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豊臣家の寺「方広寺」の悲運

非運な大仏で知られる京都の方広寺、天正14年(1586)、豊臣秀吉の発願でその造営が始まったが、最初の予定では東福寺の近辺に予定されていて、その後、急遽、三十三間堂(蓮華法院)の東北の場所に変更された。

二年後の天正16年、秀吉は高野山の木喰応其を主任とし造営を始めた。その間、小田原攻めがあり、暫く、工事が中断、再び、三年後の天正19年(1591)に工事を再開、その完成を見たのは、文禄4年(1595)と伝えられている。

ここで歴史的に注目すべき事柄は、秀吉の嫡男、秀頼誕生が文禄2年(1593)8月3日で、秀吉はその翌年(文禄3年)伏見城を築城、同時に秀頼の実母、淀君の亡父、浅井長政を弔うため、蓮華法院(三十三間堂)の前に、養源院を建立、また、  その翌年の文禄4年7月、謀反の罪の名目で、甥の関白秀次を高野山に追いやって切腹を命じた。

秀吉が方広寺造営を思い立った天正14年(1586)から嫡男秀頼の誕生した文禄2年(1593)の7年間には、豊臣家には何ら不吉な事件は起こっていなかったが、秀頼を授かった時をさかいとして、天下人秀吉の身辺に単なる運命的符号だけでは済まされないような不吉なことが連続して起こっている。 

文禄4年、大徳寺の古渓宗陳を開山として、方広寺ここに完成した。

本尊は奈良の大仏より一回りも大きい蘆舍那仏(高さ19メートル)は銅製ではなく木造に漆箔が施されたものであった。

大仏開眼の供養は「千僧供養」と呼ばれた如く、一千人を超すあらゆる宗派の僧侶により執り行われ、食事の準備には東側の妙法院門跡の台所が使われたと伝えられている。

ところが、翌年の文禄5年7月13日の「慶長伏見地震」の際この寺は倒壊の憂き目に遭っている。

本尊が棄損したことで、秀吉は、夢のお告げと称して、信濃の善光寺から阿弥陀如来を、権力にものを云わせて取り寄せ、慶長2年(1597)7月、方広寺に遷座させたことが知られている。

その翌年、秀吉は病で床に伏すこととなり、これを善光寺如来の祟りとの噂が立ち、急遽信濃に戻されたが、秀吉は翌年の慶長3年8月他界した。

秀頼によって、その翌年に銅製の大仏が完成したが、慶長7年(1602)、関ヶ原の戦い後、火災が起こり、造営中の大仏と共に建物も焼け落ちた。

慶長13年(1608)より再興を開始、四年をかけて、慶長17年(1612)再び大仏は一様の完成を見て後、「梵鐘」が慶長19年(1614)に鋳造された。

豊臣家としては方広寺の完成に際し、新しい天下人の家康にその承認を得るべく報告を行ったところ、東福寺の文英清韓の作成した梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の文字が徳川家を冒涜する意味を持つと看做し、大仏の開眼供養の延期を命じ、それを理由に同年11月、所謂「大阪冬の陣」の開始となったと思われている。

その後、大仏は再度、寛永文2年(1662)地震で倒壊、大破、銅製の大仏は「寛永通宝」の材料として消費された。

ところが大仏は、5年後の寛文7年(1667)木造大仏として完成したが、3年後の寛政10年(1798)落雷による火災で焼失している。

問題の「国家安康」の梵鐘は度重なる災難にも耐えて、現存、東大寺及び知恩院のものと併せ、日本三大名鐘として重要文化財となっていることは喜ばしい。

方広寺の寺領は現在の京都博物館から、東は豊国神社までを占めていたが、その後、随分と縮小され、最も顕著な名残りは博物館の西北隅に見られる巨石の基礎址のみとなった。

以上、煩雑ながら「方広寺」の数奇な運命の考察を行ったが、地震、落雷によってこれまでの災難に遭遇したことが単なる奇遇の連続であったかどうかは誰にもわからない。

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中国のアキレス筋となるか?「法輪功」

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北京共同発として、中国共産党規律検査委員会は9日、記者会見で、昨年中に規律違反や違法行為で処分を受けた党員や政府官僚の合計が16万718人にのぼったことを明らかにしたとあった。

2011年では処分者の総数は14万人余りで、犯罪者が増加傾向にあることを認めている。

中国誌、「検察日報」は、8日付けで、官僚のイメージ低下に関する報告をまとめた研究者の話を報道、処分を受けた腐敗官僚の95%に愛人がいることを伝えたが、その総人数は不明。

