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モールス信号の発明者は元アメリカの有名画家

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サムエル モールスと言えば普通ならばモールス信号の発明者と考えるが、実はアメリカ美重史上に於いても有数の画家で、第2代大統領の肖像を描いたことだけをとっても、押しも押されもしない肖像画家として有名である。

 

同時に彼はモールス電信機の産みの親で、モールス符号に名を残したアメリカ人である。

彼はまた、奴隷制度の確立を支持し、反カトリックと反移民運動の支持者でもあった。

 

生まれはボストン、17914月17日、没年;187242日である。

カルヴィニスト派の信奉者で、エール大学に於いては、数学、宗教哲学、に加えて「馬の科学」を学んだと云われている。

 

学生の頃から「絵」に秀でていて、似顔絵を描いて生計を立てていたと言われている。

彼はエールを優秀な成績で卒業した。

 

当時の有名画家、ワシントン アルストンに見初められ、イギリス留学を共にした。イギリスでは3年間留学する予定であったが、到着の翌年に、早くもイギリス美術の殿堂「ローヤル アカデミー」の会員に認証されている。

 

モールスはイタリア、ルネサンスに興味を持ち、特に、16世紀の画家、ラファエルやミケランジェロに魅了されたと伝えられている。

 

帰国後、嘱望され、今度は、第5代大統領のジェームス モンローの肖像画を仕上げている。

 

1825年、モールスはニューヨーク市からの注文でアメリカ独立戦争に於いて、ジョージ ワシントンを助けた、フランスの軍人、ラファイエット(Marquis de Lafayette)の肖像を1000ドルの報酬で仕上げている。

 

絵画の仕事に打ち込んでいる時、彼の妻の危篤を知らされた。急いで帰宅したが死に目に間に合わなかったことを悔やんだ。

 

その事件をきっかけに、彼は絵描きの仕事を止め、連絡の迅速化を考えることに熱中、思考を重ねた結果、電波による通信方法の発明に至った。

これが結局、アメリカの技術革命の発端となった「モールス信号」として知られることになった事実は、今では世界中で知らない人はいない。

写真:サムエル・モールス自画像

 

 

 

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新木造耐震工法

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古い木造建物住人にとって確かな朗報を本日(1130日)の京都新聞で学んだ。

それは或る一部屋だけでも補強しておけば、阪神大震災クラスの震度7相当の震度(横揺れ)に耐えられることを京大防災研究所などのグループが29日、実験して証明した。(写真)

 

1970年代の旧耐震基準を想定した木造2階建て家屋で、1階6畳の一室に壁柱を設けた実物大模型を使用、ワイヤーで水平方向に引っ張って横揺れ状態を再現、補強がしていない模型とその、損害結果を比較したところ、補強していない部分は大きく傾いたが、「壁柱」を施した部分はその3割程度しか傾かず、建物を崩壊から支えたことを証明した。

 

去る10月、補強が施していない家屋模型に震度5強から6弱相当の力で建物を引いたが、建物は大きくゆがみ倒壊した。 “今回の実験では横揺れの力を「壁柱」が受け止めたのだろう。一部屋を補強するだけで建物全体の東海が防げることが判った“(防災研の川瀬博教授)

 

壁柱とは、角材をボルトなどで連結した分厚い板で、強い横揺れに耐える変形への強さが特徴と考えられる。

筋交いや、合板パネルに比べ価格の高さが課題だが、一部屋だけの補強なら80万円程度で施行可能とのこと。

 

わが国では、昔から一本の釘も使わずに、ノミとカンナとノコギリだけで組み立てる宮大工の技術を誇大に強調する傾向があったが、その点、最近の西洋式建築法では要所、要所に鉄材を使用して頑強な木造建築法が盛んである。

 

未だに「数寄屋建築」に拘り、母屋に不均衡な総ヒノキの門構えに拘る日本人は少なくないが、地震の多い島国に適した建築技術の研究こそ必要なのでは?

 

前の戦争で、空襲の被害から免れた古い家屋の多い京都では、「町屋」と呼ばれる古い民家が各所に散見される。

今後のことを考えて、そのような家には、喩え1部屋でも「壁柱」を施して未来の災害に備えることこそ必要と考える。

 

 

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運命の悪戯

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日本の開国を始めに成功させたのはアメリカのペリーであった。ペリーが日本にや、ってくることは、前年から、オランダの関係者からわかっていたが、実際に何時何処にくることは分からなかった。

 

司馬遼太郎の「ロシアについて」の一節に、ロシアのプチャーチンとの比較で、ペリーについて、傲慢と卑屈の塊のような人物と批判、東洋人相手の場合、恫喝と威嚇こそが有効と認識し、当時では日本との交渉は長崎経由がしきたりとされていたにもわらず、彼は直接、江戸に近い浦賀に突如姿を現し、黒煙をあげる蒸気船を伴って、西部劇のガンマンのように「上から見下ろす」姿勢で出現(嘉永663日、1853年)した。

その演出こそ、如何にもアメリカらしいと云わざるを得ない。

 

3日後には久里浜に上陸、フィルモアー大統領の国書を幕府の要人に手渡して、

”来春再び来る”と言って早々に引き上げて行った。その後のことは誰もが知る如く、日米和親条約は翌年の1月、ペリーの来航の際、調印された。

 

そのペリーの二度目の来航は1854年の1月(嘉永7年)であった。

その半年後の715日には、イギリス東インド艦隊司令官スターリングが軍艦4隻を率いて長崎に来航、ロシアとの開戦(クリミヤ戦争)の事実を伝え、同時にアメリカと同じように、日本の開国を迫り、和親条約の調印を終えた。

