガンを記したカードを持ち、声高に叫びながら、政府の「法制宣伝日」の詐欺的偽りに強く抗議の姿勢を示していたと云う。

当日の午後、中華全国総工会前でも200人の行員風の人々が集合、オーナーに依って不法にリストラされた為、(殆どが30~40歳代)家族が養えないと叫び政府に解決を求めたが、拒否され、抗議後に連行されてしまった。

それでは「法制宣伝日」とは何の目的で制定されたのかもわからないし、遠くから抗議することで北京まで苦労をいとわず、たどり着いた平民も逮捕連行で終わることを承知の上ででも集まってくる「心理状態」にも中国独特の異常さが感じられる。

しかし、そこには悲しい中国の姿が存在することは否定しえない事実である。

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ハッキリしない「脱原発」の定義

昨年の「東日本大震災」以後、“脱原発”と云う言葉が叫ばれ始めた。筆者はこの言葉自体が曖昧でハッキリと判らない。

特に衆議院選挙が迫るに従って“脱原発”が政治的スローガンとなりつつあるように思う。

“脱原発”とは、日本中にある原子力発電所を一斉に休止させることを指すのか、これらの発電所を一挙に失くしてしまう意見なのかがハッキリとしない。

福島発電所には六つの原子炉があったが、その中にも休止中で稼働していなかった炉もあったと聞いている。

事故後、菅直人首相は中部電力の「浜岡原発」をなにはともあれ止めろと叫んで首相命令でそれを実施した。

客観的に見て、この時の首相の行動はあまりにも短絡的で、権力誇示の行動であったと考える。これは、久しく騒がれていた「東海地震」を想定しての菅直人氏の短絡的で思慮に欠ける人気とりでしかなかった。

数ある原発の中で現在稼働しているものは、関西電力の大飯発電所の二基のみだと聞いているが、それが最近の新聞報道によると地震帯上にあるのではと疑問視されているにかかわらず稼働し続けていて、政府はそれについて何の行動も取っていない。

昨年の地震では、休止中の原子炉が大きな被害をだしていることが判ったにも関わらず、このことには世論は何の反応も示していない

このことは原子炉は動いていても止まっていても、存在すること自体「危険」ではないのかに疑問を覚える。

「卒原発」と云う意味はことさら判りにくい。

“何でも反対党”のそしりを受けた元の社会党、今回の衆議院選挙においても「何々反対」の言葉が行き交っているが、候補者達は「反対」を叫ぶ前にもっと建設的な意見で選挙を戦ってほしいと思う。

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「ゴールド・スター・マザース」

Img_0712" gold star mother's" banner

ドイツ、オーストリア、トルコ三国の攻勢に対して連合国(イギリス、フランス並びにロシアが反抗し、1914年 “Great War”(後にthe 1st world war)が勃発した。結果的にこの戦争で双方に900万人の損害が出たと云われる。

28代アメリカ大統領ウイルソン(Woodrow Wilson,1856~1924)は最初からこれに参戦する意思は無かったが、大西洋で多くの商船がドイツ海軍の潜水艦の攻撃で沈められ、自国民の生命に危機が迫ることになる理由で最終的に、ドイツに宣戦布告し大戦に参加した。(1917年)

そこで多くの兵隊たちが大西洋を渡って戦争に参加するにあたって,反対運動も起こったが、ウイルソン大統領は多くの傷病兵が帰国し、戦死者が増えるに従い、戦場に愛する子供達を送りだした母親達の希望を入れ、夫や息子を戦争に参加させた家族の各家の窓に、一人につき一つの青い星のバナーを掲げる運動をはじめることとした。

これを最初に提唱したのはグレース・ダーリング・セイボールド(Grace Darling Seibold) である。

戦争の勃発で、グレース・セイボールドの息子の、ジョージ・セイボールド(23)は空軍に参加する志願手続きを行った。

その頃、アメリカには空軍もなく、従って飛行機もなかったので、ジョージはカナダに送られ、イギリス空軍に配属された。

残念にも、ジョージ・セイボールドはフランス戦線で撃墜され、身柄も不明となった。

その後、母親グレースのたゆみなき運動の結果、1928年になって首都ワシントンに“アメリカン・ゴールドスター・マザース”連盟が結成された。

グレースの熱意は遂に、大統領婦人の心を動かし、翌年の1929年、ウイルソン大統領は議会の決議に基づいて500万ドルを拠出して“ゴールド・マザース”のため、ヨーロッパで戦死した家族の墓参旅行を挙行した。

これは国家の為に貴重な生命を差し出した母親の名誉を称えるために始まった運動で、戦死者には金色の星が与えられることになった。(写真)