主席が習近平になって急に政府の姿勢が変わったと云うわけではないだろうが、規律委員会と監察省の記者会見は例年の行事、しかし、中国中央テレビがこのような会見の模様を生中継することは初めてのことらしい。

昨年、収賄や規律違反を理由として、元重慶市のトップの薄博来氏や、劉志軍前鉄道相の党籍はく奪を行い、規律の正常化に努力している様子をしめしていることが判る。

台湾の医師、林建良氏が著した「中国ガン」と云う本を通読して判ったのだが、今、中国共産党が最も警戒しているのは「法輪功」と名乗る1992年5月に李洪志氏が長春で始めた「気功術を教える講座」の団体のこと。

これは最初、一般に公開されなかったが、一般公開するや、たちまちにして全国にその学習者が広がって行ったと言われる。

始め政府はその運動を容認していたが、あるとき政府の上層部が一転してこれを問題視しはじめたと云われている。

気功術だから、普通なら大極拳のような運動くらいにしか思っていなかったが、法輪功の学習者があまりにも急激に増え始めたことに対して、一種の恐怖感を覚え、1998年頃から、公安部が急に同団体の調査にのりだし、最後には「活動禁止措置」を発令するに至った。

そのことに対抗して、1999年になり、天津のメンバーが当局に陳情を始めたことが「暴動」と看做されて逮捕に至る事件が起きた。

それを知った仲間が達が、すぐさま、2万人を集めて、今度は北京の中南海にある陳情窓口を取り囲んだ。

この2万人は何もせず、ただ立っているだけであったが、これだけの人数が政府の中枢機関を取り囲んだことに大きな衝撃を受けたのではと云われている。

その時、法輪功のメンバーが既に1億人に達していた事実を政府が感知していて、即刻、政府は「6・10弁公室」なる法輪功取締局を立ちあげ、これの取締には超法規で無限大の権限を与えたとのこと。

これは、我が国でいえば、「オウム教壇取締り」に似たもので、法輪功のメンバーなれば誰であろうと自由に検査できるし、弾圧も拷問もできることにしてしまった。

中国ではどんな団体でも1億以上の人間を動かせる「集団」は何はともあれ危険分子と断定することが判った次第。

法輪功の強いところは、メンバー自体が集団を宗教団体と自覚していないで、あくまで気功の修業集団としか思っていないところが政府をして、その実態を把握できにくくしているとしか思えない。

しかし法輪功のムーブメントは宗教団体のそれとしか見えないと林建良氏は認めている。

林氏は医者の目で中国を人間の体に例え、中国が抱えている問題、例えば格差や公害、水、汚職等を指摘しているが、その中で、今のところ何とも処理しにくいのが法輪功問題だと分析している。

中国の長い歴史を振り返ると、一番のガンはやはり農民(下層住民)と宗教、それと隣接する韃靼人種であった。中でも宗教団体は弾圧されればされるほど、民衆に広がって抑えきれなくなる。清朝末期の太平天国の乱もその卑近な例であった。

法輪功は一つの団体には違いないが、たこのように骨と見られる部分のない、いわば、掴まえ所のない集団であるから国は扱いに困っているのが本音らしい。

林氏は法輪功のメンバーは、国内では3000万人、海外に7000万人、合計して1億人で、「大紀元報」と称する報道部をニューヨークに持ち、それを本部として、その他、海外30カ国にグループ組織をもっていると云われる。

それらの支部で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、韓国語、日本語等に翻訳して発行している。その他、インターネットで「大紀元」サイト、「明慧」サイト、「法輪功」サイトなど20~30程の広報機関を備えている。

林氏によると、2001年に始まった法輪功の中国情報は正に独自のもので、政府が否定している、いないに関わらず、中国の歴史感や政治について共産党の見解お構いなしの論調を展開してはばからないものらしい。

林氏は法輪功の目指すところは中国共産党打倒で、的を絞って、共産党員の脱退呼びかけ運動に終始していると云う。

法輪功は共産党政府の醜い処を9カ条として挙げて、それを「九評」と称して世論に訴えている。その知識レベルは高度で、海外の政治家とのパイプを持ち、多くの法輪功のメンバーは海外に住んで、滞在先の国に帰化している人も少なからず存在する。

ゴルバチョフの“ペレステロイカ”でのベルリンの壁の崩壊、天安門事件の発生に刺激されてか、自然発生的に生まれた法輪功の徹底的に弾圧が中国国内にその後、始まり、メンバーの逮捕、抑留、拷問、殺戮が始まったと云われている。

筆者は未だその真相や、現在進行中の政治的プロセシングを知るものではないが、林建良氏の「中国ガン」-台湾人医師の処方箋―を一読して、「法輪功」とは何かを、その、さわりの部分だけ紹介した次第である。(発行所:並木書房)

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戦後の初等教育のひずみを正せ!