これは如何にも英米間の連携プレーの感は拭えない感じがする。

 

そこで問題はロシアの派遣したプチャーチン率いる使節団である。

プチャーチンはそれ以前より度々長崎に 来航して日本側と開国について交渉を重ね、幕府要人からも、もし外国との条約を締結する場合は、必ずやプチャーチンを最優先扱いにするとまで約束されていたにも拘らず幕府は、後からやって来たアメリカの恫喝に負けて、先をこされたのであった。

 

プチャーチンの乗る“ディアナ号”(Diana)はその年の718日にイギリス船を避けるように大阪湾の天保山沖に出没した。しかし幕府に下田に回航するように要請され、1015日、下田に入った。

 

ディアナ号が下田に来た半月後の114日、伊豆地方に大地震が発生、それに伴う大津波で船の後部が大破、致命的な大損傷を蒙った。

 

5日には、伊勢湾一帯に大地震があり、東海道の交通も途絶えたと云われている。

“これを運命の悪戯と云わないで何と呼ぶ”と云わざるを得ない。

 

年初に二度目の来航を果し、条約を結んで、意気揚々と引き揚げて行ったアメリカに比べ、その年に欧州で勃発した「クリミア戦争」でイギリス、フランス等を敵にまわしたことで、引け目を感じ、逃げ回った末、大津波に遭い、旗艦ディアナ号を諦めて、急造の木造船で帰国せねばならなかったロシアのプチャーチンの心境は如何なるものであっただろうか?

 

その年(嘉永7年)には御所、禁裏御門も炎上し、1127日、年号は「安政」と改元された。

 

宝永年間の1707年には富士山が噴火、関東、関西に地震、大津波が起こっている、嘉永7年の災害は、それより147年目に当る。

我が国に生きる我々にとっては、地震、台風、津波への予防措置は忘れることのできない事象と、常に覚悟が必要である。

 

 

 

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日露外交の変遷と対馬

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文久1314日(1861)ロシア軍艦が突如対馬に上陸、狼籍を働き島に留まって永く退去を拒んだ際、イギリス公使ラザフォード・オルコックはイギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を幕府に提案最終的に事なきを得た事件があった。

 

この際のロシア側の意図は明らかに極東での戦略的基地の獲得であった。イギリスは此の事件の解決で幕府に貸しを作ったように見えるが、英公使、オルコックは事件解決後、イギリス本国に「対馬の租借」を進言している。(イギリスは朝鮮半島南端の巨文島を1845年に占拠している。)

 

振り返って考えると、対馬がそのままロシアに占拠され続けていたならば、40年後の日露戦争の結果がどうなったかは誰でも予想できる。

 

日露関係では、1875年の交渉でロシアは樺太全土を日本は千島列島をそれぞれの国土とすることで決着が見られたが、ロシアはその頃、すでに国内の問題を抱えており、クリミア戦争での損害の填補に負われ、8年以前の1867年にはアメリカにアラスカ全土を売却、従って、東方進出の野望を諦めざるを得ない立場にあった。

 

先のブログでも述べたが、1855年の下田条約で、樺太を日露両国の共有としたにも関わらず、間宮林蔵によって発見され、当時すでに世界が日本に帰属すべき領土として半ば公認されていた「サハリン」を自国の領土に取り入れたロシア外交のしたたかさに驚かされるばかりである。

 

当時では蝦夷の地と呼ばれた北海道であるが、ロシアの国力が未だ衰えることなく続いていたならば、サハリン、北海道、千島列島こそ、対馬と同等に、ロシアの南下戦略上、最も注目されていた日本領土ではなかったかと考える。

 

対馬事件より実に2世紀半が経過した現在も、我が国は領土問題を抱えながら対峙が続いているが、「北方四島」もさることながら、「対馬」こそ極東で最も重要な戦略的拠点であることには変わりがない。

 

過ぎ去ったことを執拗に追いかけることも大切だが、将来の我が国の安全を考えるとき、対馬は決して他国に取られないように守って欲しいと考える。

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19世紀の日本と世界

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アメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリーが日本を訪れた1853年(嘉永6年)は、アメリカにとって正に意気軒高な時代であった。

 

この年から8年前の1845年、テキサスをメキシコから収奪、その3年後メキシコと抗戦して戦勝、その後、カリフォルニアからオレゴンとを自国領地に編入、4年前の1849年にはカリフォルニアで金鉱が発見されて国中が浮かれ、好景気が期待されていた頃であった。

 

その頃の太平洋では、アメリカはロシアと捕鯨とアザラシの皮革獲得でしのぎを削っていた頃に当る。

従って、ペリーの訪日の本当の目的は、捕鯨船の中継基地と燃料補給地の獲得が主で、日本開国は表向きの口上であって、イギリスの清国侵略を横目で見ながら、ロシアの日本への接近に伴って、その先を越したい野望があったと考えられる。

 

その後、日本にとって幸運に働いた主な要因は、その頃からアメリカ国内で奴隷問題で国内世論が騒然となり、国外より国内問題を優先せざるを得なくなる問題が続出、その後、日本で云うところの関ヶ原の合戦に匹敵するような事件、「南北戦争」が始まって国が二分される事態が発生したことである。

 

それに加えて、アメリカでは1857年には経済的大不況となりその後、ペンシルヴァニアで初の石油ブーム、55年から60年にかけて大陸横断鉄道の建設ブームが訪れたこともあって、国内が大忙しであったことは確かな事実であった。

 

