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明治の日本外交に貢献した、ヘンリー・デニソン

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日清、日露の戦争(1895-1938)を通じて日本政府はアメリカ人の外交顧問を特別待遇で招聘した為、日本は、これら二つの戦争に勝利し、外交交渉をそつなく乗り切ることができたと筆者は考えている。

 

そのアメリカ人の名はヘンリー・デニソン(Henry Willard Denison,1846-1914)であった。

彼はアメリカ野球の草分け頃に活躍し、今日のMLB創設に関係の深い人物でもあったと言われている。

 

デニソンの招聘に最も協力的であったのは井上馨であって、その主たる目的はペリーの来航以来、欧米諸国との間に不利な条件で締結されていた、所謂、不平等条約の改正の仕事であった。

 

デニソンは1846年(弘化3年)、アメリカ東部ヴァーモント州生まれ、コロンビア・カッレジ卒業後来日、アメリカ横浜副領事であったが、1880年((明治13)アメリカ公使、デ・ロングの推薦により外務省の顧問となった。

 

欧米流外交交渉に不慣れであった生後間もない若い国、日本にとって「外交」こそ最優先の国家事業であると気付き、諸々の条約規約を分析しながら外国と交渉、我が国に最も有利な、例えば「最恵国待遇条件」の手続きを語学と法律、欧米の習慣に手慣れている専門家を雇用して、ことに当らせたことは賢明な手段であったと考える。(但し、国家機密の漏えいについては一抹の不安が拭えない)

 

デニソンはその後、大隈重信、榎本武揚、陸奥宗光、小村寿太郎等の外相のアシスタントとして活躍、条約起草又は改正に具体案を示して政府の手助けをした。

デニソンは「三国干渉」の会議にも参画して陸奥外相に意見を具申している。

 

デニソンの最大の仕事は、日露戦争終結段階でロシアに手渡した交渉文の作成であった。デニソンの条文を目にした英仏らはその卓越した言い回しに驚き、我が国の立場に同情が集まったと云われている。

その時、アメリカ各地を巡って日本の立場に同情が集まるように演説に回っていた金子堅太郎も英文原稿をデニソンに依頼して作成させていたとも云われている。

 

結局、デニソンは日露停戦会議に小村外相と共にポーツマス条約締結の会議にも出席した。

 

デニソンはこの様にして日本政府に貢献したが、何の理由からか表だって彼の手柄や、仕事ぶりを公にされなかったのは何故だったのか、それを思う時、日本の典型的「役人政治」の狭量ぶりを感じずにはいられない。

デニソンは病を得て1914年に日本で亡くなった。

これは第一次大戦勃発の年であり、今年から数えて丁度100年前のことであった。

 

第一次大戦で、日本は頼まれもしないのに、これに参戦、ドイツを山東省から追放、戦後に太平洋のマリアナ群島の日本自治の権利を得たことでアメリカの西進を遮ったとして非難され、後の第二次世界大戦の火種の一つとなったと思われる。

 

デニソンがもし、その後20年生き延びたなら(1934年迄)、日本をあのような悲劇的戦争から救っていたかも知れないと思うと残念でならない。

 

デニソンの叙勲:勲二等(1895年)勲一等(1896年)、死後:菊花大綬章授与等 参照:梅渓昇著「お雇い外国人]講談社

 

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