“身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり。”(孝経)と古くから言い伝えられている如く、自分の体でも、怪我に注意、健康を保つことに努めることは、「孝行」の最低条件である、と我々は中学校のレベルで教えられたことを記憶している。

又、キリストの教えでは、自殺行為は犯罪であるとされ、決して行ってはならないとしている。

先日、大阪市立桜宮高校の男子生徒(17)が運動部の教師に目の敵のように恒常的と思えるような体罰を受け、たまらず、自殺に及んだ事件は、大阪の世論を揺るがして、遂に市長までが感情的になり、学校に対して「廃部」や「入試中止」を呼び掛けている。

戦後の教育にはバックボーンがなく、教育綱領なるものが間違っているように思える。

先ず、教師は生徒に「どんな苦しいことがあっても自殺をしてはいけない」ことを徹底的に教え込むべきだと筆者は考える。

自殺すれば何事も成就しないし、それは自損行為でしかないことを教えるべきであると思う。

今日(1/21)の新聞では、或る女子生徒が“私が死ねば在校生はすくわれるのでしょうか?”なる、誠に環礁的で、幼稚な電話を大阪市役所にかけたと云う、全くとんでもない感傷的な話を報じている。

この事件の対処方法は、①教育者に対して今後、如何なる「体罰」はご法度とする。②生徒は、どんな苦しいことがあっても「自殺」は考えてはならない。

自分で処理出来なければ、親兄弟、学校、又は第三者(警察他)に相談することを徹底して教育する。

アルジェリアでのテロ事件で、日本政府は「人命尊重」を叫びながら、何故、初等教育段階で人命を大切にすることを教えないのだろう?

兎に角、こんなことに市長が干渉することは最低の弁護士のするような行為だと思える。

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「毛沢東」思想」を否定した中国の将来

Photo_2 習近平主席

昨晩(1/29)NHK.BS1が22:00から放映した番組「毛沢東をめぐる大激論、格差への怒り爆発!二極化する中国」は自分の目を疑いたくなる程のリアルな番組であった。

主人公たちは勿論、地方の恵まれない環境に生活する老人連が、このままでは毛沢東時代のほうがはるかに平等であったし、生活も楽で、将来に不安がなかったと、声を荒げてわめきたてる場面が多く見られ、検閲なしに、どうしてこんな場面を取材できたのか疑いたくなる程であった。

1976年1月、周恩来が他界、同年の9月、毛沢東が死去し、華国鋒が政権を継承した。

華国鋒は時を待たずにその翌月、江青夫人ら、所謂「四人組」を逮捕して反逆罪で告訴、終局、江青を自殺に追いやった。

これは正に毛沢東の「文化大革命」を否定、首謀者達を裁判にかけたことで、その後の政治を正道に近づけようと試みたと筆者は解釈している。

胡錦涛前主席は昨年の11月8日に始まった中国共産党大会で、中国の建国の父の理念「毛沢東思想」を党の基約から外すと主張して、毛沢東思想を掲げて政府批判を進めていながら、重慶事件で失脚した薄熙来を抹殺、むしろ鄧小平のドクトリンを踏襲する経済政策を進めたが為に、貧富の格差がますます広がったことに住民が気勢をあげている様子を生々しく放映したのが昨夜のテレビ番組であった。

中国共産党の規約では、その理念として、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論などが羅列されているらしいが、1978年以降、政策が経済発展重視に傾き、農民や労働者による革命を重視する毛沢東思想がこれで実質否定されたことが明らかになった。

最近の傾向では、鄧小平理論が重視されたがため、貧富の差がますます広がるに及んで、下層の民衆が特権階級への不満を持つに至り、低所得層の間で昨晩のテレビで見られたようなシーンが、特に地方都市の住民間で展開されていると判断される。

薄熙来氏のスローガン「共同富裕」が庶民に受け、毛沢東崇拝が再度、起こりかけていることに中央政府(共産党)が恐怖を感じ始めているのが昨今の中国事情である。

昨晩の番組で、ある老人が、“彼らが毛沢東思想を否定するのなら、なぜ北京の天安門に上がっている毛主席の肖像画を下ろさないのか?”と叫んでいたことが特に印象的であった。

