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鋼鉄より強い「人工クモ糸」の産品

Photo_2                      人工クモ糸のドレス公開

日本産業新聞、5月25日によると、「スパイバー」(山形県鶴岡市関山和秀社長)は24日、人工合成したクモ糸で作った繊維を量産化すると発表したとある。

大学発ベンチャーのこの会社、自動車部品メーカーの小島プレス工業(愛知県豊田市)と工場をもち、2013年中に月間100キロニューオルリーンズ糸を生産する。

実は蜘蛛の糸は、鋼鉄より4倍程強く、ナイロンよりも柔軟なことは予てより知られていて、「夢の糸」とされていた。

しかし、蜘蛛を使って蚕のように糸をつくることは、蜘蛛が縄張り争いや、共食いの習性を持つことから、今までその工業化は困難とされていた。

これは、単純な微生物にクモ糸のタンパク質が作れるよう合成した遺伝子をバクテリアに組み込んで培養し、タンパク質を生成することに成功と云う夢のような話。

この度、その紡績技術も確立、合成クモ糸の量産が開始される運びとなった。

クモ糸は高強度で、しかも伸縮性に優れているらしく、今後は自動車、医療業界など幅広い採用を見込まれているとのこと。

早くも、量産化にむけて、人工合成したクモ糸を使って青色のドレスを製品化、24日に東京の六本木ヒルスで発表された。(写真)

同社では月間100キロをサンプル出荷できる体制を整え、2015年には年間10トン迄生産規模を引き上げる計画。

関山社長は、「世界で初めての技術を立証でき、その工業化が視野に入った」と説明。

スパイバーは遺伝子や分子の配列を見なおしたクモ糸を独自で開発した製品。

今後は、タンパク質をつくれる微生物の培養効果を高め、人工クモ糸を紡ぎ繊維にするまでの量産技術を確立する計画。

低コスト化が進めば、自動車用部品、人工血管など幅広い利用が見込めるとのこと。

「スパイバー」は慶応義塾大学発のベンチャーで、2007年9月の設立。同大、先端生命科学研究所(鶴岡市)で学生         だった関山社長らがクモ糸に注目、それを新たなバイオ素材と位置付け、それの量産技術を研究、関連技術を含め、既に16件の特許出願済みとのことである。

これの確実な進展を希望してやまない。

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廃寺「内山永久寺」の扁額発見さる!

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安丸良夫著「神々の明治維新」(岩波新書103)によると、神仏分離や廃仏毀釈は、明治維新史上の奇妙で逸脱的な1エピソードに見えるが、それは狂信的人びとの独りよがりで、一時的にせよ、猛威を振るったとある。

その風潮も一時的で、結局、そうした独断ぶりは避けられ、その後、曲がりなりにも信教の自由は実現され、平静を取り戻したことが書かれているが、一体、このような暴挙とも云える活動が如何にして起こったのか?また、それを扇動した首謀者は誰だったかの詮索は成されていない。

”神々の明治維新”によると、神仏分離の布告が出されたのは慶応4313日、五箇条の誓文発布の前日であったとの事。それなれば、これは尊王攘夷思想とかなり関係があるように思えて来る。

天皇を神格化、そのことを前面に押したてたことで派生的に生じたのが神仏分離政策として現れたのではと推し量られる。

比叡山麓坂本の日吉山王社は、延暦寺の鎮守神で、江戸時代には山門を代表する三執行代の管理下にあった。ここへ武装した一隊が押しかけたのは、慶応441日の昼前のこと。彼らは神官出身の志士たちから成る神威隊50人、人足50人、宮司2o人、彼らは新政府の「ご趣意」と称して本殿の鍵を要求、その後破壊行為に移った。

これがそもそも、廃仏毀釈と云う通達を千載一隅の機会ととらえ、永年僧侶によって虐げられてきた神官のクーデターとも考えられる

その日、日吉神社を襲った一隊の指揮者は樹下茂国と云う人物で、岩倉具視にかなり深く関係がある日吉社の宮司であったことが判明している。

この事件を端緒として「廃仏毀釈」運動は野火の如く全国に広がったと見られる。

京都では八幡八幡宮、北野天満宮、祇園社等において破壊行為が行われ、奈良では興福寺に於いて大きな被害をだしている。

その興福寺大乗院の末寺と知られ、大和の国でも有数の大寺院であった、石上神社の南、山野辺の道沿いにあった内山永久寺はその頃最も甚大な被害をこうむった寺院として知られている。

太平記に依れば、この寺は建武3年(1336)、後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと伝えられ、天正13年(1585前後)には16の坊、院が存在、大和名所図会には池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔や鎮守社を含め、多くの院家、子院が立ち並ぶ寺であり、文禄4年(1595)には豊臣秀吉は当寺に975石の寺領を与えている。

内山永久寺は大和国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていた大寺で「西の日光」の名で知られていたと云われる。