一方、日本国内では、幕末の政変を経て明治維新(1868年)に以降して、その間、小さな事件はあったものの国が外国の勢力に脅かされるような事態とはならなかった。(ペリーの訪問から15年後)

 

その一方ロシアと云えばトルコとの間で、クリミア戦争に巻き込まれ、それが火種となって欧州全土が戦争の渦中となった(ⅰ854-56年)。

 

其の中にあって、1855年にはロシアとの間で日露通好条約(下田条約)が結ばれ、そこでロシアの要求で樺太の帰属が話し合われ、その結果、樺太は間宮林蔵の発見以来、そこには一人のロシア人も生存せず、明らかに日本に帰属すべき領地でありながら、これが日露のいずれにも所属しない共有の地と定められた。

今から考えるとこれは明らかにロシアにとって有利な決着であって、我が国はその後、永い間、ロシアの為に苦渋をなめる破目に落ちてゆくこととなった。

 

欧米列強のアジアの殖民地化はその後、アフリカ大陸の分割とともに進められ、所謂「南北問題」が次第に広がって行った。

 

 

 

 

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宇治川電気の由来

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明治23年琵琶湖疏水完成と殆ど同時に京都に於いて水力発電所が産声を上げた。

京都はそれで「チンチン電車」が市中を走り、間もなく全市民の家にもローソクに替わって電灯がつくように」なった。

間もなく、蹴上発電所の建設に尽力した高木文平を中心に、淀川に琵琶湖瀬田口より宇治川を経由淀川上流部に琵琶湖運河㈱らと共同で水力発電所の開設する機運が起きた。

これは内務省の指導を受け、明治39年4月になり建設許可が下された。

これが宇治川電気宇治発電所の発足となった。(明治39年10月25日)この資本金1250万円、当時としては巨大な規模であったと言われる。

初代社長には大阪商船出身の中橋徳五郎、就任技師、高木文平、大阪電灯社長の土井道夫、京都電灯社長の田中源太郎大倉喜八郎ら財界の大物が役員に名をつらねた」。

琵琶湖、瀬田近辺南郷から宇治川」最上流に琵琶湖の水を導き、62メートルの落差で発電する企画宇治川電気が設立され、その後、「宇治水力発電所」の建設が開始され、(明治41年12月)隧道と開渠からなる水路で下流の宇治郷地点まで導水した。

しかし、途中10キロに及ぶ隧道の掘削に手間取り、6年後の大正2年8月、ようやく竣工を迎えることができた。

出力は当時としては日本最大の規模の2万2千140キロワットを誇った。

この電力は京都電灯や大阪電灯に卸された。

この工事は途中に難所が多く工事が大幅に遅滞、その結果、建設費が当初の見込み額をはるかに超えた。従って、会社は明治45年に300万円、さらに、大正2年にも250万円の社債の発行を余儀なくされた。

宇治発電所は宇治川を挟んで、世界遺産の平等院」に面していて建設の初めから周辺の」景観に配慮して始まった。

例えば発電所前に盛り土がされ、平等院側からは事業所が見えないように工夫」がなされた。

今では関西配電に引き継がれていて、赤レンガの発電所建屋などは日本の近代化の遺産として保存」されている。

(写真は宇治川電気記念碑)

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「ジビエ」の推奨

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11月14日付、日経産業新聞の“キーマンガ結ぶ”欄に、「わかやまジビエプロモーション」のキャプションで、鳥獣肉流通整え消費促す、と書かれていた。

 

「ジビエ」とな何かと思って辞書を引くと、これはフランス語「gibier」(ジビエール)の事であると判った。

狩猟をして捕獲した野生の鳥獣のこととで、主としてフランス料理で使われる名称と知った。その範疇には肉種が貴重になり、飼育して食材に供される種類の肉も含まれるらしい。

 

日本では地方の狩猟会のメンバーが鉄砲で射止めた野生の動物、猪、鹿、キジ、等の種類を指す。

日本ではまだまだ一般的ではないが、和歌山県では“わかやまジビエ”の名称の認知度アップ、消費の拡大に取り組んで、少しずつではあるが、事業として広がりつつあると同誌は報じている。

 

地形的に山の多い紀伊半島では毎年、野生の鳥獣による自然破壊や農作物への被害が多く、2008年以来「ジビエ」事業に取り組み始めたのは必要に迫られたから始まった。

 

我が国では、特に奈良では、鹿が春日神社の神聖な獣として、堅くその殺戮が禁止されていたこともあってか、むやみに野生の鳥獣を殺して食する習慣には慣れていなかった。

 

ジビエのハンティングでは仕留めた獣は「血抜き」され、規則に従って解体、数日をかけて捕獲肉の熟成に考慮が必要と云われる。

山地では野生動物は厳しい冬に備えて栄養を蓄える習性があり、従って、その頃がジビエの旬と呼ばれている。

 

わが国では「マガモ」、「アヒル」、「ヤマウズラ」、「キジ」、「ライチョウ」「ヤマシギ」の様な鳥類、獣類では、「野ウサギ」、「シカ」、「イノシシ」等が代表的な種類である。

 

兎を一羽、二羽と呼ぶ慣習があるが、これは、恐らく、鶏肉であるとして食していた名残りだとされている。一般的に肉食が広まったのは明治時代以降と考えられているが、魚が貴重な処(山国)では栄養補給には野生動物は欠かせない食材なので、我が国ではマタギやシカリと呼ばれていた猟師たちがクマ、猪、キジなどを捕獲していたことは事実。

外国ではシカ肉をヴェニソン(venison),と呼んで、特にドイツ系の食材だが、筆者は一度、ニュージーランドで食べたが、鹿独特のにおいがあったことを覚えている。西洋では、子羊(ラム)やヤギなども広く食されている。