この辺に現在の中国政府のダブル・スタンダード政策が顕著に見られ、北京市のスモッグと併せて、これは隠しようのないスキャンダラスな、政治的矛盾と見える。

(北京オリンピックの開催中は、近辺の工場の操業と止めさせて、スモッグを見えない状態にしたが、今ではもと通りの危機的生活環境が隠し得ない状態に戻ってしまっている。)

尖閣諸島の問題に国民の視線を集めて、事態を抑え込もうと努力している中国共産党であるが、水不足、環境汚染、貧富の差問題等を是正せずに今後、国政を平穏に保てるかはかなり難しくなってきていることは確実である。

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「ヒスパニック・アメリカン」の将来

Photo メキシコ国旗

アメリカの昨年の国勢調査では、現在63%を占める白人人口が30年後には(2043)に過半数を割り込み、半世紀後には43%までになるに対し、中南米系(ヒスパニック/ラティノ)の割合が31%を占めるとの予想をしている。

ところが、ここで筆者が疑問視することは、1970年度の国勢調査の段階までメキシコ系、プエルトリコ系、キューバ系が、その他として区別されず、スペイン人の子孫として認められる場合、「白人」に含まれていた。

メキシコ系の中には、インディオ(原住民)系、スパニッシュ・メキシカンでは肌の色も風貌も全く異なり、chicano(チカノ)と呼ばれる種類は、メキシコ系アメリカ人として白人種に入れられる。

キューバ、プエルトリコ、西インド諸島の人種でも、全くのアフリカ系、アフリカ系と白人の混血(ムラトー)に分別され、後者の場合、肌の色(complexion

の度合いで白人の部類に包含される場合が多い。

メージャー・リーグの野球選手にも名前で判断して、西インド諸島系とわかるが、殆ど白黒のつけがたいプレーヤーも少なくない。

ヒスパニックと云う名称は、1930年代からメキシコ系アメリカ人の一部エリート間で、スペインの血筋・伝統と文化を表す表現として使用が頻繁になった。

ラテン系の人口が増えるに従って、80年代になり、上記の人種を代表する政治家、実業家が台頭、公民権運動、民族解放運動らの名を借りて、選挙の票固めに利用される傾向が強まった。

英語とスペイン語を駆使、教育の高い中産階級が、自らを積極的に自己のアイデンティティーとして“ヒスパニック”と自称する傾向が増えた。

それに対して、この現象を好まない立場を採る人達は(白人)、彼等をラティノスと云う軽蔑を含んだ名称で呼ぶことも多いことは事実だが、メキシコ系の人達は反対に、高圧的な態度をとるアメリカ人を“グリンゴ”(gringo)とやりかえす。

ラティノスの場合、明らかに南アメリカの何処かの人種とヨーロッパ系がミックスされた人種(混血)を指すのではないだろうか?

最近、黒人(ブラック)が勢いを得て、バラク・オバマが大統領を二期務める、アメリカ史上初めての現象が起きた。

従って、今後、「ヒスパニック」(ラティノス)系の大統領が出現することはそんなに遠い未来のことではないと思われる。

特に、メキシコ系住民が多く住む、カリフォルニア州では、ところによっては既に、小・中学校の授業がスペイン語の地区もあり、選挙人割り当て数の多い同州の大統領選挙に及ぼす影響が少なくない事を考えると、レテン系大統領の出現は確立大と思われると想像する。

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原子力利用の制御の考察

Photo ロンゲラップ環礁

アメリカは今から68年前、1945年8月、自国が戦争に勝利するため迂闊にも、新兵器と称する「原子爆弾」を広島に投下して多くの人命を奪った。

当時のアメリカ大統領は原子力に関する科学知識もなく、ただ戦争を早く終わらせようとして人類に対する大罪を犯した。

本日(1月19日)京都新聞「土曜評論」にNPO法人ピースデポ代表の湯浅一郎氏の「海の放射能汚染」に注目した。

東京電力福島第一原発事故から略2年になるが、湯浅氏によると“事故直後、大気へ放出された放射性物質の半分は海に降下した。そして原発事故史上はじめて放射能汚染が海へ直接漏出した。その後、原発からの放出は大きく減ったが、陸への降下物(雨、雪等?)河川や地下水を通して海へ運ばれ、海底に堆積した放射性物質が溶出して2次汚染源となっている。”

そこで問題となるのは、青森から銚子まで、南北500キロにわたり親潮と黒潮の交わる世界三大漁場の一つと呼ばれる地域に取り返しのつかないダメージをもたらし、アイナメ、メバル等海底近くに生息する魚たちに高濃度の汚染を及ぼし沿岸漁業と底引き網業は未だに操業を自粛を続けている状態だと云う。