筆者は先日、大阪市立美術館で開催されている「ボストン美術館秘宝展」を訪れた際、内山永久寺旧蔵とされる鎌倉時代の数点の仏画に遭遇した。

これは明らかに明治初期に来日した、アーネスト・フェノロッサ、ウイリアム・ベゲローにより持ち帰られた仏教美術品の一点で、内山永久寺の破壊で世に出たものであることが判った。

その他、当時「破壊」とともに巷に流出した寺宝の主たる物を列記すると:

国宝、両部大感得図、藤田美術館、重文、木造持国天、多聞天立像、東大寺、

重文、木造四天王像、東博、静嘉堂美、MOA美に分蔵、重文、不動明王、ハ童子像、新潟、中野忠太郎氏蔵、重文、真言ハ祖行状図、出光美蔵、重文、愛染明王坐像、東美蔵 と云った優れた作品を多く所蔵していたkとが判る。

毎日新聞、5月26日の報道では、この偉大な「廃寺」のものと思われる扁額が天理市の農家から発見されたと報じている。

奈良文化財研究所が調査した結果、これには「金剛乗院」の文字が認められ、その書体から、これが鎌倉時代の書家・藤原教家(のりいえ)の書で、宝冶元年(1247)に書かれ、同寺の真言堂に掲げられたものと結論つけた。

この記事にも指摘されている如く、鎌倉時代の扁額の発見は極めて珍しく、永久寺の更なる解明に留まらず、書道史の研究にも役立つ一級史料として重要である。

この扁額は縦:約84センチ、幅:約43センチの長方形で、寺の院号「金剛乗院」の文字が明記され、これは南北朝時代に編纂されたとされる「扁額集」に藤原教家が宝冶元年に揮毫したとの記載に合致する点も興味深い。

前述したように、鎌倉時代の扁額の存在は実に貴重で、さらに永久寺と云う名称に反して、廃寺になった同寺の印とも云うべき扁額が140年も経過した今日、忽然として発見された偶然に驚くほかない。

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2011年アメリカ国勢調査と人口分布

2011NYタイムス発行の年鑑(ALMANAC)によると、アメリカの人口傾向について以下のように報告している。(pp、285)

出産率は全国的に戦後のベイビーブームの終結した1965年頃より下降線を辿っている。アメリカの平均年齢はその頃より上がり続けていることは当然の事実である。

従って、18才以下の人口比率1970年の34.1%から2008年には24.3%に下がっている。

1950年の65才以上の人口が900万人(7%)は、2008年では3890万人で、総人口との比率は12.8%となって、アメリカでも高齢化社会が顕著になっていることが判る。

この数字は1958年の数字から332%、1900年から比較すると1000%上昇したことと警鐘を鳴らしている。

1990年には80才以上の人口、700万、85才以上が300万、100万人が90才以上で、100才以上が36000人であった。

この報告では2010年から2030年の間で65才以上の人口はベイビーブーム時の2倍となり、2030年には65才以上が7000万人に到達すると予測している。

アメリカで24才以下の人口を調べて見ると、1960年;80653000人、1990年;9091万人、2010年;12264万人で青年層人口は確実に増加している。

又、この年鑑の2050年の24才以下の人口は132552000人と予測しており、それを1960年と比較すると、60%以上の上昇となる。

従って、我が国におけるような少子化への危惧はアメリカには存在しないことが判る。

201                                                                            0年の人口調査では、アメリカの総人口は28100421906人であった。

その内訳;白人、21693975人(77.1%)、黒人、364194434 (12.9%),先住民族(インディアン)、4119434(1.5%),、アジア人、11898828(4.2%),ハワイアン他、太平洋州、 87万4414人(0.3%),ヒスパニック、35305818(12.5%)、その他、18521486(6.6%)

以上のように白人(と見なされる)人口は77.1%を占めていることが判るが、2030年頃にはヒスパニックの人口の比率が現在の2倍となると予想されている。

しかし、これも南北戦争後、法律の改正で白人人口が増えたように、この国では人口比率の調整は人工的に達成することは可能で、これからも白人人口を過半数に保つことには何らかの努力がなされることと思われる。

 

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世界に羽ばたく中小企業2例

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5月23日付、産経新聞、日本中小企業の「オンリーワン技術」でもって世界で勝負する会社を取り上げている。

其の一つが、“絶対に緩まないネジ”の「ハードロック工業」若林克彦社長の例は、神社の鳥居継ぎ目の楔(くさび)にヒントを得て開業したのが昭和48年。

以来、絶対に緩まない「ハード・ロック・ナット」を開発、東京スカイツリーや新幹線、明石海峡大橋などに使用された。

ハード・ロック・ナットは二つの部分に分け、一つが楔の役目を果たし、締め付けると、もう一方のナットとボルトの隙間にガッチリと食い込むように工夫され二度と緩まないもの。

