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「タレント」とは?

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和製英語「タレント」をグーグルのフリー百科事典「ウイキペディア」で調べてみると、

以下のような種類の存在がわかった。

 

即ち、お笑いタレント、マルチタレント(多方面対応タレント?)、ローカルタレント、タレント政治家、外国人タレント、スポーツ出身タレント、デブタレント、フードファイター(?)、子役タレント、アイドル、ジュニアアイドル、評論家、コメンテーター等多種、多技にわたっている。

 

ここでは、「才能」、「能力」の個人差はあるが、誰でも何かに活かす能力を神から授かっていると云う解釈で「タレンント」は昭和の初期から存在していた言葉と定義されている。

 

「デブタレント」とは如何に?肉体的に太めの人材のことだと思うが、それでもタレントと呼ばれるのは如何なものか?

 

12月24日付京都新聞の「現論」欄にイーデス・ハンソン氏(写真)の“知識と経験を洞察力に”の題名で投稿しているのを見た。彼女は外国人タレント+評論家なのだろう、最終に(タレント)と書かれていた。

 

ハンソンさん曰く、「世間では専門家が評価されがちだが、広く浅くも捨てたものではない。素人と専門家の境も実は曖昧、学歴よりも中身、思考力、や視野の広さ、適用力こそ大切との意見には筆者も賛成である。

特殊技術、高い研究や知識にはそれだけの価値があり、いわんや、命や生活を守る特別知識を持つ人材は尊重すべきもの。

 

彼女は“これらを他の分野と切り離し、孤立した部門としてだけを極めて行くと、全体との関連やバランスを見失い、多方面に思わぬ影響を及ぼす危険が付きまとうと述べている。

 

彼女は、“広い知識を雑然と溜めこむだけだは発展性がのぞめない。各分野の知識と経験を更に上の高見から見渡すと視野が広がり、新たな理解と洞察力が増す”との意見。

 

今の学生諸君を見ていると「就職」に大半の関心を集中させ、より高度な大学院の存在感が希薄だと日本の教育制度や、学生の学業に対する姿勢に批判的である。

 

確かに現在の学生には将来への配慮がない。第一希望が官吏で、それは現在の制度から、生活が安定していて、従って、人生計計画が立てやすいのが本音。つまり安易な人生で、努力して専門家(タレント)への願望にかけたものが多いことは確か。

筆者の考えだが、特殊技術が買われて、それでもって社会的地位名声を得た、他人から見て恵まれた人物には、えてして欠陥人間が多い。

所謂「象牙の塔」に立てこもって、他人と対等に交際が出来にくい人、これには医学者や技術者が多い。また、職人肌のひとで気難しいのも困りものである。

 

多くの知識を持ちながら、誰とでも気安く、溶け込める人間こそ真のタレントではないだろうか?

例えば、18世紀のアメリカの政治家、外交官で、豊富な技術的、経済的能力の持ち主と云われたベンジャミン・フランクリンなどは、オール・ラウンドの「タレント」の最右翼だと思う。

イーデス・ハンソン氏が、この新聞投稿の末尾に(タレント)と自分を分類したわけには興味がある。

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カラシニコフの終焉とプーチン

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去る12月2日の各紙の報道で一時、世界で最も使われた武器のロシア製の自動小銃”カラシニコフ”、ロシア国防省が20年分の在庫が有るうえに、性能が時代遅れとなった理由で、既に20111年製造を停止していたと発表した。

その結果これの製造元であったイジュマンは破綻の運命となったとも報じた。

イシュマンは今年の8月、政府主導の企業合併で、「AK47]設計者の名を冠した新会社「カラシニコフ」として再出発として再出発を果たし、9月にはプーチン大統領自ら工場を視察に訪れカラシニコフ氏に面会して、会社のの支援を自ら約束したと言われている。

ところが、ロシアの機関紙イスベスチアはその後、新会社が開発仲の新機種「AK12」について「精度や使い勝手が軍の要求の資質二達していない」との国防関係者の発言を紹介、これに引き換え別の会社の機種が採用される見通しであることを告げ、”カラシニコフ製造の新機種、AK型は将来ロシア軍から消え去ることになりそうだ”と予言ともとれる情報を流した。その主な理由として射撃精度の低さが挙げられていた。

[世界で最も多くの人間を殺した銃」の設計者ミハイル・カラシニコフ氏が去る12月23日94歳で他界したことが判明報道された。

カラシニコフは1919年、西シベリア・アルタイ地方生まれ、第二次大戦に従軍、1947年に自名を冠したカラシニコフAK47を開発した。49年のソ連で採用されたこの銃は、社会主義国を中心として大量に出回った。

その功績に」より、2009年、ロシアでの最高位の勲章「ロシア連峰英雄」を受賞、訃報を受けたプーチンは[深い哀悼の意」を表明した。ロシア通信は「彼の銃をおかげで世界の数十かケ国が自由と独立を為し得た」と賛辞を送っている。