その他、阿武隈川などの河川、東京湾、赤城大沼等の内湾・湖沼の生態系への影響も深刻だ。今後どのように、これらの放射性物質が黒潮の流れにのって東方へ移動することは、数か月前から福島沿岸からアメリカ西海岸に押し寄せているゴミの様子から明らかである。

そこで湯浅氏は“青森東通から茨城県の東海村まで「死の派」を溜めこんだ原発が南北に立ち並んでいることで、それが第一次産業軽視を象徴している”と日本の現状を批判している。

確かに湯浅氏が指摘するような現状をマスコミも政府も国民に伝えていないことは許せないことである。

一昨年の福島原発事故発生直後、この事故の性質を知り尽くしているアメリカは、何をさておいても、「トモダチ作戦」と称して、直接被災地ではなく、海上から大型空母と病院船を派遣した。

そこで、事情をまともに理解出来ていなかった我が国の民主党政権は、こともあろうにアメリカの専門家の説得に真剣に耳を貸さなかったと云われているが、果して本当だろうか?

広島、長崎の原爆投下以後、アメリカは1946年(翌年)元日本の信託統治領であったビキニ環礁を核実験場に選んだ。

1946年7月1日の戦後最初の核実験では、予定の爆心地を大きく外して失敗に終わったが、同月24日の第二実験では1600メートルの距離にあった日本の戦艦長門が実験の犠牲になった。

1954年3月1日、ビキニ環礁で行われた水爆実験は広島型爆弾約1000個相当の爆発力があったらしく、その結果、海底に約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが出来てしまったと云う。

1948年に実験場が隣のエニウエトク環礁に変更された後も入れて、アメリカは、58年までの12年間に16回、地上又は大気圏で核実験を行っている。その間、大小71隻の艦艇を標的に使用した。

54年3月の水爆実験では、マグロ漁船、第5福竜丸他、1000隻以上の船が死の灰を浴びて被ばく、さらに、そこから240キロも離れたロンゲラップ環礁にも大きな被害を及ぼした。

ビキニでの原爆実験ではアメリカは島民を強制的にロンゲリック環礁、更に、キリ島に移住させているが、こんなことは人道的に許されるとアメリカは考えたのだろうか?

これは、まるでアメリカ本土で、1830年以後に、先住民を強制的に西部(オクラホマ)地方に追いやったり、第二次戦争中、日本人を各地のキャンプに収容させたことと、殆ど変らない非人道的行動と非難されて当然と思われるものである。

アメリカは1951年から92年までにネヴァダ州の実験場で合計723回の爆発実験をした。その間、フランスは、ムルロア環礁(元フランス領)で原爆、水爆の実験を決行している。

中国はと云うと、これも自国領内ではなく新疆ウイグル地区を中心に、1964年から96年にかけて、地上、大気圏を含め約45回の実験を行った。

ロシアは約700回、フランス210回、イギリス45回、その他、インド、パキスタン、イスラエル北朝鮮等が、原爆実験の経験を持っている。

ビキニ環礁での実験から略60年が経過した現在、当地の放射能レヴェル自体は、短期間の滞在では問題が問われないところまで下がったと言われ、リゾートホテルも次第に絶ち始めているとのことである。

我々が東日本の原発事故の自然に与える今後の被害を真剣に憂慮することは当然であるが、戦後、以上述べたように、国連常任理事国中心により世界各地で、2000回以上も実施された核実験が将来、我々の生活にどの様な影響をもたらすのだろうか?

考え込むことしきり!

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パリ市の改革とジョルジュ・オスマン

靴磨きと云う職業が生まれた理由の一つに挙げられるのは19世紀のヨーロッパの都会が不潔で、少し歩けば泥だらけになり、そのままでは他人の家を訪問できなかったからだと云う。

特に19世紀の「花の街」パリの通りの状況は最悪だと云われている。

1846年、首都パリは、産業化と人口増加で100万都市となった。

そこで、臭気を撒き散らす煤煙と、どこもかしこもゴミの山であふれていた、貧民窟では特に不衛生状態で、しばしばコレラが発生していたらしい。

その時、大ナタを振るってパリの改革に乗り出したのがナポレオン3世であった。

その頃までのヨーロッパの都市では、歩行者が雨を避けられるように街路の面した家屋の屋根は道の上にかぶさり」、中央の排水溝に雨水が落ちるように建てられていた。

今では考えられないが、大都市の道路は敷石で舗装はされていたが、豚やその他の家畜が放し飼いにされていて、市民も日々に出るゴミや汚物を道に放り投げることが半ば習慣になっていた。