海外の高速鉄道など、ネジが緩んではならない世界中の現場で、今や無くてはならない存在となっていると云われる。

「絶対」が約束されるネジは“韓国、中国などのメーカーからその類似品がでているが、ハードロック工業の製品の品質には遠く及ばない”と若林社長。

方や、太陽工業(大阪市淀川区)は、スタディアムの屋根膜など、大型テント(膜面構造物)で世界シェアーの7割を誇る会社。

来年6月開幕が待たれるサッカーのワールド・カップ(W杯)ブラジル大会でも既に主要8競技場の屋根膜製造や施行を受注し、サッカー日本代表より一足早く“W杯”出場を決めた。

(写真)

この実力を世界的なものにしたのは昭和45年の「大阪万博」。そこでは,幕面構造物の9割以上を手掛け、アメリカ館では、空気圧で屋根を浮かび上がらせる「エアードーム」で世界初の面積、約1万㎡を実現、その後、東京ドームや、世界最大の膜面構造物」「ノース・グリニッチ・アリーナ(ロンドン)などで実績を上げてきた。

その技術は自社が開発した解析ソフト、力学上無理のない合理的形状の種類と配置を設計して風、積雪にたいする強度を解析して高い耐久性と工期の短縮に成功した。

職人根性と独自で開発した特殊技術を発揮して今後、続々とこのような中小企業の勃興を期待したい。

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オクラホマとアンドリュー・ジャクソン

1830年9月7日アメリカ合衆国とチョクトー族の間で平和裏に条約が締結された。

この条約は“The Treaty of Dancing Rabbit Creek”と云う長い名前のもので、これはインディアンの地名の直訳でこのように呼ばれた。

第7代大統領、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson,1767~1845)はインディアンファイターの異名をとった武将タイプの人物で、最初、東南部の先住民クリーク族、セミノール族を死地に追いやったことで名をあげ、1815年にはイギリス海軍をニューオルリンズで打ち負かして、その武勲の結果、七人目のアメリカ大統領となった。

根っからのインディアン嫌いで、1803年に政府がフランスからルイジアナ領を購入した頃から、原住民をミシシッピー以西の原野に移動させ、ミシシッピー位東を白人のものとすることに熱意を費やした。

Dancing Rabbit Creek条約が発効したのは、1831年2月24日、それは原住民、チョクトー族(Choctaw Tribe)との間のインディアン移住条約(Indian Removal Act)に基くもので、この条約により現在のミシシッピー州にあったチョクトー国の領土、1100万エーカー(45000平方キロ)をアメリカに譲渡すると引き換えに、現在のオクラホマ州の土地、1500万エーカー(61000平方キロ)を得るとの条件になされた話し合いであった。

これにサインすることによって、チョクトー族は非白人最初のアメリカ国民とすると謳われていた。

南北戦争(1860~1865)以前に於いては、ミシシッピー川以西は未開の荒野と考えられて、アメリカ人にとっては無用と考えられていた。

実際のところ、これが白人と原住民との正式土地取引の最初で最後のものであったことが判る。

このインディアン移住法に従うことを拒んでいた、例えば、チェロキー族などは、1835年に発効したニューエコタ条約により強制的にオクラホマ地方に移動させられ、多くの悲劇を生んだ。(涙の道)

今のアイオワ、ミズーリ、カンサスとオクラホマ州などは、その頃では文字通り不毛の地で、いわば“地の果て”であった。

そこで白人は、現在のオクラホマ州を中心にした区域を“インディアン・テリトリー”と名付けて、原住民を一括、その地に隔離する意図で作られた法律であった。

ところで、どうだろう、1889年4月22日の正午を期して早い者勝ちの土地奪い合い合戦がオクラホマで始まった。

自作農法(Homestead Act)が成立(1862年)すると、入植者たちの土地解放の圧力に押されて、連邦政府はオクラホマ州中央部の190万エーカーの土地を原住民から400万ドルで買い取り、それを移住者に開放する事に決めた。

当日、1889年4月22日午前10時頃までにイヴェントが挙行された町、ガスリー(Guthrie)は土地を求める移住者で膨れあがった。

正午のラッパが鳴り響き、合図のピストルで騎馬隊が道をあけ、移住者たちは馬、馬車、幌馬車で全速力で走りだした。

公正を期するため、その日までは立ち入ることが禁じられていたとkろが、禁令を破ってすでに多くの不法闖入者(sooners)が入り込んでいた。

移住者たちは、我勝ちに希望した場所に杭打ちをして、町の土地登記所(claim office)で登録を済ませた。

ガスリーの町は一夜にして1500人の人口となり、オクラホマシティー(Oklahoma City)は1万人の人口の町となった。

それでオクラホマ州をスナーズ(sooners)と云うのは、“抜け駆けをする人”の意味、そこで、オクラホマのプロフットボール・チームの名“Oklahoma Sooners”と呼ばれている。

昨日(2013年5月21日)のニュースによると、オクラホマシティー周辺は未曾有の大竜巻に襲われたとのこと。

この場所に限らず、オクラホマ州周辺は荒漠とした土地で、毎年のように竜巻や干ばつに見舞われる全くの僻地、150年以前では到底、文化人の住める場所とは思われなかった。

このような地域を敢えて、インディアン居住区として割り当てたアメリカ政府の意図は、人道の見地から非難されてしかるべきだと考える。

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中国の行方?