以前からカラシニコフを一手に製造していたイジュマン社の破綻後、会社名を「カラシニコフ」と変え、再出発後、プーチンが9月にカラシニコフ氏を訪問して、今後の経営の支援を約束しながら、突然ロシア政府機関紙イスベスチアが、今後のカラシニコフの採用を否定、それに代わって「別開社の機種の採用」を示俊したことはそこに何かの訳がなければならない。

プーチンが自らカラシニコフに面会して将来の援助を表明したのが約3カ月以前の9月、従って、イスベスチア報道はその後であったはず。

今後、”カラシニコフに変わる新機種が使われて、カラシニコフが不要となることで、新会社の「カラシニコフ」の存在が問われると思われるのだが、この背後にプーチンの影が見え隠れし、何か不気味な感がしないでもない。

イスベスチアの言う「新会社」と「新機種」の名称は未だ公表されていない事にも、高齢とは言え、カリシニコフ氏の急逝が何によるものかもハッキリと我々には判らないとなれば、これの背後にある事情を誰でも知りたくなるのは筆者だけではないはず。

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「世界遺産富士山」を如何に守るか?

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今年、富士山が世界遺産として登録された. 日本の象徴の富士山、これは「不二山」に通じ、正に我が国の象徴的存在であるに違いない。

 

アルピニスト、野口健氏は1997年に国際公募隊の一員としてエヴェレスト登山に参加、その際、外国人の発案で、そこでの「ゴミ拾い」を始めた。

 

そこで、初めて気付いて愕然としたことがあったと云う。それは登山道周辺に日本語の書かれた、使い捨て「ゴミ」を見た時だった。

 

一緒に行動していたメンバーから、「エヴェレストはチベット側もネパール側も、日本隊のゴミだらけだ、日本人はエヴェレストをマウントフジにするつもりか?」と痛烈な言葉を浴びせかけられたことが忘れられない記憶となり、そこで、野口氏は一念発起で富士山政争の運動を開始した。

 

それまで、高地トレーニングのために、富士山を訪れていたが、いずれも季節は冬であったため、雪がよごれを隠していた。私はそれまで本当の富士山をの姿を知らなかったと云う。

 

そこで、夏に、そこを訪ねてみた。エヴェレストで受けたショックを上回る衝撃的光景がそこにはあったと野口氏は云う。

 

登山者が使うトイレから流れ出たトイレットペーパーは白い川となって山肌を流れている。

 

麓には不法投棄された古タイヤや医療廃棄物が多く散乱している。

 

野口氏は続ける、ゴミだけではない、富士山には夏に登山者が集中するため、五合目はバスで大渋滞、又多くの自動販売機が雑然と並び、その辺が「下界」の延長としか映らない。

 

野口氏は2000年から地元のNPOである「富士山クラブ」に入って富士山清掃に着手する決心をした。

 

清掃活動は人海戦術だが、人がなかなか集まらないで困惑しているところに、ネスカフェのコマーシャル出演の話しが舞い込んだ。そこで、野口氏はコーヒーを飲んでいるシーンでなく、自分がエヴェレストで清掃活動をしているシーンを映像に使って欲しいと希望したところ、快諾を得た。(週間ダイヤモンド1228日号)

 

 

”富士山を世界遺産に!”と云う国民の悲願に近い望みは、美浦の松原と共に実現したかに見える。しかし、「富士山の問題」は実際はこれからが試練らしいことが判った。

 

7年後には東京オリンピックも本決まりとなった。オリンピックの用意は着々と予定通りに進むことだろう。

 

ところが、野口氏によると、通常ならば、世界遺産は登録前に解決すべき条件が示され、それをクリアーした上で晴れて登録となるが、富士山には厳しい条件が課せられていることに懸念すべきであることがある。

それは、登録後、見直し期間が3年あり、その間にこれまでに指摘されていた条件を解決せよと云う異例とも考えられる条件がつけられていることを忘れてはならないと云うこと。

煎じつめれば、富士山の世界遺産への登録は未だ決まっていないと云うことか?

 

長い間、富士山と共に生計を 立てていた業者の生活にも配慮が必要だが、入山者を制限すればそれらの業者の人達の生活権も絡んでくる。

 

夏に集中する登山者の制御には入山料も問題だ。最近、小笠原諸島で成功を見ている、レンジャー制度の導入も採用の対象となるとことだろう。

 

筆者は観光と自然保護の両立には無理が生じることは当然で、それには国民の自然保護への心構えの構築こそ最も大切だと考える。

 

 

 

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アメリカの原子爆弾の使用目的

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ソ連首相ヨセフ スターリンは、194410月、アメリカ大使アヴァレル ハリマン(Avarell Harriman)と陸軍武官,ジョン ディーン(John Dean)に、ドイツが崩壊すれば、その後3ヶ月後、日本を攻撃すると言った。

その後、194412月、再び,スターリンはハリマンに対し、対日参戦の条件をハッキリ、”千島列島、南樺太、、旅順、大連の再租借、それに、外モンゴルの現状維持を承認するよう求める“と要望したと云われている。(鳥居民氏「原爆を投下するまで日本を幸福させるな」草思社出版pp。176)

その条件をスターリンは当時のアメリカのソ連駐在大使、アヴァレル ハリマンに伝えた上で、その翌年の2月のヤルタでの米英ソの首脳会談に出席した。

 