道路も各所で窪みが見られ、排水溝や窪みに溜まった、動物のフン、廃棄物、汚物が常に臭気を放ち不衛生な状態で放置されていた。の特命で、

1853年、ジョルジュ・オスマン(George Eugene Haussmann,1809-1891),

セーヌ県知事はナポレオン3(Napoleon lll,1808-1873)の特命でパリ市の改造に取り掛かることとなった。

「パリ改造」の主目的はパリの街に光と風を送り込むため、中心となるアヴェニューを拡幅して、道路網の整備計画から開始された。

このパリ改造こそ、ヨーロッパの近代都市計画・建築様式に新風を吹き込んだ格好のモデルとして歓迎された。

このころにスクラップ・アンド・ビルトと云う大胆な都市改装は突飛な計画であったと思われるが、国家が帝政下であった為に、「鶴の一声」で、計画地内の建物を強制的に取り壊し、同時に不衛生な状態のスラム街も併せて整理ができた。

オスマンの父親はナポレオン一世に仕え、帝国の財政を担当していたことで知られている。その関係でジョルジュも政界にも知られていて、1815年、ナポレオン失脚後に成立したブルボン家復古王政に反対の姿勢をつぬいていた金融、財界の後押しで仲介役を務める機会を得たと想像される。

その後の経過:

7月革命(1830年)でシャルル10世が失脚、亡命、その後、ルイ・フィリップが王位に就いた。ジョルジュ・オスマンは20代の若さで高位の官職を得る機会に恵まれ、1848年の2月革命で、ルイ・フィリップが失脚、亡命し、第二共和国となり、再びナポレオン一世の甥、ルイ・ナポレオンが、1852年、国民投票を経て、ナポレオン3世となった。

オスマンは第二共和政の頃よりルイ・ナポレオンを支持していたので1853年ルイがナポレオン3世を名乗って後、パリ市を含むセーヌ県知事に任命された。

オスマンはナポレオン3世の絶対的な後押しを得て、先ず市街中心部で交差する幹線道路網を徹底整備することから開始、陰気で不潔な狭い路地を撤去し、その後広い街並みが見事に整備された。

これは、関東大震災後、後藤新平が東京市で行った東京大改革にも共通するものがあったように筆者には見受けられる。

第二次大戦後、焼け野原同然となった名古屋市街は、道幅はさすがに広くなり、旧名古屋市の印象は無くなったが、パリ市のような格調の高さが見受けられないのは何故だろうか?

ルーブル宮やオペラ座を始め、凱旋門を中心にした“シャンゲリゼ”、格調ある公共の建築物も立ち並び、建物の高さが一定に規制されて、街路にはガス灯ゆらめくパリの都市景観が出現、その後、1867年(慶応4年)パリ万博が催されて我が国からも幕府と薩摩のサムライの代表を魅了した。

遊歩道、公園、広場及びパリ市周辺の多くの森も整備されて首都の美化も一段と進んだ。

その時、オスマンは運河を開削して水源から浄水を引き、以前の3倍の水量を確保した。

オスマンは回想録にこれらの大改造はひとえに「皇帝」の後押しなしでは到底不可能であったと記している。

しかし惜しまれるのは、この様な美徳を残しながら、ナポレオン3世は、その後、普仏戦争に敗れて自ら捕虜となり、マキシミリアンの後を襲ってメキシコに渡り非運の運命をたどる。

このことを考えるとき、ナポレオン3世は、ドイツのウイルヘルム2世と似たりよったりの19世紀を代表する「愚帝」と呼ばれても仕方ないと思わざるを得ない。

(参考資料:産経新聞「オピニオン」世界の遺風③)

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赤いナポレオン「ジョセフ酋長」

Chief_joseph_and_family_c1880

いわゆる19世紀、アメリカの“Frontier”にとって最後の戦いとなった相手はネス・パース族(Nez Perce)の「チーフ・ジョセフ」(Chief Joseph,1840-1904)であった。

北米の北西部のワロワ渓谷地方(現在のオレゴン州)に、ながく住んでいた部族で、ジョセフは二代目の大酋長として知られている。

彼の父親は同じくジョセフを名乗ったが、それは1838年、キリスト教の洗礼を受けた時から授かった名前であった。

それからでも判るように、ジョセフ一世は白人社会との長い信頼関係のもと、改宗してでも「相互の友好」を維持する覚悟で平和のうちに生き延びたいと願った当時では数少ない先住民であった。

厳しい父親の教えを守り、young Josephも平和主義者であった。1855年になり、ネス・パース族はアメリカ政府と単独専住地区の取り決めを行った。

(Treaty of 1855).

