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19世紀の日本と世界

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アメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリーが日本を訪れた1853年(嘉永6年)は、アメリカにとって正に意気軒高な時代であった。

 

この年から8年前の1845年、テキサスをメキシコから収奪、その3年後メキシコと抗戦して戦勝、その後、カリフォルニアからオレゴンとを自国領地に編入、4年前の1849年にはカリフォルニアで金鉱が発見されて国中が浮かれ、好景気が期待されていた頃であった。

 

その頃の太平洋では、アメリカはロシアと捕鯨とアザラシの皮革獲得でしのぎを削っていた頃に当る。

従って、ペリーの訪日の本当の目的は、捕鯨船の中継基地と燃料補給地の獲得が主で、日本開国は表向きの口上であって、イギリスの清国侵略を横目で見ながら、ロシアの日本への接近に伴って、その先を越したい野望があったと考えられる。

 

その後、日本にとって幸運に働いた主な要因は、その頃からアメリカ国内で奴隷問題で国内世論が騒然となり、国外より国内問題を優先せざるを得なくなる問題が続出、その後、日本で云うところの関ヶ原の合戦に匹敵するような事件、「南北戦争」が始まって国が二分される事態が発生したことである。

 

それに加えて、アメリカでは1857年には経済的大不況となりその後、ペンシルヴァニアで初の石油ブーム、55年から60年にかけて大陸横断鉄道の建設ブームが訪れたこともあって、国内が大忙しであったことは確かな事実であった。

 

一方、日本国内では、幕末の政変を経て明治維新(1868年)に以降して、その間、小さな事件はあったものの国が外国の勢力に脅かされるような事態とはならなかった。(ペリーの訪問から15年後)

 

その一方ロシアと云えばトルコとの間で、クリミア戦争に巻き込まれ、それが火種となって欧州全土が戦争の渦中となった(ⅰ854-56年)。

 

其の中にあって、1855年にはロシアとの間で日露通好条約(下田条約)が結ばれ、そこでロシアの要求で樺太の帰属が話し合われ、その結果、樺太は間宮林蔵の発見以来、そこには一人のロシア人も生存せず、明らかに日本に帰属すべき領地でありながら、これが日露のいずれにも所属しない共有の地と定められた。

今から考えるとこれは明らかにロシアにとって有利な決着であって、我が国はその後、永い間、ロシアの為に苦渋をなめる破目に落ちてゆくこととなった。

 

欧米列強のアジアの殖民地化はその後、アフリカ大陸の分割とともに進められ、所謂「南北問題」が次第に広がって行った。

 

 

 

 

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