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ラナルド・マクドナルド

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太平洋を遭難中にアメリカの捕鯨船員に救助され、アメリカに連れていかれ、数奇な人生を送ったが、我が国の発展にも多いに寄与した中浜万次郎は有名だが、アメリカでスコットランド人とアメリカ先住民の混血として  生まれ、その後、自分で志願して命を賭して来日、英語を日本に広めたダナルド・マックドナルド(Ranald McDonald)についてはわが国ではあまり知られていない。

彼の父親はハドソン湾会社に務めていたスコットランド人で彼の母親はチヌック・インディアン(Chinook Indian)であった。

ラナルドは、いつか海の彼方の日本に行きたいと云う願望にかられ、ある日勤めていた銀行をやめ、捕鯨船に乗り込んだ。

彼の決心は硬く、1845年、捕鯨船”プリムス”に船乗りとして契約を済ませ、その間勤勉に働いていたが、1848年、船が北海道、利尻島近辺に近ずいたとき、船長に懇願して小舟をださせて、それを北海道沖で転覆させ、泳いで岸辺にたどり着きあたかも漂流民を装ってアイヌに救助された。当時では日本は外国人の上陸、入国を厳しく取り締まっていたことを承知の上の、暴挙とも考えられる行動であった。

時に嘉永元年(184857日であった。しかしラナルドは密入国者として拘留されて後、長崎に送られ調べられたが、役人達は彼の人柄と教養を見抜き、その後は長崎藩の英語教師として抜擢された。

彼は、その後、座敷牢での格子をへだてての授業ではあったが、翌年に送還されるまでに14人の若い長崎藩士に英語を教えたと言われている。

その中には5年のちに我が国を訪れたアメリカ東のインド艦隊総督ペリーの通訳として活躍した森山栄之助も含まれている。

ラナルドは嘉永2年(1849年)3月、長崎に入港したアメリカ船に引き渡され約10ヶ月の日本滞留を終えるが、帰国後アメリカ議会に、日本は法治国家であり、人民は礼儀正しく教養も高いことを陳述書のかたちで提出したと言われている。

ラナルド・マクドナルドは1894年、70才でこの世を去るが、病床で”さようなら”と言ったとも伝えられている。

ラナルドは日本滞在中に経験した事柄を書きとどめて、晩年「日本回想記」を表している。

彼の生地は、現在のオレゴン州アストリアで、当時ではイギリスのハドソン湾会社が太平洋の毛皮の集積地として占拠していた所であった。

父親の名はArchibald McDonald(アーチボルド・マクドナルド)、母親はRaven(レーブン)と言い酋長の娘とのことである。

ラナルドは子供の頃から度々、西海岸に漂流した日本の漁民に出くわしている。その中には有名な音吉もいて、日本人の血がチヌックにも流れていると聞かされていたらしい。

彼はマニトバ州にあるレッド・リバー・アカデミーで一般教育を受けた後、最初、父親のつてで銀行に職を得ていたと伝えられている。

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