ヤルタでは従って、それまでにスターリンが説いて、示してきた条件を公式に文書に纏められたこととなる。

 

しかも、その上で、アメリカ大統領フランクリン ルーズヴェルトは会議の席で重ねて、ソ連参戦が実現すれば、アメリカの立場からも、当時、日本領であった「千島 列島」をソ連が領有することを許可する誓約を行っている。

 

ヤルタでは、ソ連外相モロトフが、チャーチルに、”日本を攻める時には古い巡洋艦と駆逐艦を何隻提供してもらえますか?”と問うたと云われ。モロトフはその後、モスクワに戻って日本駐在大使の佐藤尚武に会見しているが、ヤルタでの会談では”ヤルタでは日本に関して何の話も出なかった“と 告げ、佐藤大使はそれをしんそこから信用して、そのことを自国に打電したと云われている。(同上、鳥居民氏著書)

 

しかし、事実、ヤルタ会談では「対日秘密協定」なるものが三者によって合意の上、署名されている。

 

筆者は以前にも言及したが、現在ロシアが日本の主張する「北方領土返還」主張に何らかの形で応じた場合、スターリンが主張した、“外 モンゴルの現状維持”の文言に関して、中国の反応を懸念としているのではと思考する。

 

戦争は非情であり、当時の世界の常識では千島列島はクリル諸島であり、そこに四つの日本の固有の島が存在したことまで配慮されていなかったことだけは確かであったと思わざるを得ない。

現実は、ヤルタ会談後2ヶ月後、ルーズヴェルトが他界、間も無くアメリカは「原爆」実験に成功したことで、日本を降伏させる為に、ソ連の援助はどうでもよくなったと考え出したと考えられる。

 

ハリー・トルーマンが大統領になったのは、フランクリン ルーズヴェルトが他界した1945412日。新大統領トルーマンが原子爆弾の存在につい始めて知ったのは、大統領就任のその日、陸軍長官のスティムソン(Henry  L, Stimson

からそれにつぃて簡単な説明を受けたのが最初であったと云われる。

 

それを詳細に知ることになったのは、425日。爆弾一発で一都市全部を吹き飛ばすことが出来る爆弾が4ヶ月以内に完成することをトルーマンは信じるようになった。

 

ルーズヴェルトはかねてから、そのような新兵器の研究が進んでいることを知っていたが、それが国家機密であったため副大統領にも告げていなかった。

 

未だ実験段階にあったプルトニューム爆弾は194574日前後、ニューメキシコ州の砂漠で実験される予定にあり、そこで完成する2種類(2発)の爆弾を日本の何処かに投下する準備を行っている事実をトルーマンが知ることとなった。

 

これを知ったトルーマンは「稲妻に当たったような気がした」と周囲に述べたと言われている。

 

これまで、大統領の近辺にいながら、何も重要な事は知らされることなく、何の役にもたたなかった、副大統領であった自分の存在が、この新型爆弾を使うことで、一気に時代の寵児として名を成す機会が訪れたことを小躍りせんばかりに喜んだと伝えられている。

 

その後のトルーマンがとった行動や外交日程の定め方は、新爆弾完成の予定日とされる、74日を念頭に動き出す。

 

先ず、ソ連の対日開戦の日程を速めることに消極的になる。その後、軍の関係者からは新型爆弾が成功したとしても、実際に使用できるのは81日以降になるとの情報も得た。

 

その後、トルーマンは病身のホプキンズを使者としてモスクワに派遣、スターリンに満州進行の予定期日を聞き出し、それが、78日でなく88日であるらしいと知らされた。

 

ヤルタ会談後、ドイツの降伏を確認後、もう一度、三大国首脳会談を開くことは、すでに全員了承済みであった。

 

問題は、その予定日について最も関心を持っていたのはアメリカではなく、イギリスのチャーチル首相であった。

 

この会談を早めなければ、ソ連がヨーロッパ中央部の占領地域をさらに拡大し、もし、アメリカがヨーロッパから引き上げれば、イギリスの立場や発言権が弱くなることを恐れてトルーマンに会談を5月の中旬までに開くように申し入れを行った。

 

ところがトルーマンは「630日の会計年度末まで、どうしてもワシントンを離れることが出来ない」と返答した。

 

これには、スターリンもチャーチルも我が耳を疑うほど驚いたと伝えられている。

 

しかし、トルーマンの会談日程引き延ばしの理由について、スターリンは既に、“マンハッタン計画”の名称で進んでいる、新型爆弾の情報はソ連の情報筋から漏れ聞いて知っており、従って、その完成が近いとの感触を持ったのではないかと筆者は考える。(関係したソ連のスパイ写真参照)

 

そのことを知らなかったトルーマンこそ「笑い草」で、そのことをおくびにも出さなかったスターリンの政治家としての偉大さを思い知らされる気持がする。

 

そのとき、ロシア軍は既に、ポーランドからドイツ国内にあったことで、次の会談日程が何時になろうとスターリンにとっては大きな問題ではなかった。

 