Moutakutou 写真:習近平と毛沢東

521日 毎日新聞「胡耀邦氏旧宅を国宝指定」中国で今、胡耀邦の再評価の動きが進んでいることを知らせている。

胡耀邦とは、国民生活に対する党の支配を縮小させようと意図して、毛沢東の「秦の始皇帝」の政治を批判することを進めたとして党幹部からの顰蹙を買い、追放された人物。

しかし、元共産党総書記、胡耀邦は率先して文革中に殺された人達、投獄された人達の名誉回復を行った。さらに、1957年以来、右派分子の烙印を押され、賎民の扱いを受けていた人たち、その家族ら一千万人を解放した。

その頃、悲惨な運命にあった旧地主、旧富農と子息らの「地主、富農」の烙印も取り消した。

胡耀邦に続いて常総書記になった趙紫陽は市民に発言権を与えようとして、党長老から激しく反発され、これまた追放された。

これは不思議なことだが、その後、権力者となった江沢民、さらにその後継者、胡錦濤共に、毛沢東を賛美こそすれ、非難は全く行わなかった。

「新京報」は14日、胡錦濤前国家主席や習近平主席の父・習仲勲元副首相とともに撮影された胡耀邦の写真を掲載、胡氏の旧居を、国宝級に相当する全国重点文物保護単位に指定したと報じている。(写真)

これは何を意味するか?その推測は複雑だが、毛沢東を今更、表立って持ち上げることを憚りながら、習近平としては江沢民の意を汲んで、去る15日、上海市共産党委員会機関紙「解放日報」が述べる”胡耀邦が当時全力で改革・解放と現代化建設に全力を傾注した業績”を讃えるための行事と考えて間違いないと考える。

ここでも、習近平も正面向かって毛沢東を批判できない立場であることが判る。

毛沢東はまさに中国にとって消し去ることの出来ない「亡霊」となってしまった。

日本で云えば、国会議事堂のような存在「天安門」の正面に揚がっている毛沢東の肖像、国民が毎日利用している「元紙幣」に刷られている毛沢東だが、現実、国民の誰もが見たくもない「国のシンボル」は避けて通れない事実である。

毛沢東が推進した人民公社と文化大革命によって、どれほどの損失や犠牲がでたかは、ほとんどの国民の知るところである。

死者だけで最低5000万の人命が失われ、彼が集団化運動の過程で取り上げた農地ものが未だに国民の手に戻されないで、党幹部の意のままにされていることも国民は知っている。

このような毛沢東を今更賛美し続けることは得策でないと考えて、習近平が次のシンボル候補にあげようとしているのが胡耀邦なのかもしれない。

1989年、胡耀邦の死去を悼んで行われた追悼式が皮肉にも天安門事件に進展して世界にそのニュースが広がった。

それから24年が経過して、習近平政権は胡耀邦の功績をたたえて、胡氏の旧宅を国宝に指定したのである。

胡耀邦と毛沢東はお互いに相いれない人物なのだが、今年は毛沢東生誕120周年にあたり、習政権は毛沢東を持ちあげる盛大なイヴェントを計画中で、その日まで(12月26日)毛沢東の批判者として知られている改革派の経済学者芧孑軾(84)に関する記事を一切取り扱わないように通達したと報じられている。

一体全体この国はどっちの方向に向いているのかサッパリ判らないで理解に苦しむ。

毛沢東の死後、「文化大革命」は批判の対象となり、毛の第三夫人、江青以下数名のシンパが粛清された。

その後、改革開放政策が叫ばれて、この国が外に向かって発展に向かう兆しを見せたが、やはり、未だに毛沢東の呪縛から解放されていないことが明白になった。

今日、中国の経済は下降に向かいつつある。それに加えて、全国に広がりを見せつつある「鳥インフルエンザ」、多くの遺跡を犠牲にしてまで強硬に進めた「長江ダム」による各地の被害、そのためか、各地に頻発する地震等々、どれ一つとっても近代国家として自慢できるようなものは皆無。

Quo Vadis China!(中国よどちらえ行く!)と叫びたい。

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ジョージ・ソロス氏「中国金融危機」に言及

アメリカの著名な投資家、ジョージ・ソロス氏、先月、中国で開かれた経済フォーラムの席上、中国での影の銀行の急拡大の模様を分析して、「この現象は米国での低所得者向けのサブプライム・ローンの焦げ付き問題が、2008年のリーマンショックの引き金となった頃の模様と似ている」と表現。(京都新聞5月10日「アジア・リポート」)

