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日露外交の変遷と対馬

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文久1314日(1861)ロシア軍艦が突如対馬に上陸、狼籍を働き島に留まって永く退去を拒んだ際、イギリス公使ラザフォード・オルコックはイギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を幕府に提案最終的に事なきを得た事件があった。

 

この際のロシア側の意図は明らかに極東での戦略的基地の獲得であった。イギリスは此の事件の解決で幕府に貸しを作ったように見えるが、英公使、オルコックは事件解決後、イギリス本国に「対馬の租借」を進言している。(イギリスは朝鮮半島南端の巨文島を1845年に占拠している。)

 

振り返って考えると、対馬がそのままロシアに占拠され続けていたならば、40年後の日露戦争の結果がどうなったかは誰でも予想できる。

 

日露関係では、1875年の交渉でロシアは樺太全土を日本は千島列島をそれぞれの国土とすることで決着が見られたが、ロシアはその頃、すでに国内の問題を抱えており、クリミア戦争での損害の填補に負われ、8年以前の1867年にはアメリカにアラスカ全土を売却、従って、東方進出の野望を諦めざるを得ない立場にあった。

 

先のブログでも述べたが、1855年の下田条約で、樺太を日露両国の共有としたにも関わらず、間宮林蔵によって発見され、当時すでに世界が日本に帰属すべき領土として半ば公認されていた「サハリン」を自国の領土に取り入れたロシア外交のしたたかさに驚かされるばかりである。

 

当時では蝦夷の地と呼ばれた北海道であるが、ロシアの国力が未だ衰えることなく続いていたならば、サハリン、北海道、千島列島こそ、対馬と同等に、ロシアの南下戦略上、最も注目されていた日本領土ではなかったかと考える。

 

対馬事件より実に2世紀半が経過した現在も、我が国は領土問題を抱えながら対峙が続いているが、「北方四島」もさることながら、「対馬」こそ極東で最も重要な戦略的拠点であることには変わりがない。

 

過ぎ去ったことを執拗に追いかけることも大切だが、将来の我が国の安全を考えるとき、対馬は決して他国に取られないように守って欲しいと考える。

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