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アメリカの原子爆弾の使用目的

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ソ連首相ヨセフ スターリンは、194410月、アメリカ大使アヴァレル ハリマン(Avarell Harriman)と陸軍武官,ジョン ディーン(John Dean)に、ドイツが崩壊すれば、その後3ヶ月後、日本を攻撃すると言った。

その後、194412月、再び,スターリンはハリマンに対し、対日参戦の条件をハッキリ、”千島列島、南樺太、、旅順、大連の再租借、それに、外モンゴルの現状維持を承認するよう求める“と要望したと云われている。(鳥居民氏「原爆を投下するまで日本を幸福させるな」草思社出版pp。176)

その条件をスターリンは当時のアメリカのソ連駐在大使、アヴァレル ハリマンに伝えた上で、その翌年の2月のヤルタでの米英ソの首脳会談に出席した。

 

ヤルタでは従って、それまでにスターリンが説いて、示してきた条件を公式に文書に纏められたこととなる。

 

しかも、その上で、アメリカ大統領フランクリン ルーズヴェルトは会議の席で重ねて、ソ連参戦が実現すれば、アメリカの立場からも、当時、日本領であった「千島 列島」をソ連が領有することを許可する誓約を行っている。

 

ヤルタでは、ソ連外相モロトフが、チャーチルに、”日本を攻める時には古い巡洋艦と駆逐艦を何隻提供してもらえますか?”と問うたと云われ。モロトフはその後、モスクワに戻って日本駐在大使の佐藤尚武に会見しているが、ヤルタでの会談では”ヤルタでは日本に関して何の話も出なかった“と 告げ、佐藤大使はそれをしんそこから信用して、そのことを自国に打電したと云われている。(同上、鳥居民氏著書)

 

しかし、事実、ヤルタ会談では「対日秘密協定」なるものが三者によって合意の上、署名されている。

 

筆者は以前にも言及したが、現在ロシアが日本の主張する「北方領土返還」主張に何らかの形で応じた場合、スターリンが主張した、“外 モンゴルの現状維持”の文言に関して、中国の反応を懸念としているのではと思考する。

 

戦争は非情であり、当時の世界の常識では千島列島はクリル諸島であり、そこに四つの日本の固有の島が存在したことまで配慮されていなかったことだけは確かであったと思わざるを得ない。

現実は、ヤルタ会談後2ヶ月後、ルーズヴェルトが他界、間も無くアメリカは「原爆」実験に成功したことで、日本を降伏させる為に、ソ連の援助はどうでもよくなったと考え出したと考えられる。

 

ハリー・トルーマンが大統領になったのは、フランクリン ルーズヴェルトが他界した1945412日。新大統領トルーマンが原子爆弾の存在につい始めて知ったのは、大統領就任のその日、陸軍長官のスティムソン(Henry  L, Stimson

からそれにつぃて簡単な説明を受けたのが最初であったと云われる。

 

それを詳細に知ることになったのは、425日。爆弾一発で一都市全部を吹き飛ばすことが出来る爆弾が4ヶ月以内に完成することをトルーマンは信じるようになった。

 

ルーズヴェルトはかねてから、そのような新兵器の研究が進んでいることを知っていたが、それが国家機密であったため副大統領にも告げていなかった。

 

未だ実験段階にあったプルトニューム爆弾は194574日前後、ニューメキシコ州の砂漠で実験される予定にあり、そこで完成する2種類(2発)の爆弾を日本の何処かに投下する準備を行っている事実をトルーマンが知ることとなった。

 

これを知ったトルーマンは「稲妻に当たったような気がした」と周囲に述べたと言われている。

 

これまで、大統領の近辺にいながら、何も重要な事は知らされることなく、何の役にもたたなかった、副大統領であった自分の存在が、この新型爆弾を使うことで、一気に時代の寵児として名を成す機会が訪れたことを小躍りせんばかりに喜んだと伝えられている。

 

その後のトルーマンがとった行動や外交日程の定め方は、新爆弾完成の予定日とされる、74日を念頭に動き出す。

 