この影の銀行の有力貸出先は、各省など地方政府がインフラ建設の費用捻出のためにつくったとされる「融資平台」と云う投資会社。

これは、リーマンショック後の契機対策の為に相次いで設立され、現在、全土で数千社あるとされる。

「融資平台」の借金総額は公表されていないが、現実地方政府の“隠れ借金”と云われる。

これは今では雪だるま式で、「借金を返すため、新たに債権を発行、ますます借金がかさんでいる自治体の融資平台もある」(中国金融筋)と云われる。

現在では地方政府の借金残高は20兆元(約320兆円)に達するとの指摘もあるとのこと。

「地方の借金は既に制御不能だ」とは北京大手会計事務所が最近、イギリスの新聞に、地方政府の資金調達に関する業務から手を引いた時の弁。

中国当局は銀行の健全な経営を図るため規制を強化してきたが、皮肉にもその結果、影の銀行の台頭を招いた。

このままでは金融システムへの信用が崩れかけないとして、欧米の格付け会社は今年4月に入り、中国国債などの評価を相次いで引き下げた。

国債通貨基金(IMF)もその報告書で中国の地方政府の財政状況に懸念を示し、中国に直接、対応の改善を促したと云われる。

ジョージ・ソロス氏は、アメリカの経験から考えて、この度の中国の危機回避に遅滞は許されず、国に与えられた時間は「2年以内」と断言している。

3月に始動したばかりの習近平指導部も充分このことを意識してか、4月17日、「地方政府の債務のリスクを有効に防ぎ、市場監督を強化せよ」と李克強首相の通達があったばかり。

対岸の火事と、我々ものんきに考えてはいられないのが大国中国の現状である。

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京都府、丹後国営農地で「京野菜」栽培計画

京都府と京丹後市が共同で「丹後国営農地」でブランド商品“京野菜”の大規模生産に取り掛かろうとしている。(京都新聞5月12日)

その名称は「丹後農業実践学舎」、農地の開発から30年、営農者の高齢化が進みこのままでは広大な荒れ地が残ってしまうと云う危機感から、目的を京野菜生産に集約して競争力を高めようと云う結論から生まれた。

開発の農地は、周辺50か所に散在する農地約512ヘクタールの府内最大の畑作農地。

造成は1983年から始まったが、最近では営農者の約7割が60歳を超え、このままでは耕作地の約300ヘクタールが後継者を失って荒れ地に成りかねないことに危機感を持つに至り、本年度から40歳以下の若手の専門家を学舎で養成することとなった。

京都府は89年度から野菜生産を開始、97年には府内で野菜が米の生産額を上まわった。

その勢いをかって、京都府は「京野菜」のブランド化に力を注ぎ、将来はこの地で専門知識をもった若者農業者の育成が必要と判断、研修生を募って、各人に2ヘクタールを割り当てて、府の技術職員から栽培、生産、流通や販路の開拓までのノウハウの指導を受けながら、2年間の講座を受けられる道を開くこととした。

研修生には年間150万円の給付金が支給され、必要な資金も年間60万円を無利子で融資するほか、各人に宿舎も用意されると云う好条件。

資格は、農業経験者で40歳未満、定員は10名。

申し込み締め切り:本年6月10日、問い合わせは京都府丹後農業研究所。

℡:0772-(65)2401:

日本の農業はこれまで農林議員の票田となり、政策自体が骨抜きにされ、それに加えてJAや農協の干渉でますます弱体化の一歩を突き進んできた感がある。

TPP協定参加を良い契機として、衛生的で安心、美味な生産物の個性ある日本産ブランドを世界的なものに支立て上げてほしいと願うものである。

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「空中権」活用商法

「空中権」を公共の資産として民間に売却、それを元手にして首都高速道路の改修に振り当てると云う苦肉の策が出てきた。

これは去る57日に行われた政府の経済財政諮問機関で太田昭宏国土交通相らが提案したものであるが、要するに、公共事業に如何に民間の資金を呼び込もうかと考えている安倍内閣の「智恵」である。

首都高の上の空間を利用する権利(空中権)を民間に売却して資金調達する方針だが、要するに、この工事に関心のある企業ならば工事の入札以前にクリアーしなければならない高いハードルになる可能性があり、結局、首都高の改修費用にはねかえってくる可能性大とも考えられる。

先ず、この対象になっているのが、都心環状線の東京・銀座付近で、半地下の構造になっている約1キロの区間。

確かに、東京駅・銀座間を1キロに亘って地下構造式になっている「場所」が生まれるのだから、道路幅がどの位かは不明だが、将来の不動産価値に興味を示さない企業は無いのではと考えられる。

既にこの手法はJR東京駅の復元工事にも試されたものらしく、甘利明経済再生担当相は記者会見で、「公的な土地や空中権を民間に譲渡して維持費をねん出する」と述べ、今後積極的に民間の資金をインフラ整備に活用する考えを示した。