それに対して、アメリカ側では、ソ連の日本への開戦が確実に何時実行されるかを知ることこそ重大だと思うようになっていた。

 

その理由は、戦争末期に日本側が頼みとしていた、ソ連の和平への仲介が、もし、云われていた7月8日に実行され、ソ連の機甲部隊が突如として国境を破って満州になだれ込み「もはや万策尽きた」と思い、日本側が、1~2週間の間に連合国に降伏を申し入れた場合、トルーマンとバーンズが考え続けていた「一発で一都市全部を吹き飛ばすことのできる爆弾」が宝の持ち腐れと果て、巨額の資本を投じて完成させたばかりの新型爆弾はその究極の実験場所を失うことになることを恐れたのである。

 

アメリカはそれまでに20億ドルの資金を投入済みで、この金額は当時では途方もない高額な投資であった。

 

従って、アメリカとしてはソ連の対日開戦が「爆弾」使用が可能となる8月1日以降を希望していたに違いなかった。

 

トルーマンの主張するポツダムでの3者会談の日程が7月15日以降と云う意味は、会議日程を略2週間と考慮しての逆算から出されたものに違いなかったと考えざるを得ない。

 

前述した如く、アメリカが製造した爆弾は、その種類を異にした「2発」であって、第一弾は広島(6日)、第2弾は長崎(9日)に投下された。

 

この主旨は間違いなく武器による人間実験であって、1890年12月28日、アメリカ西部、サウスダコタ州、ウウンデッド・ニー(wounded Knee)にて第7騎兵隊がスー族を新型のホッチキス機関銃で皆殺しにした「実験」と同種類の大量虐殺であったと考えられる。

 

仲晃氏著「黙殺」では、当時の首相、鈴木貫太郎がポツダム宣言を「拒否」したがため、連合軍がこれ以上の友軍の戦死者を出さない手段として止むなく原子爆弾を投下して、無駄な血を流すことなく戦争を終結に導いた理屈は通らない。それは疑いのない事実として、それから68年の現在、世界中が知る事実となっている。

 

イーゴリー・クルチャトフ(ソ連のスパイ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロシアの将来に暗雲

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2012年、4年ぶりに大統領に復帰したロシアのプーチン、早速、これから国民一人一人が才能を生かし、自由で民主的な国家にすることを誓ったのが昨年の5月だったが、それ以後、反対に「自由」を規制する法案が次々と可決実行されている。

 

もともとKGB出身のプーチン、独裁政治にとって危険な行動にでるような人物たちの調査はすでに完成済なのではないか?

 

去る129日、「リア・ノーボスチ通信」が解体され、廃刊になった。しかもこれについては、事前通告もなく、プーチンの鶴の一声であったらしい。

 

これは70年余も続いていた国内最大の国営通信社が一夜にして、その姿を消すこととなった事件。

産経新聞の記事では、ノーボスチ通信は、ナチス ドイツがソ連に侵攻を開始した1941年、スターリンによってソヴィエト情報局の後継組織として創刊された報道社。

 

何故このタイミングでノーボスチが廃刊になったかには、産経新聞は二つの理由を挙げている。

まず、メドジェーエフ包囲網の形成。メドジェーエフは兼ねてからノーボスチ社を支援していたことが知られていることから考えて、これの解体は、やがて訪れる首相の解任の前兆なのかもしれないし、又、ソチ五輪はプーチンが是が非でも自分の権威にかけてでも成功させたいと願っている重大イヴェント。

その遂行に邪魔立てするメディアの事前排除も、ノーボスチア排除の理由の一つと考えられる。

 

ノーボスチは、いずれ新たに創刊される「今日のロシア」に吸収される段取りらしいが、いずれにしても、全てがプーチンの意向に背くことはご法度であるらしい。

その好例の一つは、08年、大衆紙モスコフスキー コレスポンデントの報道で

、”プーチンが近くリュドミラ夫人と離婚し、オリンピック金メダリスト女性と再婚する“と発表したことで忽ち廃刊に追い込まれたと云う話もあるとの事。

 

言論や報道の自由を擁護する国際NGO(非政府組織)「国境なき記者団」は最近、ロシアの報道の自由度を179カ国中で148位と認定。これは、ロシアの報道規制がリビア、アンゴラやアフガンに劣ることで、「フリーダム・ハウス」によると、ロシアのメディアを”自由でない”と断定している。

 

それでは、ノーボスチを吸収する「今日のロシア」がどのような方向に進むのかを考えると、プーチンが指名する新社長、ドミトリー・キセリョフ氏、ロシア中で誰も知らない人がいない程の有名人、既に国内テレビ局、「ロシア1」のアンカーマンで、「超保守主義」に凝り固まった人物、今後プーチン路線を決して踏み外すことのない人物と思われる。

 

今後、ロシアが「プーチノクラシイー」(プーチン政治)の浸透で、ロシアから優秀な人材が国外に流出、国内にはプーチンの意向に従う、羊のような、飼いならされる人間だけが残るような国家に成り果てる危険性も予想され、共産党一統主義の中国と変わらない無味乾燥な国家に成り果てないことを願うばかりである。

 