当時のワシントン・テリトリーのガヴァナーであった、アイザック・スティーブンスは特別の評議会で、ネス・パース酋長(父親)と、他の二部族の酋長、「共同」に対し、ワラワ渓谷を除く、770万エーカー(31,000平方キロ)の広大な土地を与える取り決めを行った。

それまでに度々苦い目に逢わされてきた父親は、息子のジョセフにこれ以上先祖の土地を売らないように忠告他界した。

1873年、近隣のブラック・ヒル地方に突然、噂が広が広がり、財宝を求めて多くの「金鉱探し」が押し寄せる事態が起こった。

ジョセフは早速、政府にかけ合い、今後如何なる事態になっても先祖からの土地、ワラワ渓谷に留まる権利を確保できるように懇請を重ねた。

1877年に至って、アメリカ政府はこれまでの条件を一変させて、ハワード将率いる軍隊を派遣、ジョセフ酋長に対し、現在の居住地を諦めてアイダホ地方に移るように要請した。

そこでジョセフは「白鳥」(white Bird)酋長「,鏡を見る男」(Looking Glass)酋長を代表して、ハワード将軍の前で、人間の平等を訴え、以下のようなスピーチを行った。”Great Spirit Chief gave one kind of men the right to tell another kind of men what they must do”(天の酋長は、一方が得た権利を他方にも授けるよう私に告げている!)

その翌日になりハワード将軍は如何なる事情があったとしても今後、30日以内にこの地を去らなければ「戦争」になることをジョセフ達に宣告した。

他のチーフテイン達が戦いをしろと叫ぶ中、ジョセフだけが「平和」を唱えたが、数名の若者がアメリカ軍兵士数名を殺害する事件が発生するに及んで、それ以上の問題を避けるため、ジョセフは逃避行を決心するに至った。

ネスパースの一行は最初「クロウ族」を頼ってモンタナ・テリトリーに行く計画を立てたが、クロウ族はこの申し出でを拒否したため、ジョセフは仕方なく、前年に国境を超えてカナダに逃げ込んだスウ族の酋長”Sitting Bull”を頼ってその後、1900キロに及ぶ逃避行を開始した。

それは現在のオレゴン州から始まり、ワシントン、アイダホ、モンタナ各州を通る実に長い旅であった。

その間、追跡に転じたアメリカ政府軍との度重なる戦闘に心魂を使い果たし、遂に1877105日、一切の行動を止めて降伏することとなった。

その時ジョセフが仇敵、ハワード将軍に告げた名セリフが記録されている:

それはtell General Howard I know his heart.(ハワード将軍よ私は貴方の心を知っている)から始まり、可なりの 長い文章であるが、その最後に”Hear me my chiefs! I’m tired; my heart is sick and sad. From where the Sun now stands, I will fight no more forever. (我が酋長たちに告ぐ!私は疲れた、心は病み、悲しみに満ちている。今、太陽が位置する時から私は永久に戦わない(ことを誓う)。

その後、このジョセフによる鉛筆書きの告白状を読んだ南北戦争のヒーロー、ウイリアム・テクムッシュ・シャーマン将軍は、新聞報道で、“彼こそは赤いナポレオンだ”(The red napoleon)と告げたと云われている。

その後、ジョセフ一行はカンサス州に連行され刑期を終え、又、オクラホマの保護区に移送され、そこで多くのネス・パース族は病気にかかり生命を絶った。

翌々年の1879年、ジョセフは首都にラサフォード・ヘイス大統領を訪ね、待遇の改善を訴えた。

1897年、ジョセフは、今度は、ユリシス・グラント大統領に対し、先住民の待遇改善と人間としての平等性を訴えている。

1903年にはテオドール・ルーズヴェルトに、西部における平和を説き、注意を喚起している。

“恥ずべき一世紀”(century of Dishonor,1881)の著者、ヘレン・ハント・ジャクソン(Helen Hunt Jackson,1830--1885)もジョセフと逢い、彼の人柄について特筆、称賛している。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

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「たかが瓦、されど瓦」

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仏教が朝鮮半島よりわが国に将来されて大規模な寺院が各所に建造されるが、先ず 百済から瓦博士が瓦の焼成技術を持ち込み、その後、蘇我氏によって飛鳥寺が建立されたと言われる。

