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アメリカ最初のオイル・ラッシュ

Img_0820 石油の噴出現場(1896年),

アメリカでは奇跡的な発見がしばしば見られたが、その最も有名なのが、西部カリフォルニアでの金鉱の発見が1848年に起こったことだが、その丁度、10年後の1858年、今度は、東部ペンシルヴァニア州、ティッツヴィル(Titusville,Pa)で石油の発見があり、今度は東部で一大ブームとなった。

太古の昔から地面に染み出てくる揮発性の黒い液体が発火性であることは知られていた。

19世紀になりペンシルヴァニアとニューヨーク両州の周辺で、地表に染み出て来る黒い油を多くの当時の化学者たちが、これを抽出し、ケロシン油として鯨油やローソク等にとって代わる「明かり」の原料材料が出現した。

しかし、その段階では地表に現れる油をすくい取り,使用する方法でしかなかった。

サムエル・マーティン・キアー(Samuel Martin Kier)が最初に原油を精製して、ランプ用油(ケロシン)を作る工場をピッツバーグにおいて始めた。

ペンシルヴァニア・ロック・オイル会社に働いていた、元機関士のエドウイン・ローレンス・ドレーク(Edwin L.Drake,1819~1880)が機関車の蒸気エンジンを利用を思いつき、地面を掘削する機械に改良したことにより、地表に堅固なプラットフォームを作り、上屋を建てて、3メートルのドリルをつなぎ合わせて直角に掘り下げる掘削法を考え出した。

最初は一日当たり1メートル程度しか掘れず、仕事が遅々として進まなかったが、ドリルが地下、20メートル以上に達した(1858年、8月21日)、それが岩層を貫き油が地表に噴出した。

期待していた以上の大量の油の出現に対し、それをどのようにして収集して容器に蓄えることは当初から考慮されていなかった為、最初ではバス・タブを使ったらしいが、余りにも大量に噴き出す油の容器としてワイン樽(バレル)が最も手っ取り早いものとして使われだした。

湧きだす石油を抽出し、それを無駄なく収容するために、鉄パイプの中にドリルを入れて掘削することで無駄なく石油の収納が可能になった。因みにこの方法は現在でも採用されている。

この時から、抽出された石油の入れ物にワイン酒の木製の樽(バレル=barrel)が使われ、その容量(42ガロン=約158.9リットル)が1バレルと呼ばれることとなった。

これを契機として、近辺の通称“オイル・クリーク”(Oil Creek)に大小の採掘用のヤグラが林立することとなった。

ドレイクの油井は一日当たり、平均25バレルを生産したと云われているが、1872年頃になると、周辺を合わせた収穫量は略日量15万9千バレルに達したと記録されている。

1848年の金鉱発見時には“エルドラド”(Eldorado)と呼ばれたが、1858年の石油ブームでは、これをペンシルヴァニアの“オイルドラド”(Oildorado)と呼ばれた。

この石油ブームで多くの百万長者が生まれることとなったが、ドレークは自分が考案した採掘法に関する特許申請をしなかった為、一攫千金のチャンスを失ったばかりか、その後、相場に手を染め、不幸な晩年を送る運命をたどった。

彼は1880年11月9日、61歳でこの世を去った。

1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊、ペリー提督が江戸湾沖に来航した目的は「捕鯨」であった。その後、5年後にアメリカにオイルドラドが始まり「鯨油」と「ローソク」の時代が終焉を迎えることになった。

参考書:The great oildorado by Hildegarde Dolson,ランドム・ハウス出版、1959年

    American History, “Oil Rashu”Oct.2012,pp.34

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