今年11月末に政府系巨大メディア・グループが複数の放送局を買収することで合意済み、プーチン大統領の側近がテレビ、ラジオ分野を牛耳る構図が出来上がってしまった。

 

最近プーチン政権が発表した「同性愛宣伝禁止法」に対する抗議を表すためとされるソチ冬季五輪への欧米首脳の参加辞退には、他に理由が見つからない為なのか知らないが、12月19日の毎日新聞、ドイツ、フランス、ポーランドにアメリカの各国がプーチンに背を向けるかの如く、ソチ冬季五輪への出席を自粛する姿勢を発表している。

 

ロシアの主要紙が18日、欧州連合を相手にした争いにロシアが競り勝ったと報道して、ウクライナがロシアからの「大型経済援助」をもらってロシア側経済圏に踏みとどまるとのニュースを発表、紙上にはウクライナのヤスコヴィッチ大統領とプーチンが顔を突き合わせているところの写真が出ている(写真)、お二人ともなんら柔和な顔つきどころか、プーチンが相手を睨みつけている感じがする。

 

旧ソ連圏内の国家同士間でも友好が保てない状態では、今後のロシアには可なりの困難が待ち受けているような感がある。

 

 

 

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宗教法人楽園、日本

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京都東山「青蓮院」、親鸞聖人が得度した名刹、皇族につながる門跡寺院。毎年の春、秋の観光の季節には、院内をライトアップするので多くの来訪者でにぎわっている。

一昨年、本来では世襲がご法度となっている筈の門跡寺院だが、「世襲」を申請して認められている。

青蓮院には日本の三大不動の内の国宝、平安時代「青不動明王図」(絹本着色)が伝承されている。

これが果して「寺宝」なのか「」国宝」なのかには議論の余地が残るが、当院では「秘宝」と称して、来年秋に完成予定の「青龍殿」で護摩を焚いて”ご開帳”する予定であることを12月12日、京都新聞で知った。(写真)

青蓮院は何時頃からかは知らないが、裏山の将軍塚の頂上に飛び地があり、その地に数年前、市内にあった大正時代の武道場を買収して移築、清水の舞台の五倍近い「大舞台」を構築して、それをお披露目をすることを。11日、東京日本外国特派員協会で特別に記者会談を開いて発表した。

京都の観光寺が特別に東京で外国記者を交えて自分の寺の宝物を「開帳」することを発表することは前代未聞と筆者は考えるが、これに何の意図があるのだろうか?

青蓮院の所在地は歴史的風土保存地区に指定された、現存の建物以外には如何なる構築物を建設することが禁止されているところであり、その裏山たりとも同じような法律の網がかけられている処だと普通は解釈される。

そのような山頂の緑地帯に清水の舞台をはるかに凌ぐような護摩堂と、一大テラスを構築することを許可した役所を考えるとき、京都市以外には考えられない。

その「青龍殿」に国宝の仏画を展示して観衆を集めるために、一年前から新聞記者を東京に集めて公表に及ぶ寺院の姿勢には何か世間を軽視したものを感じずにはいられない。

寺宝を開帳して観衆を集める行為が果して宗教行為なのかどうかも検討される余地があるのではと考える。

青蓮院が東京で記者会談をして予め発表した以上、この寺院の行為について、京都市が認可したことは確かであると思われるが、前述したような一大構築物が敷地の面積から計算して建坪率にかなったものかどうか、大いに疑問が生じる余地を残していると感じられる。

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珍しい「ゴボウの花」

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12月12日、毎日新聞「花信」(11)に、誠に珍しい「ゴボウの花」の記事がでていた。それは地味だが紫と緑の配色に文字では表し難い風情を感じた。

 

これも京野菜の一種で、豊臣秀吉が建てた、聚楽第の堀に生えていたことから「聚楽第牛蒡」の名が付いた。

 

また、江戸時代初期の吟に“牛蒡引き堀川の水も濁るべし”と、あることから「堀川牛蒡」の名が付いたとも云われているらしい。

 

料理にうるさいことで有名な風流奇人、北大路魯山人が牛蒡の持つ独特の風味を称して、雅味とか茶味と云った

 

牛蒡を引き抜くと「ひげ」のような細い「髭根」がびっしり巻きついている。これを抜きやすくするため、普通斜めに植えるのが良いと云われる。

 

昔は野生のものであったらしいが、京都の「オセチ料理」に欠かせないものとなり今では農園育ちとなっている。

 

牛蒡は英語名をBurdock Rootと云うが、日本以外では食用に供されているとは聞いていない。

記事:菊池昌冶、写真:毎日新聞(12月12日)

 

 

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京都東山「古川町商店街」

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古川町商店街は筆者にとっては馴染み深い思い出の場所である。

 

この商店街のホームページによると、終戦間もない、昭和25年(1950年)に古川町朝日会として発足、同29年に京都商店連盟に加入、京都では“東の錦”と呼ばれる約50軒の店が並ぶ「アーケード街」。

 

最盛期には南北約300メートルのアーケードに50軒程の商店が並び、活況であったが、何時しか、一つ、二つと櫛が抜けるように少なくなり、今朝の京都新聞(12月13日)によれば、これを運営する協同組合が12月末で閉鎖するとの記事を読んだが誠にさびしいかぎりである。