 

和歌山県では野生動物の被害を少なくする対策として、それらの捕獲を始めたが、その結果、肉の処分に困って農林畜産部畜産課に鳥獣肉の利用対策を検討するよう指示が下った。

 

「和歌山ならではのジビエを都会人にも食べてもらおう」と畜産課課長の小西英邦氏(55)は和歌山県のホテル協会にジビエを活かした新メニューの考案に協力を要請、その間に安全品質と安全供給が必要と、衛生面の基準を定めて処理施設の拡充と流通システムの整備に力を入れた。

 

老舗の和歌山市内の専門業者「いの屋」の社長、北浦順嗣(65)はこれに、いち早く賛同、これまでは小規模であったジビエを今後、「企業」に育成して、県内に広がる農作物の被害対策をも視野に入れ、一石二鳥のビジネスと大張りきりしている。

 

昨年には一般も参加した“レシピ・コンテスト”を開催した。2月の「」ジビエ・ウイークには県内の飲食店、宿泊施設53店舗が参加するまでにも成長、今年も大阪、東京で試食、商談会を開き、「肉質のレヴェルは高い」と云う認知を得たと云われる。

 

わが国では昔から「お上」の承認、奨励がなければ平民は新しい「業種」には慎重で事業にはなかなか発展する例は少なかった。

今回の場合もやはり「お上」の認可を得て始まっているが、この辺に未だ「士農工商」の悪弊は消えることなくつづいている。

 

美味で安全な食材なら勇気をもって始めるべきで、最近全国で起きている食材の偽装問題には、業者だけでなく我が国の消費者にも一端の責任があるように思えてならない。

 

先入観、(preconceived notion)が邪魔して、新しいものに手がでない習慣も我々には潜在する、これこそ、西洋人の冒険好き、と東洋人の保守思想の違いで、

特に、TPP協定を今後考える場合、食材に乏しい我が国の食料に対する姿勢を勇気をもって再考する余地があると信じる。

 

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ボーイング社の共同体構想

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ボーイング787が、昨年からの電気系統の不具合から生産を見合わす事態となり、その間、欧州連合のエアバスにとってかわれる危機を実感してか、「三菱」、「東レ」など航空機関連の国内大手8社と、東大を加え、機体製造の新工法を共同研究するための組織「CMI」が発足の機運を模索しているとニュースを本日(11/13)の日本経済産業新聞に見た。

 

ボーイング社のジョン・トレーシー最高技術責任者(CTO)を交えて12日、東大生産技術研究所で各社の航空部門のトップが集まったところで記者会見し、今後“生産コストで最大5割削減、納期も2-5割短縮”と云う画期的ヴィジョンを発表した。

 

しかし相手はお互いに国家機密のような他社に真似されたくない技術の固まりのような航空機、普段はライバル、取引先といった間柄の各社が「同床」する思惑はさまざま、果して「ボーイング連合」は羽ばたけるかどうか、が問題と同誌は指摘する。

 

しかし、欧州のエアバスも四カ国の連合体、やろうと思えば夢とは思えない。

最も多くを失うのはボーイングだとしても、「787」に35%程の技術提供をしている日本にも同じことが言える。

機械メーカーの他工作機械、工具、素材の国内大手8社が終結、製造技術の強化を図る取り組みである。

 

東大生産技術研究所の帯川利之教授は「各社が協力してゆくには或る程度の技術の開示が必要」

ボーイングのトレーシー氏は「CMI」は日本との関係を深めるためと発言していることが本心だと考えれば、これは日本にとっても参入に踏み切る良い機会、各社は或る程度の犠牲を支払ってでも取り組まなければならないのではと筆者も考えるところ。

 

しかし、記事を読み続けると「CMI」 は機体製造の新工法を共同で研究する機構、エンジン製造はこれには含まれない。

 

特許など知的財産権を敢えて設定しないで、参画企業の共有財産とするのが「CMI」の基本的な姿勢。

 

記事を読んで思うことは、如何にボーイング社と云えども、ここで連合を組まなければ、いずれ他からの追い上げに遭い困る事態になることを見越しての考えがにじみ出ているように感じた。

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諫早開門差し止め判決は事件

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民主党菅直人政権中、決定して、今年の12月21日午前0時開門となっていた(福岡県高裁判決)諫早湾干拓事業(長崎県)に今度は、長崎県地裁が開門差し止めの決定を下した。

 

国会で開門を決めたものを地方の地裁が反対決定をくだしたのであるから、これは事件である。

 

漁業者優先は困る、塩害で耕作が出来ないので我々は被害者だと云う農民の声に地元の裁判所が同意した。これは優柔不断の日本の政治の縮図を見ている感じである。

 

終戦直後、食糧難を理由に日本最大であった秋田県の八郎潟が埋め立てられ農地となり、以後、世界的に貴重な干潟が失われた。

この時は、先ず、国民の食糧の確保が全てに優先と思われていた時代であり、未だ占領下の頃であったと記憶する。

 

筆者の記憶では、園}後、島根県の宍道湖の一部が埋め立てられる噂があったが、良識ある人達の反対で沙汰やみとなってホット、胸をなでおろしたことを記憶している。

 

何はなんでも、米、米の時代は何時の間にか過ぎ去りそれからは、減反の時代となった。

筆者は民主党の下した「開門」決断は立派だったと思っていたのだが、又逆戻りする司法の判断に疑問を持たざるをえない。

 

