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タウンゼント・ハリスと日本外交のつまずき

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江戸末嘉永6年(1853)アメリカから東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦とともに浦賀沖に現れ、日本中が大変な騒ぎとなった。

このことは既にオランダからの通報で江戸幕府にはわかっていたが、何事に付け動きの遅かった幕府の役人には、まるで晴天の霹靂と映ったらしい。

63日に浦賀に着いたペリーは同月9日に久里浜に上陸、フィルモアー大統領の国書を官憲に手渡した。幸か不幸か、その時将軍家慶は病床にあり、ペリーは国書を手渡すと再度の来航を予告して一旦は引き上げた。

年号が改まった安政元年(1854116日、約束通りペリーは7隻の編成で再度来航、数度の交渉の後、「日米和親条約」が締結された。(512日)

この取り決めで今後、下田と函館の開港が決定した。

それから2年が経過した、安政3年(1856)、721日、アメリカ総領事、タウンゼント・ハリス(Townsend Harris,1804-1878)が軍艦「サン・ジェシント号」で,通訳兼書記のオランダ人、ヘンリー・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken,1832-1861)を伴って下田港に入り、「玉泉寺」を大使館と定め、居留を開始した。

これを知った幕府は慌てふためいた。何故ならば、二年前に結んだ条約では「両国政府の双方が必要と認めた場合のみ外交官を派遣できる」と解釈していたからである。

ところが、アメリカ側と取り交わした文書には「両国政府の内の一方の国が必要と認めたときは、外交官を派遣できる」と明記されていることを初めて知ったからであった。

この条約文書は、英語、オランダ語及び漢文体で明記されていた。

ここで、ハリスが何故、オランダ人、ヒュースケンを通訳として同行したのかがわかるというもの。

長い間、鎖国が続いて外交に不慣れな日本政府にとって、長い間、アメリカ先住民や欧州諸外国との間で、騙すか騙されるかの際どい外交に慣れていたアメリカには勝ち目はなかった。

これは2年前に交渉にあたった日本側の責任者、林緯の条約文の誤訳が問題であったことが明らかとなった。

そのことを確認の結果、幕府は仕方なくハリスの滞在を認めたが、それ以後もハリスとの交渉をできるだけ引き延ばそうと試みたが、その翌年1021日幕府は遂にハリスとの交渉に応じ、ここで将軍の家定・ハリスの会見が江戸城で行われた。

前述の通り、これは三カ国語で周到に明文化された条約文であったが、交渉の過程で日本側がペリーの気迫に押されて、日本文だけを相手側の希望通りに修正しながら真実を隠蔽していた結果、生まれた出来事だと云われている。

この辺に日本外交の伝統的な弱みがあり、その後の多国間交渉に於いても、度々条文での曖昧さによる失政が指摘されている所である。

ヘンリー・ヒュースケン(HENRY CONRAD JOANNES HEUSKEN/1832-1861)はオランダ系アメリカ人、志願してハリスの書記兼通訳として来日、ハリスの信任厚く、度々、ハリスに代わってイギリスやプロシャの対日交渉にも活躍した。明るい性格で大いに日本での生活を楽しんでいたが、攘夷派の武士に嫌われ、万延元年(1860125日暗殺された。幕府は責任をとり、ヒュースケンの母親に対して慰謝料として洋銀一万ドルを支払ったと伝えられている。

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