 

この商店街のホームページによると、「京都坊目誌」を参考に、ここは天正以前より若狭街道(通称“サバ街道”)の一部で、南北の道は「廃道」のまま田畑として使われていた処あり、寛文6年(1666年)に復旧されて古川町通りと呼ばれるようになった記されている。

 

それは、元青蓮院領粟田新町13組に属したと云う。

古川町と云う名の由来は、白川の旧流の水路を意味したか、或いは、畑地の字地名からの由来とも考えられる。

古川町の北には、分木町、八軒町、南西海子町、等が続き、現在では琵琶湖疏水に連結している。

 

宝暦12年(1762年)の「京町鑑」には古川町について、“これいにしえの若狭街道也、この通り、三条より知恩院、古川前まで、凡5町程の間”と記されている。

実際に、この商店街の北端に旧東海道の細い通りが、三条通りと平行に走っていて、そこを辿ってゆくと、現在のウエスタン・都ホテルに突き当たる。

即ち、明治の中頃、琵琶湖疏水の完成に合わせるようにスタートした「吉水苑」(旧名)を建設するために、京都市から借り受けたと思われ、そこで一端、旧東海道は止まってしまった。

 

本日の京都新聞の記事には、古川町商店街の南端近辺には、明治19年(1886年)に建てられた「京都新薬堂」(京都新薬の前身)の一部だったレンガ建てが残っている。“古川町センター”(現在の所有者)は、1967年、京都新薬堂の居宅と工場を買収、木造の工場を取り壊し、レンガ建ての居宅部分だけ残して、ここを組合の会合や、住み込み従業員の部屋などに活用していたらしいが、40年以前には多くの店舗が軒を連ねていた、処が今では5軒だけを残す状態となり、遂に去る6月、この歴史ある建物を含め、売却閉鎖の決断を下さざるをえないとの結論に至ったことは誠に残念と云わざるを得ない。

 

京都新薬堂と京都市立独逸学校(京都薬科大の前身)の発起人、府薬剤師会会頭を務め、京都の薬業界の大御所として活躍したとされる小泉俊太郎と日本新薬の関係や、その辺の事情及び、歴史については、鈴木栄樹編、著「京薬の歩みと共に」を参照されたい。(京都新聞本日の記事より)

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「オステンド・マニフェスト」

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アメリカ南部のフロリダからキューバは僅か、140キロしか離れていない。

従って、キューバは正にアメリカの裏庭のような場所と考えられてきた。

その事は、”モンロー主義”の考えからすれば、此処だけは、どの国にも取られたくないテリトリーで、その考えは、アメリカがメキシコ戦争で、西南部の広大な地域を併合した1840年代から次第に顕著となった。

 

アメリカが、キューバをスペインから購入する世論は1848年、メキシコとの交渉(Guadalupe Hidalgo Treaty)で、テキサスとの境界線をリオグランデまで延長、1500万ドルを支払って、テキサス、カリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナ、ネヴァダ、ユタ、ワイオミングの一部とコロラドまでの領域をアメリカに取りこむことに成功した。

 

そこで浮上したのが、アメリカ、スペイン大使ピエールスーレ(pierre Soule)の提唱でベルギーのオステンド(ostend)で秘密裏に開かれた会議に於いて宣言の形で発表された、「オステンド・マニフェスト」と呼ばれるものである。

 

この草案が出来上がったのは、1854年、(ペリーによる日米親善条約成立の年)ベルギーのオステンドに於いてのいわば密約で、もし、スペインが応じなければ、キューバを”もぎ取る"(justfied in wreting)との物騒な内容をもつものであった。

 

この宣言のなされた4ヶ月後、これが下院に於いて公開され「オステンド マニフェストと名付けられたが、これは最終的には否決された。

 

キューバを奴隷州として取り込む企ては、アダムス大統領、ジェファソン大統領の頃(19世紀初頭)からのアメリカの言わば悲願とも云うべきもので、スペインの勢力の衰退が始まった19世紀に至って、アメリカの拡張主義が活発になるに従って顕著になった。

 

1897年、マッキンレーが大統領になった頃から、キューバとハワイで不穏な事件が続出しだした。所謂「アジ」の種類の事件だが、これに類する事件の多発は半世紀前にテキサスで起こった騒乱事件、「アラモ」に似たもので、キューバでは「事件」を主題とした新聞報道が多く見られるようになった。(イエロー・新聞戦争)

 

このような騒乱を起こした「主役」を断定することは出来ず、その間、アメリカの世論はますますスペインの圧政ぶりを非難した。

 

運命の日は、1898年2月15日にやってきた。アメリカの新造戦艦「メイン号」がキューバのハヴァナ港で何者かに爆破され、多くの死傷者が出る事件が起こった。

これが人的な爆破なのか、単なる事故なのかは未だ解明されていないが、これが機雷の触発で起こったと云うニュースが流されるや(3月28日)、「メイン号を忘れるな!」と云うスローガンが全国に広がりを見せ、それを機に、アメリカ中が好戦的ムードと変わり、それこそ、40年ほど以前、「オステンド・マニフェスト」でアメリカが望んでいたムードになった。