その母親はゴールド・スター・マザー(Gold Star Mother)の名称で呼ばれるようになり、年に一度、9月の最後の日曜日が” Gold Star Mother’s Day”と呼ばれ、それは今でも続いていると聞く。

cf.American History,Oct.2012,pp.19

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欧米帝国主義国家の尖兵「イスラエル」は不敵

Photo パレスティナ・アッパス議長

1129日の各紙の報道するところでは、国連総会はパレスティナを今後「オブザーバー国家」に格上げすることを採択した。

パレスティナは過去に独立の承認を目指したが失敗したことから、今回は戦略を変えて現在の「オブザーバー機構」から一段上の「オブザーバー国家」の資格を目指していた。

この決議案の文言起草には、親パレスティナのノルウェー、スペイン、デンマーク、アイスランド、フランス、スイスなどが協力したと言われる。

その一方、アメリカ、イギリスは決議案に反対、その理由として、パレスティナとイスラエルの和平交渉再開のみが真の解決になると主張、和平の道は双方の努力でのみ達成されるもので、国連にはその責任がないとのクリントン米国務長官があった。ドイツは棄権を表明、決着、パレスティナを「非加盟オブザーバー組織」から「非加盟オブザーバー国家」になり、ヴァチカンと同じ資格を得たことで決着した。

イスラエル政府報道官はそれでも、この決議案について「政治敵な脅し」と避難している。

中東問題専門家、平山健太郎氏著「エレサレムは誰のものか?」(NHK出版)では、“書き換えられた建国宣言”に言及、「19471129日、国連総会は、パレスティナにユダヤ人の国とアラブ人の国をそれぞれ一つずつ作る決議を採択し、住民たちにこれら二つの国家創設するための準備を行うよう勧告した。

この決議の有効性は最終的なものであり、我々はこれに従い建国を宣言する」と云う当時のバングリオン首長の言葉を紹介している。

問題の地域は我が国の関東地方より小さい場所で、1947年当時の人口はアラブ人が120万、ユダヤ人はその半分程度であった。

想像にたがわず、その次の日から、アラブ、ユダヤの双方で、それぞれの領有地区の決定で紛争が起こった結果、米ソ両超大国が国連決議に従って区画を作成したが、結果、パレスティナをモザイく模様のように六分画して、それぞれに3地区ずつとした。(ユダヤ55%、アラブ45%)。

しかも地中海岸では、シャファなどアラブ人の多い市街地が「ユダヤ国家」予定地の中に「アラブ領」の飛び地として残る、地図を一瞥するだけで実現の困難さが想像できるようなせんびきであったがユダヤ人側はこの分割決議を受け入れた。これに反してアラブ側はこの協定案をパレスティナ住民の「自決権」を無視している理由で拒絶、公平な投票を行えば人口の多いアラブ側が結果的に少数のユダヤ人口を抱える「アラブ国家」が誕生することになると云い張った。

当初からこの区画に就いては問題が多く、人口の少ないユダヤ人に何故半分以上の領地を振り分けたかを巡ってアラブ側から不平が述べられた。

現実、「イスラエル国家樹立宣言」当日から紛糾が起こり、エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク、サウジアラビア、イエメンの七カ国は一斉にパレスティナに出兵、第一次中東戦争が起こっている。

それ以後、65年、この周辺でどんなことが発生して、世界に如何なる物議を醸し、平和を損ねるどころか、数えきれない程の人命が失われたことは今更語る必要もなかろう。

19世紀のシオニズム提唱者ヘルツルの思想の根幹について、インド外交官ジャンセン著「イスラエルシオニズム」(奈良本英佑訳、第三書館、1982年刊)には、その頃のシオニストの考え方は「ヨーロッパと北アメリカは文明を代表し、残りの世界は野蛮を代表する。従って、ヨーロッパは、この外部の暗黒の世界を植民地となして、これを文明化する使命をもつ・・・・、シオニストのユダヤ人は根っからのヨーロッパ人で、アジアや中東人ではない、彼等(シオニスト)は、イスラム世界、特にアラブ世界に対するヨーロッパ帝国主義の尖兵で、彼らと友好を保てば我らの存在は認められる」

キリスト教の誕生以来、2000年もの間苦難を耐え忍んだユダヤ人の心意気のたくましさには驚嘆するが、2世紀にも亘ってアラブ人を騙し続け 、西欧国家の尖兵としてユダヤ人を意図的にエレサレムに送り込み世界的紛争の領地を造り出した罪は許されるものではない。

さて「パレスティナ」と云う言葉はイスラエル人によると、ユダヤ王国を滅ぼしたローマ帝国のハドリアヌス帝がこの地域につけた名称で、この命名の目的は「ユダヤ人独立国家」の痕跡を抹殺することにあったと云う。(前出平山健太郎、“エルサレムは誰のものか?”p.58

従って、ユダヤ人からすれば「パレスティナ」の名を聞けばなおさら敵愾心が掻き立てられ、「エレッソ・イスレル」(イスラエルの土地)と云う言葉に置きかえられてユダヤ民族主義運動となり聖地エレサレム奪回の機運が高まった。

第二次世界大戦終局に於いて、アメリカ、イギリス、ソ連の3代表がこぞったヤルタ会談でも必ずや戦後のユダヤ人処遇問題が議題となり、終戦直後のイスラエル建国が現実化されたことは殆ど疑いの余地のない事実である。

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