“事業はその立地条次第”と云う考えには間違いはない。これは正に、1世紀も前に、小林一三氏が阪急電鉄を起こしたときから証明済みの商法である。

JR東京駅の場合は鉄道で、そこは多くの市民の集まる場所であり、「小林商法」も生きたが、今回は自動車道路なので、道路から車を誘導できる設備を備えた空間が是非必要になると考える。

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アメリカ最初の人工運河

250pxgreat_dismal_swamp_canal                                       Dismal Swamp Canal,N.carolina

アメリカ合衆国は東西に長く、南北に短い形をしているが、東にはアパラチアン山脈、西にロッキー山脈があり、その中間は荒野と草原と砂漠である。そのほぼ真ん中を北から南に流れるミッシシッピーに向かって大小無数に近い川が流れ込んでいる。

この多くの川の源は東西二大山脈及びカナダからもらう雨水と雪解け水である。これらの水源、水流を利用して文明は東から西に広がったと云える。

独立以前から、この国では数多の運河が造られ、それらを利用して人と物質の輸送が盛んになった。

初代大統領のジョージ・ワシントンが土木技師であったことは我が国ではあまり知られていないが、17635月、ワシントンは大ディスマル沼地(Great Dismal Swamp)を最初に訪れた際、ここから(South Mills,N.Carolina)地面を掘り下げて35キロ程を運河としてヴァージニア州のチェサピーク湾に流すことを提案、その後、12年の歳月を費やして、国の最初の運河が完成した。

1784年、運河会社が創立され、9年後にようやく工事が開始された。すべてが手作業で、岩盤を削って35キロを掘り進むことはさぞや大変な工事であったに違いない。

この工事に携わったのは勿論、黒人奴隷、周辺のオーナーから狩あつめられ、12年の歳月を経て完成した。(1803)

常識で考えて、この工事は恐らく一大難工事であり、完成までに、さぞや多くの犠牲者を生んだのではと想像するが、こんなことはアメリカ史の表面にはでてこない。又、ワシントンの没年は1799年なので完成した時には既にワシントンはこの世にはいなかった。

その後、運河はアメリカの至る所で造られるが、それらの運河を繋ぐために陸上輸送を円滑にするため、各地で有料道路(Turnpike)が造られた。

1803年のルイジアナ地方購入後、それまで、アパラチアン山脈以東に住んでいた人たちは西に向かって動き出した。

1812年戦争後、エリー湖とハドソン河を結ぶエリー運河が最初の公共プロジェクトによる運河として1825年に完成したことによって、東海岸周辺地帯ばかりでなく、オハイオから西の地方の繁栄に運河と有料道路のネットワークによるインフラは益々西に向かって延長された。

運河を利用した船による運搬は大量物資の輸送を可能にし、住宅や砦の建設に東部から大量の木材が運ばれた。

従って19世紀半ばの大陸横断鉄道の完成迄は運河及び河川による輸送はアメリカの発展に最も貢献した「インフラストラクチャー」であったと思われる。

※リフェレンス:

National Register Information System National park Service,2009

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チンチン電車と「先走り」

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京都遷都1100年を記念して「琵琶湖疏水」ができ、発電所が蹴上に竣工して、その結果、京都の町に全国に先駆けて「チンチン電車」が走りだした。

「京都電気鉄道」は明治28年(1895)開業で、その路線のルートは:

(1)伏見線=京都7条停車場から伏見まで(7キロ)、(2)木屋町線=7条から2条まで、(3)木屋町2条から南禅寺までの鴨東線の3路線からなり、それが最終的に7路線(21キロ)に迄延長され、後にそれを京都市が買収して「市電」となった。大正7年(1918)

京都新聞(5月9日)によると、最初の頃は、人命に被害が及ぶのを防ぐために、小学校を卒業したばかりの少年達を雇って、時速10キロの電車の前を大声で、「電車が来まっせ!、危のうおまっせ!」と叫びながら走って警告する電車告知人がいたと云う。

これを「先走り」と云ったそうだが、こんなことを知る人は今ではごく稀と思われる。

「電車告知人」はその頃、チンチン電車による相次ぐ人身事故や、脱線事故を受け開業から約半年後に導入された職業であったらしい。

昼間は赤旗をもって電車を先導、道の横断個所では歩行者を誘導し、夜間は赤提灯をもって全工程を電車と一緒に走ったと云う、聞いただけでもしんどくなるような過酷は職業である。

記事によると、尋常小学校を出ると多くのものは丁稚奉公に出され、働くことが当たり前だった頃、これの請負人が少しでも経費を安くするために子供を使ったと云われている。

現在なら「少年法」に抵触してできないだろうが、昔ではこれが当たり前であったと云われる。

これがよっぽど過酷な仕事と判っていたので、親が子供を叱る場合に「先走りをさせるぞ!」と云ったらしい。しかし、告知人が電車にひかれる事故がその後、度々起こったので明治37年(1904)に廃止となったらしい。

