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安祥寺・出雲寺・毘沙門堂の由来

Photo                  出雲寺跡地周辺地図

去る2月1日(金)の京都新聞に「洛東高生が新設、謎に一石」の見出しで山科にある、9世紀に創建されたが、明治時代の琵琶湖疏水工事で移転を強いられた安祥寺(下寺)の創建当時の在所を研究、その発表会を来る2月9日午前10時から同志社女子大の山田邦和教授の司会によって同校で発表するとの記事を見た。

京都は平安京の名で知られているため、9世紀以前の仏教寺院には縁がなかったように思う人が多いが、筆者が先日、このブログで記した「北野廃寺」のほかに10ヵ所を超す奈良時代からあったとされる古い寺院が存在していることが判る。

その筆頭と思われているのが太秦の広隆寺だが、樫原廃寺(長岡)、大宅廃寺(山科)法観寺(東山)珍皇寺(東山)出雲寺(上京)等に加えて安祥寺がある。

上記の寺院は、みな当時の豪族に関係する寺院で遷都後も、その存続が容認されて残っていたが、平安中期以降、それらの豪族の力が衰えるに従って信仰の場である寺院は、徐々に衰退してゆき、広隆寺及び法観寺のみが当時の姿を伝えているにすぎない。

昭和以降、土地の区画整備工事や舗装工事がなされるようになり、古代寺院の伽藍が発掘され、それと同時に出土した陶磁器や棟瓦に記された名称によって、古くは白鳳から9世紀頃の遺跡まで、これまで未知であった古代仏教遺跡の片鱗を伺い知れるようになった。

本日、筆者が取り上げる「出雲寺」はもと、上京区上御霊前通り烏丸東入ル、上御霊樫町・馬場町・相国寺門前町あたりにあったとされる古代寺院で、一説によれば延喜式七大官寺の一つ、御霊寺にあたる寺院と目されているところ。

北大路橋と葵橋の間にある加茂川にかかる橋の名称「出雲路橋」から、これまでは、この道が山陰の出雲に至るものからつけられた名前だと思っていた。

又、この道が上御霊神社に通じている鞍馬口にも近いことから何も疑問に思ったことはなかった次第。

付近から出土した瓦、上御霊神社で保管されている留品から、この寺院の創建時が奈良時代前期に迄遡ることから、この辺の豪族「出雲氏」の氏寺とも考えられている。しかし同寺は平安の後期には既に荒廃し、その様子は今昔物語にも記述があるとのことである。

前記の山科の安祥寺の遺構とされる場所(山科駅周辺と四宮あたり)が、その東に位置する「毘沙門堂」に近いことに着目して、出向いて毘沙門堂の「由来」から学んだのであるが、驚いたことに、鎌倉時代に完全に廃寺となっていた出雲寺だったのだが、江戸前期の慶長年間になって、天台宗で徳川家康と関係の深かった天海和尚が復興を果し、山科、安祥寺の一部の領地を授かり、天海の弟子、公海が寛文五年(1665)「毘沙門堂門跡」を創建したことを知った。

蛇足であるが、毘沙門堂は親王住持門跡寺院となり、何時の時代かは不明だが、風雅な住持がいて、昭和初期に行われた毘沙門堂入札会では、国宝の「青磁鳳凰耳花入れ」、「弘法大師筆金剛般若経解題の残決18行や、ボストン美術館所蔵「拙宗等楊筆、水墨画中布袋、花鳥三幅対」が当時話題を呼んだことで知られている。

筆者が京都に生を受けて幸福なのは、生きている限り尽きない「故事探訪」のできることである。

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