有明海の諫早湾には自然のままの姿が残っていたが、昭和61年(1966年)農林省の判断で、2533億円をかけて湾の奥に潮受け堤防工事を開始、それが終了したのが平成20年3月に完成したのだから、43年を要した大工事だったことが判る。

 

半世紀近い時が流れ、時代はすっかり変わって国としては減反政策を推奨していた。

しかし43年の間閉ざされていた湿地地帯は、その頃既に乾いた不毛の地面むき出しの状態ではなかったかと筆者は考える。

 

政府としては2533億円の巨額な国民の税金を無駄にしたと云われたくないので、前後の見境なく開門に踏み切り、現在では、そこに農民の既得権益が出来上がっている。

 

完成して2年後の平成22年3月(2010年)、早くも福岡高裁の判決に基ずき、農水省は、堤防排水門を今年末の12月20日に開くと宣言(これは国家決定事項)していた。

 

この重要な国家の決定を昨日(11月12日)長崎地裁が反対の結論を下し、国の決定に反対姿勢を示した。

 

これは正に「事件」であり、今後は、共に優柔不断な、行政と司法の論争になること必定と考える。、

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消えた赤い手帳

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アイゼンハウアーに変わって大統領の職に就いたジョン・エフ・ケネディーは大統領としての二期目の途中、1963年11月22日テキサス州ダラスでオープンカーで市内をパレード中、白昼突然凶弾にあたってあえなく死亡した。間もなく首謀者としてオスワルドと云う人物が逮捕され、これで、この国家にとっての一大事件が簡単に終末となるかに見えたが、現実、大統領は一か所だけでなく、複数の角度から狙撃を受けているこtが判明したことで、この時点で、既にオスワルドの単独犯説がひっくり返った。

最初、ダラス警察は、この事件をオスワルドの単独行動と決めつけ、起訴して後、この事件の幕引きを図ったとも思われるが、今度は警察が、オスワルドを移送中、厳重警備の中にもかかわらず、キャバレー支配人、自称ルービーに、簡単にオスワルドは射殺されてしまった。

事件は複雑な様相となり、ウオーレン委員会なるものが結成され数年にわたって検証されたが、結局この事件は事実上迷宮入りとなった。

話題は変わるが、有名な映画女優のマリリン・モンローは大統領とその弟、司法長間を務めた弟、ロバート・ケネディーとも親密な関係にあったと言われている。

実際、ケネディー大統領の誕生日にマリリンは正式に招待され、彼女特有の声で"Happy Birthday Mr.President"と魅力を振りまきながら歌った。しかし、不思議なことにその場にはケネディー夫人はいなかった。

マリリンは1926年生まれだったから、存命ならば今年87歳いいオバーさんになっている筈。

初めは商業写真のカバーガールをしていたが、1947年(21)で早くも、押しも押されもしない、ハリウッド女優となっていた、

有名な腰を右左に振って歩く”モンロー・ウオーク”を披露した作品「ナイアガラ」で彼女の存在は顕著になった。

1954年、ニューヨーク・ヤンキーズのプレイヤー、ジョー・ディマジオと電撃て的な結婚をして来日、わが国でも野球と映画ファンを喜ばした。

夫のジョーが野球の仕事に忙しかった最中、マリリンは暇をもて遊んでいたが、そこえ軍部から、朝鮮戦争に派遣されている米軍兵士慰問の仕事を頼まれて、一つ返事で承諾、マリリンは兵隊の大歓迎を受けた様子が全世界に紹介されたこの様子は筆者も未だに記憶している。

これが夫のジョーの怒りを買い、二人の仲にヒビが入ったとのことであった。

マリリンはその後、54年にジョーと離婚、その後、56年ニヘンリー・ミラーと再婚している。

噂によると、マリリンはその頃から精神状態の不安定を訴えだして、睡眠薬の依存症になったのではと言われている。

5年後、マリリンはヘンリ^・ミラーとも離婚した。

題はその後であるが、ケネディー大統領の実の妹の夫、俳優のピーター・ローフォードのとりなしで、彼の近い友人であったフランク・シナトラ(歌手兼俳優)が大統領にマリリン・モンローを紹介した。その後、ジョン・F・ケネディー(大統領)とマリリンの仲が俄かに接近したと言われている。

モンローは時を同じくして大統領の弟のロバート・ケネディー司法長官ともねんごろになった。

これは、当時モンローの家政婦の証言にもよることなので、ただの噂以上のものがあると思われる。

フランク・シナトラは、マフィアのボスのサム・ジアンカーナーと親しい間柄だったといわれる。

丁度その頃、ケネディー政権がマフィア取締の強化を発表した。これは勿論、サムにとっては大事件と映ったに違いない。

彼女が何時頃から睡眠薬の依存症になったかは確かには判らないが、ヘンリ

ー・ミラーとの関係からか、それとも、彼と離婚した、1961年以後なのか?

そもそも、何が彼女を睡眠薬に頼らなければならないようにしたのか?

