« 「オステンド・マニフェスト」 | トップページ | 珍しい「ゴボウの花」 »

京都東山「古川町商店街」

Photo

古川町商店街は筆者にとっては馴染み深い思い出の場所である。

 

この商店街のホームページによると、終戦間もない、昭和25年(1950年)に古川町朝日会として発足、同29年に京都商店連盟に加入、京都では“東の錦”と呼ばれる約50軒の店が並ぶ「アーケード街」。

 

最盛期には南北約300メートルのアーケードに50軒程の商店が並び、活況であったが、何時しか、一つ、二つと櫛が抜けるように少なくなり、今朝の京都新聞(12月13日)によれば、これを運営する協同組合が12月末で閉鎖するとの記事を読んだが誠にさびしいかぎりである。

 

この商店街のホームページによると、「京都坊目誌」を参考に、ここは天正以前より若狭街道(通称“サバ街道”)の一部で、南北の道は「廃道」のまま田畑として使われていた処あり、寛文6年(1666年)に復旧されて古川町通りと呼ばれるようになった記されている。

 

それは、元青蓮院領粟田新町13組に属したと云う。

古川町と云う名の由来は、白川の旧流の水路を意味したか、或いは、畑地の字地名からの由来とも考えられる。

古川町の北には、分木町、八軒町、南西海子町、等が続き、現在では琵琶湖疏水に連結している。

 

宝暦12年(1762年)の「京町鑑」には古川町について、“これいにしえの若狭街道也、この通り、三条より知恩院、古川前まで、凡5町程の間”と記されている。

実際に、この商店街の北端に旧東海道の細い通りが、三条通りと平行に走っていて、そこを辿ってゆくと、現在のウエスタン・都ホテルに突き当たる。

即ち、明治の中頃、琵琶湖疏水の完成に合わせるようにスタートした「吉水苑」(旧名)を建設するために、京都市から借り受けたと思われ、そこで一端、旧東海道は止まってしまった。

 

本日の京都新聞の記事には、古川町商店街の南端近辺には、明治19年(1886年)に建てられた「京都新薬堂」(京都新薬の前身)の一部だったレンガ建てが残っている。“古川町センター”(現在の所有者)は、1967年、京都新薬堂の居宅と工場を買収、木造の工場を取り壊し、レンガ建ての居宅部分だけ残して、ここを組合の会合や、住み込み従業員の部屋などに活用していたらしいが、40年以前には多くの店舗が軒を連ねていた、処が今では5軒だけを残す状態となり、遂に去る6月、この歴史ある建物を含め、売却閉鎖の決断を下さざるをえないとの結論に至ったことは誠に残念と云わざるを得ない。

 

京都新薬堂と京都市立独逸学校(京都薬科大の前身)の発起人、府薬剤師会会頭を務め、京都の薬業界の大御所として活躍したとされる小泉俊太郎と日本新薬の関係や、その辺の事情及び、歴史については、鈴木栄樹編、著「京薬の歩みと共に」を参照されたい。(京都新聞本日の記事より)

|

« 「オステンド・マニフェスト」 | トップページ | 珍しい「ゴボウの花」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/304622/54224319

この記事へのトラックバック一覧です: 京都東山「古川町商店街」:

« 「オステンド・マニフェスト」 | トップページ | 珍しい「ゴボウの花」 »