 

宣戦布告から一週間後の5月1日には、予め派遣されていたデューイ提督率いるアメリカ海軍、フィリッピン海域でスペイン艦隊を撃破、その間、グアム島をも占領して米西戦争は幕を閉じた。

 

筆者はこれについてこれ以上、詳しい経過は知らないが、それと同じような事件が、それから半世紀も経たない、1941年12月7日(日)早朝、太平洋の中心地点のハワイ諸島で日本を相手として起こったことは未だ忘れない。

 

この「パール・ハーバー事件」は「ハヴァナ事件」と同じような環境で勃発したことを我々は忘れてはならない。

 

1997年発行のロバート B,スティネット(Robert B, stinnett)著、Day of deceit(欺瞞の日)には、941年12月7日(日)ハワイ諸島、ホノルル市、パール・ハーヴァー軍港で何が起こったか、また、それがどのようにして起こったかを克明に解説した、いわば、[Behind the scene]の暴露本ともいえる著作で、これは、最近“真珠湾の真実”-ルーズベルト欺瞞に日々―と云う見出しで発行された。(妹尾作太郎監訳、荒井稔・丸田知美―共訳)文芸春秋出版)

 

太平洋の真っただ中にあった無人の環礁をミッド・ウエイと名付けてアメリカ領に編入したのは、米西戦争のころであり。その名称「midway」は中間地を意味しているところから考えて、その頃からのアメリカの意図が何処にあったのかが考えさせられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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世界最大の潜水艦「伊400」

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12月2日付のfox-newsによると終戦直後、アメリカ軍に没収され調査された結果、目的をもってハワイ沖に沈められた当時、世界最大と言われた日本の潜水艦、「伊400型潜水艦」、それは戦後の原子力潜水艦が表れる以前ではまさしく世界で最大の潜水艦であった。

それがアメリカが分捕ってつぶさに調査後ハワイ沖にわざと鎮められたところまでは判っていたのだが、正確にその位置が判らなかったが、それが今回発見されたと云うニュース。

このニュースのコメントによると、伊400型は給油をしないでも世界を一周半回航できる性能を備えていた重要な戦利品で、ながく"to find list"(重要発見リスト)に挙っていたものらしい。

発見者で、潜水の専門家、テリー・カービー氏によると今度発見された潜水艦は戦争中作られた3隻のうちの一つで、歴史的にも非常に大切な発見だという。

これがハワイ沖に沈められた事実は判っていたが、実はそれが遥か遠くであったと思われていたが案外近くで見つかったことに驚いているとの事。

1946年、ソ連軍が連合軍に規約により、これのインスペクションを申し入れたが、アメリカ側は機密漏えい防止のため、その他4席の捕獲船舶とともにハワイに曳航して沈めたとのことである。

この潜水艦は去る8月に発見されたが、正式発表は12月3日(火)に行われ、今後、日本の関係者と共に調査されることとなっている。

日本版”グーグル”によると、伊400型には3機の特殊攻撃機「青嵐」を搭載し、潜水空母とも云われていた。

当初の目論見では、パナマ運河を攻撃する作戦も計画されていたが、これが完成したときには連合軍に本土周辺の制空権、制海権も失った状態で、結果的に活用される機会を失ったと言われている。

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「ファスナー」について

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呼び方はいろいろだが、ファスナー(fastener)は近代生活上、欠かせないアイテムになったと言ってよい。

 

19世紀中頃にアメリカで発明されたことは事実だが、永い間、「パテント」の問題で確かな発明者の確定が難しいとされる。

 

ミシンの発明者のエライアス・ホー(Elias Howe)は、1851年、”Automatic Continuous Clothing Closure”(自動連続式着物止め)-即ち、今日で呼ぶファスナーらしきものーを作って、その特許を取得したが、その後、ミシンを重要視、「ファスナー」を真剣にマーケティングすることを怠っていた。

 

42年後,空気圧を利用した電車(pneumatic street car)の発明者、ジャドソン(Whitcomb Judson)が、クラスプ・ロッカー(Clasp  locker)の名のファスナー付き靴を発表した。

 

その後、彼は、ユニヴァーサル・ファスナー会社(Universal  Fastener  Co.,)を創業、「クラスプ・ロッカー」の名称の靴を、1893年のシカゴ万博に出品したことからジッパー付き靴でジャドソンがその後、ファスナーの発明者と呼ばれるようになった。(cf,Ask.Com

 

会社はその後、スエーデン系アメリカ人、ギデオン・サンドバッグ(Gideon Su

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アメリカではファスナーのことをジッパー、或いは、ジップ・ファスナーと呼ばれるが、その名称は、1923年にゴムの大手、グッドリッチ(Goodrich Company)が使用したときから定着した。始めはこれをゴム長靴につけたり、パイプ用タバコの袋のファスナーとして使われていた。

 

Zipperがようやく、多く使用されることになったのは、1930年で、そのきっかけは、自分でボタンが留められない幼児たちが、の手助けなしに着られる上着用として始まったと云われる。