それはともかくとして、マリリン・モンローは1962年8月5日に単独で、自宅の寝室で死んでいるのを発見された。

これが、自殺か他殺かは判らないが、彼女の手には電話のj受話器が握られていた。

その後、調査が進むにつれて、生前からマリリンが肌身離さず大事に持っていた赤いメモ帳がなくなっていることが判明している。

筆者の想像だが、その頃の彼女の交際相手はおびただしく多く、込み入った事情にあったことは疑えない事だろう。

彼女がその頃の自分の行動を克明に、赤いメモ帳に記入していたとなれば、これを狙っていた第三者の仕業とも考えられる。

前述の通り、ケネディー大統領はテキサスで、その翌年の1963年11月22日の白昼何者かの凶弾によって暗殺され、未だに確実視できる犯人は検挙されていない。

その後、間もなく、弟のロバート・ケネディー司法長官も、何者かに、演説中の壇上で、狙撃されて死亡した。(司法長官=法務大臣)

あと、10日でケネディー暗殺から半世紀となるが、ケネディー大統領、ケネディー司法長官らに親しい間柄にあった、マリリン・モンローも果して誰かに殺害されたと考えられないことはないが、何分半世紀前の事件で、これらのアメリカにとって捨てがたい重大事件が闇の彼方のものとなる大国、アメリカとは如何に謎の多い不思議な国だと思わざるを得ない。

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光悦会のこと

12935284光悦寺

「光悦会」を御存じの一般人は比較的すくない。これの由来は、明治28年(1895年)。三井の大番頭であった益田孝が東京品川の御殿山で催した「大師会」に続いて、秀吉の醍醐の花見の豪華さを思い浮かべ、京都、鷹が峰の光悦寺で催そうと道具のお買手達が出入りの道具商に号令をかけたところ、東京、大阪、金沢、名古屋、岡山(五都美術倶楽部)の主だった商人達が智恵を絞って始めた、日本で最も格式の高いことで有名をはせる茶会が光悦会の始まりである。

 

筆者は詳しくは知らないが、世に伝わるとされる有名な光悦が記した手紙の日付が、慶長11年11月11日であるとされることから、毎年、京都の鷹が峰の光悦寺で、世に知られた有名茶人たちがお呼ばれにあずかり、道具商の選んだ茶道具を手にとって観賞できる「会」のことを指す。

 

毎年、11月11日から13日の三が日、京都は、愚か全国から、着飾ったお茶人が集まってくる。

重要なのは自分がその茶会に招待されたと云うことが名誉で、即ち“有名文化人”を自負できることで満足する「高級茶人」の集まりで、京都ではその間、美しい着物で着飾ったご夫人をあちこちで見受けることも京都ならではのことである。

 

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タスマニアー3

Dawn_2
昨日、タスマニアの美しい夕焼けシーンをご紹介したが、本日は、同じように雄大でミステリアスな日の出前(at dawn)の数分、東の空が明るくなり、太陽が下から雲を照らす一瞬、周囲の嶺はいまだ黒いシルエット状だが、太陽に輝いた雲の反射で、下を流れるヒューオン・リヴァーの川面をかすかではあるが明るく見せている。

このときは気温が5~10度の寒い朝であったことを記憶している。

イギリスがオーストラリアの統治を始めた19世紀初頭では、囚人の一団を船で運んで、まず着いたのがタスマニアであったったとされる。

オーストラリアは大陸のような大きなところで、当時では、クックが18世紀末に、ここの東海岸に就いたが、内陸の地形や全体の把握がなされておらず、いわばアフリカ大陸のように未知であったために、最初の上陸の場所にタスマニアを選んだことにはそんな理由があったと言われている。 昨日述べたように、ローンセストン(Launceston)に政府官庁を築き、次第に南に下って、ホバート(Hobart)の港の近くに囚人達を収容する場所(Port Arthur)が築かれたと聞いている。

最初の産業は”あざらし”、”鯨”」の捕獲であったらしい。しかし捕鯨をおこなうには大型漁船が必要になるので、初めの頃は専ら、seals huntingをタスマニアと大陸の中間にある「バス海峡」(Bass Strait)で行った。ここは世界でも有数の流れの速いところで、「船の墓場」として恐れられているところである。

今では、メルボルンから対岸のデヴェンポートに”Spirits of Tasmania"が定期的に就航している。

デヴェッボートから西北の景勝地、クレイドル・マウンテイン(Cradle Mountain)を訪れるのも良い選択だと考える。

19世紀にやってきた移民集団は、原住民、(アオボリジニー)達を思うがままに虐殺した結果、タスマニアには現在、アボリジニーはごく僅かしか生存していないのは、如何にも悲しいことである。

 

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南北戦争以前のアメリカ

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筆者の手元に1867年に出版になった学校の歴史教科書がある。それはリンカーン大統領が1865年4月14日の晩に、ワシントンのフォード劇場で暗殺され、その翌日の4月15日に副大統領、アンドリュー・ジョンソンが大統領職を引き継いだ場面で終わっている珍しい書籍であるので大事に保存している。。

この教科書を見ていると、当時のアメリカの教育の根本がどのようなものであったかがおのずから明白に判る。

例えばアメリカ先住民が如何に凶暴でコントロールが難しい人種であったかを白人の立場から子供たちに教育しようとしていたかが明白に理解できて、現代の歴史書の見解が、その後、どのどの様に変化したかが判る。

その時までに州として認められていたのは34州、カンサス州が最後で、1850年、南北戦争勃発の10年前に独立した州に認められた。

ウエストヴァージニア、ネヴァダ、ネブラスカなどは当時[準州」と呼ばれていた。1867年にロシアから購入した現在のアラスカ州は「イーストロシア」(East Russia)と呼ばれていた。

その中にあってカリフォルニアはアメリカ大陸の西端にありながら、18

50年に州として認められ、その同じ意味でオレゴンなども1845年に独立した州となっていたことに驚く。

アメリカが「フロンティアの終焉」を宣言したのは、遥か後の1890年であった。しかし、1849年にカリフォルニアで金塊が発見され、ポーク大統領が西北部でイギリスと領地紛争を起こし、多くの国民の領土に対する注目を集めたことも、これら2州が他の州より一足早く州として独立が認められた理由と考えられる。