先ず、ソ連の対日開戦の日程を速めることに消極的になる。その後、軍の関係者からは新型爆弾が成功したとしても、実際に使用できるのは81日以降になるとの情報も得た。

 

その後、トルーマンは病身のホプキンズを使者としてモスクワに派遣、スターリンに満州進行の予定期日を聞き出し、それが、78日でなく88日であるらしいと知らされた。

 

ヤルタ会談後、ドイツの降伏を確認後、もう一度、三大国首脳会談を開くことは、すでに全員了承済みであった。

 

問題は、その予定日について最も関心を持っていたのはアメリカではなく、イギリスのチャーチル首相であった。

 

この会談を早めなければ、ソ連がヨーロッパ中央部の占領地域をさらに拡大し、もし、アメリカがヨーロッパから引き上げれば、イギリスの立場や発言権が弱くなることを恐れてトルーマンに会談を5月の中旬までに開くように申し入れを行った。

 

ところがトルーマンは「630日の会計年度末まで、どうしてもワシントンを離れることが出来ない」と返答した。

 

これには、スターリンもチャーチルも我が耳を疑うほど驚いたと伝えられている。

 

しかし、トルーマンの会談日程引き延ばしの理由について、スターリンは既に、“マンハッタン計画”の名称で進んでいる、新型爆弾の情報はソ連の情報筋から漏れ聞いて知っており、従って、その完成が近いとの感触を持ったのではないかと筆者は考える。(関係したソ連のスパイ写真参照)

 

そのことを知らなかったトルーマンこそ「笑い草」で、そのことをおくびにも出さなかったスターリンの政治家としての偉大さを思い知らされる気持がする。

 

そのとき、ロシア軍は既に、ポーランドからドイツ国内にあったことで、次の会談日程が何時になろうとスターリンにとっては大きな問題ではなかった。

 

それに対して、アメリカ側では、ソ連の日本への開戦が確実に何時実行されるかを知ることこそ重大だと思うようになっていた。

 

その理由は、戦争末期に日本側が頼みとしていた、ソ連の和平への仲介が、もし、云われていた7月8日に実行され、ソ連の機甲部隊が突如として国境を破って満州になだれ込み「もはや万策尽きた」と思い、日本側が、1~2週間の間に連合国に降伏を申し入れた場合、トルーマンとバーンズが考え続けていた「一発で一都市全部を吹き飛ばすことのできる爆弾」が宝の持ち腐れと果て、巨額の資本を投じて完成させたばかりの新型爆弾はその究極の実験場所を失うことになることを恐れたのである。

 

アメリカはそれまでに20億ドルの資金を投入済みで、この金額は当時では途方もない高額な投資であった。

 

従って、アメリカとしてはソ連の対日開戦が「爆弾」使用が可能となる8月1日以降を希望していたに違いなかった。

 

トルーマンの主張するポツダムでの3者会談の日程が7月15日以降と云う意味は、会議日程を略2週間と考慮しての逆算から出されたものに違いなかったと考えざるを得ない。

 

前述した如く、アメリカが製造した爆弾は、その種類を異にした「2発」であって、第一弾は広島(6日)、第2弾は長崎(9日)に投下された。

 

この主旨は間違いなく武器による人間実験であって、1890年12月28日、アメリカ西部、サウスダコタ州、ウウンデッド・ニー(wounded Knee)にて第7騎兵隊がスー族を新型のホッチキス機関銃で皆殺しにした「実験」と同種類の大量虐殺であったと考えられる。

 

仲晃氏著「黙殺」では、当時の首相、鈴木貫太郎がポツダム宣言を「拒否」したがため、連合軍がこれ以上の友軍の戦死者を出さない手段として止むなく原子爆弾を投下して、無駄な血を流すことなく戦争を終結に導いた理屈は通らない。それは疑いのない事実として、それから68年の現在、世界中が知る事実となっている。

 

イーゴリー・クルチャトフ(ソ連のスパイ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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