« 中国のアキレス筋となるか?「法輪功」 | トップページ | 放射線2題 »

豊臣家の寺「方広寺」の悲運

非運な大仏で知られる京都の方広寺、天正14年(1586)、豊臣秀吉の発願でその造営が始まったが、最初の予定では東福寺の近辺に予定されていて、その後、急遽、三十三間堂(蓮華法院)の東北の場所に変更された。

二年後の天正16年、秀吉は高野山の木喰応其を主任とし造営を始めた。その間、小田原攻めがあり、暫く、工事が中断、再び、三年後の天正19年(1591)に工事を再開、その完成を見たのは、文禄4年(1595)と伝えられている。

ここで歴史的に注目すべき事柄は、秀吉の嫡男、秀頼誕生が文禄2年(1593)8月3日で、秀吉はその翌年(文禄3年)伏見城を築城、同時に秀頼の実母、淀君の亡父、浅井長政を弔うため、蓮華法院(三十三間堂)の前に、養源院を建立、また、  その翌年の文禄4年7月、謀反の罪の名目で、甥の関白秀次を高野山に追いやって切腹を命じた。

秀吉が方広寺造営を思い立った天正14年(1586)から嫡男秀頼の誕生した文禄2年(1593)の7年間には、豊臣家には何ら不吉な事件は起こっていなかったが、秀頼を授かった時をさかいとして、天下人秀吉の身辺に単なる運命的符号だけでは済まされないような不吉なことが連続して起こっている。 

文禄4年、大徳寺の古渓宗陳を開山として、方広寺ここに完成した。

本尊は奈良の大仏より一回りも大きい蘆舍那仏(高さ19メートル)は銅製ではなく木造に漆箔が施されたものであった。

大仏開眼の供養は「千僧供養」と呼ばれた如く、一千人を超すあらゆる宗派の僧侶により執り行われ、食事の準備には東側の妙法院門跡の台所が使われたと伝えられている。

ところが、翌年の文禄5年7月13日の「慶長伏見地震」の際この寺は倒壊の憂き目に遭っている。

本尊が棄損したことで、秀吉は、夢のお告げと称して、信濃の善光寺から阿弥陀如来を、権力にものを云わせて取り寄せ、慶長2年(1597)7月、方広寺に遷座させたことが知られている。

その翌年、秀吉は病で床に伏すこととなり、これを善光寺如来の祟りとの噂が立ち、急遽信濃に戻されたが、秀吉は翌年の慶長3年8月他界した。

秀頼によって、その翌年に銅製の大仏が完成したが、慶長7年(1602)、関ヶ原の戦い後、火災が起こり、造営中の大仏と共に建物も焼け落ちた。

慶長13年(1608)より再興を開始、四年をかけて、慶長17年(1612)再び大仏は一様の完成を見て後、「梵鐘」が慶長19年(1614)に鋳造された。

豊臣家としては方広寺の完成に際し、新しい天下人の家康にその承認を得るべく報告を行ったところ、東福寺の文英清韓の作成した梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の文字が徳川家を冒涜する意味を持つと看做し、大仏の開眼供養の延期を命じ、それを理由に同年11月、所謂「大阪冬の陣」の開始となったと思われている。

その後、大仏は再度、寛永文2年(1662)地震で倒壊、大破、銅製の大仏は「寛永通宝」の材料として消費された。

ところが大仏は、5年後の寛文7年(1667)木造大仏として完成したが、3年後の寛政10年(1798)落雷による火災で焼失している。

問題の「国家安康」の梵鐘は度重なる災難にも耐えて、現存、東大寺及び知恩院のものと併せ、日本三大名鐘として重要文化財となっていることは喜ばしい。

方広寺の寺領は現在の京都博物館から、東は豊国神社までを占めていたが、その後、随分と縮小され、最も顕著な名残りは博物館の西北隅に見られる巨石の基礎址のみとなった。

以上、煩雑ながら「方広寺」の数奇な運命の考察を行ったが、地震、落雷によってこれまでの災難に遭遇したことが単なる奇遇の連続であったかどうかは誰にもわからない。

|

« 中国のアキレス筋となるか?「法輪功」 | トップページ | 放射線2題 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/304622/49079243

この記事へのトラックバック一覧です: 豊臣家の寺「方広寺」の悲運:

« 中国のアキレス筋となるか?「法輪功」 | トップページ | 放射線2題 »