テキサスの独立が同じく1845年だがこれは略10年前に起こった「アラモ砦」での紛争の結果、メキシコとの戦争が起こり、サムエル・ヒューストンがテキサスの独立を果たしたことで、アメリカへの編入が早まったと考える。

アメリカ人にとっておめでたいことは、アメリカがメキシコから1848年に、大金を払ってでも手に入れたカリフォルニアでその翌年、金鉱が見つかり国を挙げての大騒動が起こった。

トム・ソーヤの冒険を出版した有名作家、マーク・トウエーンまでもがそのブームに巻き込まれ、遠路カリフォルニアまで出向いた程でこの事件が如何にアメリカを揺り動かした程大変なものだったが判るというもの。

この事件を境として、アメリカでは西海岸への郵便配達が必要べからざるものとなり、ニュースをいち早く届けるために、大型ヨット”クリッパー船”、”ステージ・コーチ”、果ては、「ポニー・エクスプレス」による早馬での郵便配達等のサービスが盛んになった。

しかし、最終的には、大陸横断鉄道の完成、サミュエル・モールスによる電信技術の発達で、アメリカは近代国家の道を歩みだすこととなった。

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タスマニアの美しい夕焼け

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タスマニアの夕焼け程美しい自然現象はないと思う。これは空気が澄んでいるからで、アラスカもこれに負けない程美しい夕焼けが見られることがある。

タスマニアではユーカリを"Gum Tree"と呼ぶが、その由来は判らない。

ユーカリの森林が焼けているような錯覚をおこすような「夕焼け」は他に比類出来ない程強烈で、わずかに10分足らずであるが強烈な印象を受けたことを覚えている。

この島は起伏に富んでいて、高い山は北西地にかたまっていて、その中でも「クレイドルマウンテイン」(揺り籠の山)が最も有名で観光スポットNO.1である。

次号ではタスマニアの夜明け風景を紹介したい。

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ヒューオン河(タスマニア)、タスマニアリポート2

Huon_river2
無限に広がる、ヒューオン河の美しい、この景色を見た途端、魔法にかかったように心を動かされた。

”このスポットに住めないものだろうか?”と考え、冒険心をふるい起して、少し大きすぎることを知りながら買い求める結果となった。(写真の右側の岸辺)

写真の左岸は政府所有の島なので未来永劫決して変わることはない景色との不動産商の説明も私の心が動かす要因であった。

タスマニア島の大きさは、略、北海道に近く、緯度も、北と南を逆さにした場所、北海道の冬はタスマニアの夏と云うこと。時差躍2時間と云うのも心をひかれた原因の一つ。

首都のホバートに20年前に20センチの大雪(?)があったとの新聞記事がt写真入りで報じているほど、温暖な場所と判って余計に魅了されたのが私の愚かな事件の端緒であった。(前号参照)

この河を写真の示す方向に進むと、タスマニア南端の太平洋に出られる。従って、モーターボートが自動車替わりにもなる。

海釣りは国をあげてのレジャーで、自宅の前庭の岸辺にボート用のJetty(船着き場)を持つことが一種のステータス・シンボルと知った。

これの許可の収得には場所制限が厳しく、河の曲がり角のような場所では、これをもらえないこととなっている。

幸い、この場所が100メートル以上直線の岸であったので比較的安易に許可がもらえた。

上げ潮は毎日、早朝、その場合、外海から昇ってくる海流で目を覚まされる、何時も激しく上下を繰り返す河も私には珍しく映った。

現在はタスマニアと呼ばれ、この島だけで一つの州となっているが100年以上以前では、発見者の名をとって、Vandieman's ]Land,(ヴァンディーマンス ランド)と呼ばれていた。

19世紀の初頭からイギリス本国から、白人の軽犯罪人の男女がここに連れられてきた流刑地となり、島の一角には以前使われていた刑務所が廃墟のような姿で残っていて、有名な観光地となっている。

農産物ではリンゴ、マンゴ、ブルーベリーが代表的で、タスマニア牛も同じように有名である。海産物は豊富で、日本でとれる種類に近い。

島は起伏に富み、いたるところに大小の滝が見られ常緑樹のユーカリ他、一年を通して緑に満ちている。

面白いことにこの島には落葉樹(deciduous specy)がもともとなく、,紅葉や銀杏のようなものは後日、本国や異国から持ち込まれた種類だと知らされ驚いた。

ここで味わった大きで立派なアワビ、ロブスター、牡蠣、ウニ、キング・サーモンは忘れることのできない美味であった。

島北部にある第二の大都市、ローンセスターで大儲けして富豪になったことで知られる日本人に巡り合った(残念にもお名前を放念)。

彼がどうして富豪になったかと言えば、日本車の部品の輸入だといわれている。

誰でも御存じの通り、日本には悪名高い車検制度があり、5年も使った車は、そのまま使うより、新しく替える方が得策と思われている。

その悪法を利用して、日本から中古車を輸入して、殆ど新車と変わらない優秀な日本の自動車部品を、自動車取得税や車検を取る必要のない買い手を相手に金儲けをして成功したと知って驚いた。

ここでの大型観光バスの大半は日本からの中古で、建設重機等も多くみられる。特にトラックなどは日本の名前を付けたままで走っているのもみた。

ここで最も恐れられている爬虫類は「タイガースネーク」、体長は大きいものなら3メートルもあり、猛毒と言われている。

しかし、世界で最も知られている「タスマニア・デヴィル」は夜行性で、臆病なため見かける」ことなく、人間にとっては恐れることは皆無に近い。

道路の通行は宗主国イギリスと同じく、左側通行なので、旅行されるお方は運転免許携行をお勧めしたい。


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何時までも忘れられない人の真心

世紀を越えて昔(1917年)、ロシア革命の混乱期、極東にまで逃げ、行き先を失って悲惨な状態にあったロシアの子供たち、3歳から15歳、約800人、「陽明丸」の船長がウラジオストックで彼らを救いあげ、1920年(大正9年)、室蘭から太平洋、大西洋を横断後、フィンランドに到着後子供たちを手渡し(官憲か民間人かは不明)、結果、子供たちは無事にそれぞれの親の元に帰ることができた。

