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新発見、「じゅらくだい」遺構石垣について

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先日、京都の神泉苑と百花亭について寄稿したが、去る21日の京都新聞に秀吉の築いた聚楽第の遺構の石垣の一部が発見されたと出ていた。

聚楽第は豊臣秀吉が天正15年(1587年)に築いた城郭風の邸宅で周囲に堀を巡らし「聚楽第」と云われたもの。

これ以前に秀吉は大阪城をきずいて入城していたが、さらに京都の宮邸に近い、大内裏のの旧地の東北部の地を選んで、別宅として、天正15年8月に移り住んだと云われている。

これの中心がほぼ智恵光通り上長者町周辺で、東西約600米、南北約700米に亘る広大な地で、現在の二条城より一回り程大きかったと推定されている。

「国家安康」の釣り鐘で有名になった東山正面に奈良の大仏殿を似せて創建した方広寺もほぼ聚楽第と同じ時期に完成している、

これは家康の時代には壊されてその遺構は残っていないが、寺の基礎となった石垣は立派に残って、京都博物館の西門塀に利用されている。

秀吉の城郭の石積みには定評があり、その好例は大阪城のものであるが、方広寺のものもこれに匹敵するような立派な石が使われてる。

これに比べて今回京都府埋蔵文化財調査研究センターが聚楽第の基礎積みと発表したものは大阪城や方広寺址のものとは比較にならない程小ぶりで、粗末な石材と思えてならない。

聚楽第は本丸を中心に、北の丸、西の丸・南二ノ丸などの廓を持ち、塀をめぐらした平城であったが、記録によると屋根には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守を持つ重装な建造物として当時に描かれた屏風絵にも見られる。

その周辺には秀吉の側近の大名屋敷を配していたと伝えられるので、考えるところ、そこには必ずや、同じ時期に立てられた方広寺のものと同じ位の石材が使われていたと信じたい。

聚楽第の後に、その近隣に徳川家康が築城した二条城に石組の殆どが使われたのかも知れないが。今のところ両者の位置関係すらハッキリとしていないので確定はできない。

秀吉は聚楽第に移ると、翌天正16年、正親町上皇、御陽成天皇の行幸を仰ぎ家来を率いて御前に忠誠を誓い歓待を尽くしたと伝えられる。その後、秀吉の養子、関白秀次がここを住居と定めたが、秀吉に秀頼が誕生し世継ぎができたことで、文禄4年(1595年)、突如として秀次は謀反の嫌疑を受けて高野山に移されて切腹させられた。

こともあろうに秀吉は、その翌年、豪勢を極めた聚楽第をこともなげに取り壊してしまった。

僅か8年の短い運命であった聚楽第であったが、この遺構はその後、移築されて再利用されたことは何よりの慰みである。

主な聚楽第の遺構と伝承されるもの:伏見城の一部(焼失)、大徳寺勅使門、妙覚寺表門、西本願寺飛雲閣、白書院前舞台、南禅寺金地院方丈、唐門、二条城二の丸御殿、三渓臨春閣、他

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