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運命の悪戯

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日本の開国を始めに成功させたのはアメリカのペリーであった。ペリーが日本にや、ってくることは、前年から、オランダの関係者からわかっていたが、実際に何時何処にくることは分からなかった。

 

司馬遼太郎の「ロシアについて」の一節に、ロシアのプチャーチンとの比較で、ペリーについて、傲慢と卑屈の塊のような人物と批判、東洋人相手の場合、恫喝と威嚇こそが有効と認識し、当時では日本との交渉は長崎経由がしきたりとされていたにもわらず、彼は直接、江戸に近い浦賀に突如姿を現し、黒煙をあげる蒸気船を伴って、西部劇のガンマンのように「上から見下ろす」姿勢で出現(嘉永663日、1853年)した。

その演出こそ、如何にもアメリカらしいと云わざるを得ない。

 

3日後には久里浜に上陸、フィルモアー大統領の国書を幕府の要人に手渡して、

”来春再び来る”と言って早々に引き上げて行った。その後のことは誰もが知る如く、日米和親条約は翌年の1月、ペリーの来航の際、調印された。

 

そのペリーの二度目の来航は1854年の1月(嘉永7年)であった。

その半年後の715日には、イギリス東インド艦隊司令官スターリングが軍艦4隻を率いて長崎に来航、ロシアとの開戦(クリミヤ戦争)の事実を伝え、同時にアメリカと同じように、日本の開国を迫り、和親条約の調印を終えた。

これは如何にも英米間の連携プレーの感は拭えない感じがする。

 

そこで問題はロシアの派遣したプチャーチン率いる使節団である。

プチャーチンはそれ以前より度々長崎に 来航して日本側と開国について交渉を重ね、幕府要人からも、もし外国との条約を締結する場合は、必ずやプチャーチンを最優先扱いにするとまで約束されていたにも拘らず幕府は、後からやって来たアメリカの恫喝に負けて、先をこされたのであった。

 

プチャーチンの乗る“ディアナ号”(Diana)はその年の718日にイギリス船を避けるように大阪湾の天保山沖に出没した。しかし幕府に下田に回航するように要請され、1015日、下田に入った。

 

ディアナ号が下田に来た半月後の114日、伊豆地方に大地震が発生、それに伴う大津波で船の後部が大破、致命的な大損傷を蒙った。

 

5日には、伊勢湾一帯に大地震があり、東海道の交通も途絶えたと云われている。

“これを運命の悪戯と云わないで何と呼ぶ”と云わざるを得ない。

 

年初に二度目の来航を果し、条約を結んで、意気揚々と引き揚げて行ったアメリカに比べ、その年に欧州で勃発した「クリミア戦争」でイギリス、フランス等を敵にまわしたことで、引け目を感じ、逃げ回った末、大津波に遭い、旗艦ディアナ号を諦めて、急造の木造船で帰国せねばならなかったロシアのプチャーチンの心境は如何なるものであっただろうか?

 

その年(嘉永7年)には御所、禁裏御門も炎上し、1127日、年号は「安政」と改元された。

 

宝永年間の1707年には富士山が噴火、関東、関西に地震、大津波が起こっている、嘉永7年の災害は、それより147年目に当る。

我が国に生きる我々にとっては、地震、台風、津波への予防措置は忘れることのできない事象と、常に覚悟が必要である。

 

 

 

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