これを知ったオリガモルキナさん(59)、自分の祖父母が陽明丸上でお互いに知り合ったことが判り心底から感銘を受けたという。

これは自分の存在に関係した事だと知ってからは、僅かな手掛かりでも利用、ロシアの公文書館などで、その手掛かりについて調べていたところ、2009年にサンクトペテロベルクで個展を開催していた金沢市の書家、北室南苑氏に巡り合う機会から、その後の北室氏の手助けで、当時、陽明丸の船長が岡山県笠岡市出身の故人、茅原基冶サンであったことが判った。

モルキナさん”必ずしも良好な関係になかった日本と云う国とロシアが今後ますます親交を深めるべき”と感謝の意を表明している。

19世紀以前に於いては、アメリカの日本近海で遭難した捕鯨船、漁船にその頃の幕府は冷たい仕打ちを受けたが、我々は文政10年(1827年)洋上を漂っていた日本の少年、後のジョン万次郎を助けて、アメリカに連れ帰り、教育を受けさせたことを、アメリカ人のヒューマニティーの真髄のように言いふらしているが、日本人のヒューマニティーも負けず劣らずみさげたものではない。

特に明治23年(1890年)、和歌山県串本で遭難したトルコ(オスマン帝国)の軍艦エルテュールル号の乗船員を日本の漁民たちが献身的に救助に協力したことが縁となり、その後日本とトルコの関係が親密になった事実、第二次大戦中、リトアニアに赴任していた杉原千畝領事がナチスによる逮捕寸前にあった、およそ6000人のユダヤ人にビザを自分の判断で発給したことで、当時命をつなぐことができたユダヤ人から「日本のシンドラー」と呼ばれ未だに語り継がれている。

自分の祖父母を助けた日本の船長、茅原基冶氏の献身的な善行を知ることになった、オリガ・モルキナさん、今後は日露の交流に尽くすことを自分に誓ったとの美しい人間愛こそ誰の心をも打つ美しい話題だと思い、つたないブログながらお伝えすることに喜びを感ずる次第である。

11月7日京都新聞「時のひと」から抽出、写真の掲載に失敗したことが残念だがご興味のある方、新聞記事をご覧ください。

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タスマニアに住んで

Photo_2タスマニアでのかっての住み家

ほぼ10年前、筆者はタスマニアに移り住んだ、その頃の条件は誰でも10万オーストラリアドル(当時では約750万円)を所持、規定以上の大きさの土地を購入、3年以内に規格以上の住居を建てれば永住できるとの事であったので、時差も少なく気候も反対なので1年発起して、それに挑戦を試みた。

土地の大工とねんごろになって、力を合わせて川辺に写真にある木造が出来上がった。場所は首都ホバートから南に車で半時間のヒューオンヴィル(Houonville)と云う田舎町。

土地の面積約1エーカー(1250坪)、前にはヒューオン河(幅約50メートル)対岸の島は国有地でとても美しくてのどかな場所であった。

不動産家からもらった図面を見れば、真ん中に点線が見られたので、聞いてみると、これは以前には、二つの地所を一つにしたものと判った。

土地が大きすぎると思ったので、弁護士に依頼して、再びそれを分割して、それぞれの地所の岸辺にモーターボート用の簡易船着き場(jetty)の設置許可を申請して、許可をもらった。(これが後に幸いした)

出来上がって、ホットしていたころ、突然、ロンンドンで同時多発テロが発生した。

オーストラリア政府は宗主国の事件に驚き、居住外国人ステータスの見直しを始め、私の場合も、すむのら離婚証明書の提出、その後、家族には族と同等権利は与えないと云う厳しいものであった。

これは私にとって青天の霹靂、地方政府に連絡して、条件交渉を行ったが駄目だと判った。

それは私が東洋人で、有色人種であったからであることがその理由。あまり悔しいので、これは貴国の法律に遵守して「要件」を満たしたもので、間違っているのは政府にあると、堂々と弁護士を通して挑戦した結果、国はさすがに彼らの非を認め、建築後3年は売れないものを、何時でも売却しても良いと許可され早速、売却を不動産屋に申し込んだところ、不思議にも2週間足らずで、購入価格の1.5倍に売れた。

それは、前年にオーストラリア本土が大干ばつに逢い、多くの農家が廃業を決めて、大挙してタスマニアに移住してきたためであった。

ヒューオンヴィルは30分で外海に通じていて、魚釣りの好きな連中がjetty設置許可の土地を欲しがったためだった。

タスマニアは雨に恵まれ、年中緑がいっぱい。気候は、緯度は北海道の裏返しの場所だが、殆ど雪も降らない比較的のどかな場所。

空気は世界一きれいで、雨水ででも生活できるところである。最初はなんと美しいところだと思っていたが、法律を調べて判った結果、ここは世界中で名高い白人専横のところと判明した。(白豪主義発祥地)

しかし、旅をするのならこの島ほど変化に富んでいて面白く、牛肉と海鮮魚や、うに、ハマグリ、アバロニが楽しめるとkろであることをお知らせ」して、「タスマニア通信No1]の終わりとしたい。


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