 

1937年にはジッパーはボタン使用のものを抜き去ったと云われる。

 

始めの頃は、ファスナーの故障がく、特に、男子用ズボンの場合困った事件になることがしばしば起こった。そのような事情で、エリザベス女王はファスナーを決して使われなかったと聞いている。

 

21世紀の今日では、ァスナーは生活の需品の存在となり、最近では両側からでも開け閉めが出来るファスナーも出ている。

女性用のポーチや、旅行用カバンにもファスナーは欠かせない代物である。

 

わが国ではYKKが最も有名なファスナー製造会社である。

グーグルで調べたところでは、YKKの国内シェアー:95%、で、全世界45%シェアーを維持して、世界各地に工場を持ち、年間売り上げは6700億とのこと。

 

日本では“チャック”だが、中国では“ラーリエン”、アメリカでは“ジッパー”、中米諸国では“シェレス・レランパゴス”、さらにフランスでは、“フェルメチュール・ア・グリシェール”と呼ばれるそうである。(YKK調べ)

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現実的危機を想定せよ

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中国が東シナ海に独自の航空識別圏を策定、民間飛行機会社に対し、ここを通過する予定のフライトには事前に中国航空管制局に報告義務を課そうとしている問題で、アメリカは、中国の発表の翌日に通告なしにB52爆撃機をその領域に飛ばして中国政府の反応を試したが、中国政府は、「事実を地上で確認した」と発表するにとどまっている。

日本も韓国も中国の発表を無視する姿勢を貫くらしいが、アメリカはアメリカン、ユナイテッド、デルタの3社とも11月30日、沖縄、周辺の東シナ海に防空識別圏を設定した中国当局に対し、対象空域を通過する便の飛行計画を提出し始めたことを発表したとロイター通信が報じている。

ところが今朝の新聞報道(12月2日、京都)では、安部信三首相がこのニュース報道について、米政府は、そのようなことを民間航空に要請していない事実を”外交ルートを通じて確認済み”と発言したことになっている。

今回、中国が何故突然に近海に航空識別圏を敷いた意図がどこに逢ったのかは判らない。

しかし、我々は2,30年以前に韓国航空機がソ連の設定した領域を犯したことで撃墜された事件を未だ忘れていない。

これは全くの個人的意見だが、中国はどちらにしてもアメリカ国籍の飛行機には決して手出しはしないと考える、しかし、日、韓の場合はどうだろうか?

私は安部首相の発言は拙速なもので、出来れば今のうちに撤回すべきではないかと考える。

アメリカ航空会社3社が、政府の指示ではなく、旅客の安全と心理的安心感を優先する目的で、自発的に中国の防空圏尊重の姿勢を取ったとしても、これは政府が干渉すべき問題とはならないと考える。

このあたりに、アメリカと日本の政治姿勢の違いがはっきりと見えてくる感じがする。

アメリカでも日本に於いても「許認可権」は国にあるには違いないことは確かだが、飛行機を飛ばすか、飛ばさないかは、各民間航空会社の選択の問題である。

最近、自民党の政治姿勢が各所で問われているが、行政指導のありかたにも「アベノミクス」が所々で間違った方向に行きかねないことに警鐘を鳴らしたい。

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タウンゼント・ハリスとヒュースケンの遺品

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アメリカ東インド艦隊提督ペリーが去ってから2年半後の1856年

(安政3年)7月、アメリカ大統領の任命により総領事としてタウンゼント・

ハリス(Townsend Harris)が軍艦サン・ゼシント号で通訳兼書記のヘンリー・ヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken)を伴って下田に入港した。

ハリスはアメリカ大統領からの信任状を示し、幕府に連絡して会見を望んだ。

 

幕府の役人らはハリスらの突然の来訪に驚いたが、ハリスの要請で、下田の玉泉寺を仮の領事館としてあてがった。

 

ハリスは日本に赴く前に、日本では英語よりオランダ語のできる通訳が是非とも必要と考え、ヒュースケンを伴って来日した。

 

ヒュースケンはアムステルダム生まれのオランダ人で、ニューヨークで日本でのオランダ語通訳募集の求人広告に応募し、ハリスとはセイロン島で落ち合って日本にやってきた。

彼は陽気で磊落な性質で誰からも親しみをもたれ、日本滞在中はハリスの秘書兼通訳とて貴重な存在ぶりを発揮していたが、来日5年後の1861年1月14日、芝、中の橋付近で突然薩摩藩の攘夷派浪士に襲われ非業の死を遂げた。

 

ヒュースケンは日本に来る時から克明に日記をつけていた。其の中には絵入りのページも多く、下田の玉泉寺の解説図面には克明に「アメリカ国旗」がはためいているところを描いている。

 

そのポールの上にはためく星条旗こそ、ハリスがアメリカに持ち帰りニューヨーク市の記念館に保存されている旗ではないかと思われる。

 

参考:

ヒュースケン画:玉泉寺のアメリカ領事館と,ハリスの寄付でNewyork City Collegeに現存する、当時のアメリカ国旗(Date:Nov.23,1857)

 

 

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