崇峻天皇元年(588)がその時で、仏寺を中心に貴族階級の邸宅に国内の各所で瓦生産が始まった。

1936年(昭和7年)京都では市電西大路線敷設に伴い、組織的な最初の発掘調査が始まり、西大路今出川周辺で大量の瓦を含んだ地層が見つかった。

戦後周辺で集中的な発掘が始まり、1965年、瓦積み基壇と思われる場所、7475年に溝状遺構が発見され、77年には鳩室(いかるがむろ)と墨書された灰釉陶磁器が出土した。

1979年(昭和54年)になり「野寺」と墨書された土師器が出土したので、その周辺が太秦「広隆寺」と同じように古い歴史を持つ「北野廃寺」跡であったとする説が浮かび上がった。

京都市北野白梅町交差点周辺には山城地方最古と言われる「野寺」(常住寺)、嶺岡寺の名で平安時代初期の884年に焼失したとされる俗称「北野廃寺」のあった場所ではと思われるようになった。

現に、ここから飛鳥、奈良時代に焼成された蓮華模様の軒瓦(写真)が出土しているのでこの周辺に広隆寺と同じように古い仏教寺院が存在したという時代考証は正しいと思わざるを得ない。

本日(113日)の京都新聞市民版「遺物はささやく」では飛鳥時代にできた軒瓦は大略三つに分けられるとしている。

「花弁の先端に切込みを入れるタイプ」、「花弁の先端に珠文状の突起が見られるタイプ」、「花弁の中心に縦方向の稜線が入るタイプ」に判別されると云う。

この記事では、以下のような興味深い観察を行っている。

即ち、北野廃寺跡と思われる周辺で見つかった瓦のタイプは「飛鳥寺」の創建瓦と類似した「切込みを入れるタイプ」がその主流をなすのに対し、広隆寺(京都)、法隆寺(奈良)、四天王寺(大阪)等周辺では「花弁珠文のタイプ」が主流で、軒瓦の系譜が異なっていることを指摘、使われた軒瓦が「飛鳥寺」、北野廃寺」が蘇我氏系であるに対し、法隆寺、四天王寺、広隆寺等は上宮王家との関係が深い関係が想定されると指摘している。

昭和38年になり岩倉瓦窯(左京区岩倉幡枝)跡が見つかり、初期の頃の瓦窯が焼かれた場所が判明した。

たかが軒瓦の模様だが、地層の判定と並行して、瓦の形状、その模様から動かし難い時代考証の研究が可能になることを考えれば、これに勝る歴史研究の材料は少ないのではないかと思われる。

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京都で最古の銀貨「無紋銀銭」出土

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1月6日、京都新聞、市民版で「無紋銀銭」(写真)一枚が左京区小倉町別当町遺跡発掘現場で発見されたとのニュースが出ていた。

この種のものは「富本銭」や「和銅開珎」よりも古い日本最古の貨幣と認められている。

一説には「日本書紀」天武天皇11年(683)の項に記されている銀銭が無紋銀銭と考えられ、飛鳥時代には存在したと言われているらしい。

大津市の崇福寺跡から舎利容器とともに出土している例から祭祀用に使われたとも言われていたこともあった。

今回出土した銀銭には「高志」及び「T] と読める記号が、たがねで刻み込まれていて謎を読んでいる。

この種のものは今まで、奈良県、滋賀県、大阪府、三重県で発見された例があるが、京都府での発見はこれが最初とのこと。

この銀銭は直径3センチ、厚さ約2ミリ、中央に穴がある円形で、重さは9.5グラム、銀の含有量95%とのこと。(近畿圏で、これまでに約130枚出土)

グーグルのウイキペディアでは「無紋銀銭」を日本最古、「私鋳銀銭」を地金価値取引用に使用されたのではとしている。

今までの例では今回の様に「高志」、「伴」、「大」の文字が刻まれていることを認めている。

中には、表面に銀片を貼り付けた例があり、これは重さを揃える目的でなされたと思われることから、目的が「地金価値取引用」の可能性大だと思える。

日本書紀によると”今より以後、必ず銅銭を用いよ、銀銭を用いることなかれ”と云うくだりがあるとのこと。

中央の穴は、そこに紐を通して持ち運んだものだろう?

T」の印の意味は不明だが、恐らく、製作者のイニシャルではないだろうか?

兎に角、貴重な考古学的発見と評したい。

この「無紋銀銭」は112日まで、上京区の京都市考古資料館にて展示されている。

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