近代京都の建築等に興味を持つ、鳥越一朗氏(58)は、着流し姿で、近代文明の象徴的存在の電車の前を走る少年の姿の写真を発見、無償にいじらしく思ったので、忘れらている京都の歴史を知らしめるためて、小説「電車告知人」(ユニプラン)を2007年に出版した。

(写真は北野天満宮内を走るチンチン電車)5月9日版、京都新聞より複写。

興味のある方は京都府立総合資料館のホームページ「京都記憶ライブラッリー」参照。

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自民党の「農業強化策」について

第二次世界大戦直後に、小作農中心だったわが国の農業を自作農に切り替えるために実施された一連の政策が戦後の「農地改革」と呼ばれているもの。

連合軍最高司令部(GHQ)は何を思ったのか、戦前の地主制度が日本の軍国主義を生んだとして、日本経済の民主化(革命)と為に、農地改革が不可欠との思いで、1945年に幣原内閣をして2回にわたってGHQ指揮のもと強制的に農地の細分化が計られた。

それに依って地主の貸付地は1町歩までに制限され、それ以外の土地を政府が買い上げて小作農家に廉価で売りわたし、小作農⇒自作農への転換を果した。

この結果176万戸の地主から475万戸の農家が誕生し、小作農地は全体の10分の1に迄縮小した。

その時には、山林地主には規制が及ばず、細分化の被害から免れた。

その理由としては、天皇家の広大な「ご用林」を守る意味があったのではと考えられる。

今となっては手遅れだが、その時、山林の所有の規模にも制限を加えておけば、日本の広大な山林が現在のように放置状態になることを防げたのではと思う。

安倍政権はこの度、「農業の担い手の所得が10年で倍増する姿を目指す」ことを夏の参院選の選挙公約に掲げることを云いだしている。

その方法は、今後、農地の貸し借りを仲介することによって農家の経営規模の拡大を計る「管理組合」を新設する計画。

今度は「農地解放」ではなく「農地構造改革」を断行して、差し迫っているTPP協定参加に際して、理論的に反対派を説得しながら、耕作放棄地の減少に何らかの手を打ちたいと考えているらしい。

現在の稲作農家の平均農業所得は、耕作面積が平均1ヘクタール程度で約110万円にとどまるが、それが20ヘクタール規模になれば1000万円を超えるとのこと。

このままでは「規模拡大」はななかなか進まないが農作放棄地は年々広がり、今ではそれが滋賀県の面積に匹敵する程と云われている。

この「管理組合」創設の目的は農地の集約と耕作放棄地の解消にある。都道府県ごとの農地仲介機関は今でもあるが、売買を中心にしているうえに財政基盤が弱いために実績があがっていないらしい。

そこで今回安部政権が打ち出しているのが、都道府県ごとに農地の賃貸借を仲介する管理組織を新しくつくり、仲介希望農家から一旦借り受け、大規模の農地に整備して希望者に貸し付ける。

その費用は管理組織の負担として、個人に限らず、株式会社でも農業に参入できると云う構想。

この構想実現にあたって、数千億規模の財政資金を投入して基盤強化に努める今回の自民党構想には具体性が認められ、これまでのような戸別農地補償や、何もしないでも「減反制度」に従っていれば補償されると云う間違った農政を見直す取り組みとして評価したい。

都市近郊には、耕作もしないで、宅地への転用を考えて農地を抱え込んでいる農家も少なくない。

農地の集約によって少しでも農業の効率の向上を目指しながら各個人の増収に繋がる施策こそ大切である。 参考:「農業強化策」、5月6日付、毎日新聞社説

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タウンゼント・ハリスと日本外交のつまずき

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江戸末嘉永6年(1853)アメリカから東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦とともに浦賀沖に現れ、日本中が大変な騒ぎとなった。

このことは既にオランダからの通報で江戸幕府にはわかっていたが、何事に付け動きの遅かった幕府の役人には、まるで晴天の霹靂と映ったらしい。

63日に浦賀に着いたペリーは同月9日に久里浜に上陸、フィルモアー大統領の国書を官憲に手渡した。幸か不幸か、その時将軍家慶は病床にあり、ペリーは国書を手渡すと再度の来航を予告して一旦は引き上げた。

年号が改まった安政元年(1854116日、約束通りペリーは7隻の編成で再度来航、数度の交渉の後、「日米和親条約」が締結された。(512日)

この取り決めで今後、下田と函館の開港が決定した。

それから2年が経過した、安政3年(1856)、721日、アメリカ総領事、タウンゼント・ハリス(Townsend Harris,1804-1878)が軍艦「サン・ジェシント号」で,通訳兼書記のオランダ人、ヘンリー・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken,1832-1861)を伴って下田港に入り、「玉泉寺」を大使館と定め、居留を開始した。

これを知った幕府は慌てふためいた。何故ならば、二年前に結んだ条約では「両国政府の双方が必要と認めた場合のみ外交官を派遣できる」と解釈していたからである。

ところが、アメリカ側と取り交わした文書には「両国政府の内の一方の国が必要と認めたときは、外交官を派遣できる」と明記されていることを初めて知ったからであった。

この条約文書は、英語、オランダ語及び漢文体で明記されていた。

ここで、ハリスが何故、オランダ人、ヒュースケンを通訳として同行したのかがわかるというもの。

長い間、鎖国が続いて外交に不慣れな日本政府にとって、長い間、アメリカ先住民や欧州諸外国との間で、騙すか騙されるかの際どい外交に慣れていたアメリカには勝ち目はなかった。

これは2年前に交渉にあたった日本側の責任者、林緯の条約文の誤訳が問題であったことが明らかとなった。

そのことを確認の結果、幕府は仕方なくハリスの滞在を認めたが、それ以後もハリスとの交渉をできるだけ引き延ばそうと試みたが、その翌年1021日幕府は遂にハリスとの交渉に応じ、ここで将軍の家定・ハリスの会見が江戸城で行われた。

前述の通り、これは三カ国語で周到に明文化された条約文であったが、交渉の過程で日本側がペリーの気迫に押されて、日本文だけを相手側の希望通りに修正しながら真実を隠蔽していた結果、生まれた出来事だと云われている。

この辺に日本外交の伝統的な弱みがあり、その後の多国間交渉に於いても、度々条文での曖昧さによる失政が指摘されている所である。

ヘンリー・ヒュースケン(HENRY CONRAD JOANNES HEUSKEN/1832-1861)はオランダ系アメリカ人、志願してハリスの書記兼通訳として来日、ハリスの信任厚く、度々、ハリスに代わってイギリスやプロシャの対日交渉にも活躍した。明るい性格で大いに日本での生活を楽しんでいたが、攘夷派の武士に嫌われ、万延元年(1860125日暗殺された。幕府は責任をとり、ヒュースケンの母親に対して慰謝料として洋銀一万ドルを支払ったと伝えられている。

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日露首脳会談とその後の課題

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去る4月30日、モスクワで、プーチン大統領と安倍首相とが会見して「日露首脳会談」が執り行われた。

そこで意見の一致をみたのは、第二次大戦終結以来半世紀以上が過ぎ去ったが未だに日露間に平和条約が結ばれていないことが「異常」であることで両国の意見が一致したが、それ以外の懸案についてはこれまで通り何の進展もなかった。

テレビ放映中、プーチンの所作を見ていたが、あまり楽しそうではなく、むしろ一刻でも早く終わって欲しいような態度で終始していたのが印象的であった。

一方、安倍首相は実直にこれまでの変わりない日本政府の意見を繰り返すだけで、新鮮味に欠ける堅苦しい発言の連続であった。

印象的だったのは、プーチンの意見で、「北方四島」はソ連邦の戦果であって、今では歯舞、色丹にもロシア国民が住んでいる状態であるから、それらの我が国民の期待を裏切って領地を手渡すことは難しいとの発言である。

率直に言って、彼等の意見は、戦争の結果、領地が行ったり来たりすることは歴史の常識で、日露戦争で負けたことで、ロシアが南樺太を日本に譲り渡した後は、40年以上もその返還を日本に求めたことは無かった。

今度は、ソ連邦が勝利国になったことで、日本から千島列島の割譲が戦果として国際裁判所の判定と、ヤルタ会談での米ソ間の約定によって、ソ連邦の領土となったと云う論理によるものだある。

日本の場合「北方四島」が日本古来の領土であったことを理由として、アメリカが沖縄や、太平洋にある島々を日本に返還したのだから、ロシアも同じ論理に従って返還すべきだと云う主張には少し無理があるのではと思う。

最近では韓国が、島根県に長く属していた「竹島」を何の断りもなく占拠して韓国領にしてしまった事件に日本民主党は何らの抵抗もしなかった。

竹島こそ、どの角度から見ても我が領土であるべきであったのではないか?

筆者はこれまでに「千島」はアメリカが決めたソ連邦(スターリン首相)へのギフトで、もし我が国がこれについて異議を唱えるのならばむしろ、もっと早い時点でアメリカに問い合わせるべきであったとの意見であった。

現に、終戦以来、アメリカは一度たりとも「北方四島」に関して意見を発表した例がないことに思いを致せば、これが如何に「問答無用」の事柄であったことが判る。

日本では、政権が変わるたびに政治家がこの問題を取り上げることが慣習化されている、又、マスコミも常に同意見を貫き、異論を唱えたためしがないのは何故だろう?

今となっては、日本から「北方四島」を日露共同で平和的に活用することを提案することで、少なくとも世界有数の漁場の利用や、天然資源探査を提案することで穏便に両国の存続を考えるべきではないかと思考する。

少しでも速く日露平和条約を締結して、天然資源の確保とともに、日本からの先端技術の輸出で外資の獲得に励むことこそ安倍新政権のとるべき解決策と考える。

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