« 2014年1月 | トップページ

戦争犯罪人とは?

PhotoRaymond Biel:Second Lieutenant, US。Army Air Forces in  1945

戦争行為は残酷、非道である。ただ敗戦国の戦闘員だけが軍事裁判によって裁かれる。

 

日本は連合国によって国際法上不法な侵略を行い、世界の他民族に多大な迷惑を及ぼしたことで、戦争終了後70年間非難されつづけている。

 

 

 

空の要塞の異名をとった大型爆撃機B29は「日本の戦力を根本から絶つ」ことを目的に建造された 戦闘爆撃機で、爆撃の対象を軍事施設だけでなく、木製の日本の民家を目標と定め、焼夷弾を使用、非戦闘員(民間人)を含む日本人の撲滅を目的に非人道的攻撃に使用された。

 

 

 

このようなアメリカ空軍の無差別爆撃により、推定一般市民8万人が焼死、100万人以上が被災、これらはアメリカ軍の重要な「戦果」として、日本爆撃に貢献した多くの軍人が名誉な行為として叙勲されている。

 

 

 

戦争の末期頃には日本各地の港湾・航路に多数の機雷を投下、海上の封鎖で、これを「飢餓作戦」と唱えた。

 

 

 

日本本土爆撃に参加したB-29,総数3万3千機、その内714機を失ったとの報告がある。

 

 

 

我々は今更、70年も前に受けたアメリカの非人道的なB-29による無差別爆撃行為を非難しても仕方がないが、最近目にしたアメリカの雑誌”AMERICAN”(2011年2月号)に掲載されていたアメリカ空軍のB-29のCO-PILOTであったMr.Raymond Biel (写真)の手記を紹介したい。

 

 

 

トルーマン大統領が“これを日本に投下するまでは降伏させるな”と云った原子爆弾投下のいきさつが偲ばれると思い、生々しい真実の告白をそのままのかたちで紹介することにした。

 

 

 

Raymond Biel,Second Lieutenant,US.Army Air Forces

 

“My unit had fifteen B-29 bombers and I was a copilot on one of them. On our first five missions in Japan, we dropped high explosive Fat Man bombs on industrial targets.

 

Our Sixth mission was strange. Because we took off without bomb.

 

We were told to fly over Nagasaki and report the weather back to Enola Gay,

 

plane flying an hour behind us.

 

There were two other planes assigned to similar reconnaissance missions,

 

one went to Kokura and another went to Hiroshima.

 

 

 

All three targets were clear that day..

 

we landed at our base and we shortly heard that President Truman had made an announcement: Hiroshima had been destroyed by a single bomb and if Japan didn’t surrender,other cities will get total destruction.

 

We all started cerebrating .We were thankful to be part of the mission.

 

 

 

このアメリカ軍人の生々しい真実の思い出話を読んで、筆者は、当時、トルーマン大統領の日本をターゲットとした原子爆弾投下戦略は、長崎、小倉、広島であったことが判った。

 

それと、広島を最初の目的地とは決めずに、原爆投下の使命を受けていた「エノラ・ゲイ」機の1時間前に二機の飛行機を飛ばし、これら3都市の気象状態を報告させて、何処でも天候の良好な都市に原爆を投下することに決めていたと考えられる。

 

その理由は、明らかに、爆弾の効果を上空より写真撮影して、調査することにあった。

 

1945年8月6日に於いては、長崎、小倉、広島の3都市とも天気が良好であり、アメリカ側にしてみれば、どの都市に投下しても変わりがなかったこともわかった。

 

広島にはウラン型の「リトルーボーイ」、長崎にはプルトニューム型の「ファット・マン」が使用されたとのことが判っている。

 

 

 

長崎の被爆は同年8月9日であったが、その日、長崎が晴れていて、小倉が曇っていたことで、小倉が幸運に被災を免れたとも考えられる。

 

 

 

アメリカ大統領は爆弾一発で大都市を破壊して廃墟化し、大量の人命殺戮を目的としていたことが判るが、戦争犯罪人とは看做されていない。

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

再びアメリカ外交官デニソンに就いて

日清、日露両戦争で日本にとって掛け替えのない働きを果たしたアメリカ人を挙げるとしたら筆者は迷わずヘンリー ウイラード デニソンを推挙したい。

 

ペリー来航以来、我が国は数多の条約を欧米角国と交わしたが、殆どが我が国には不利な条件で結ばれていた。

 

明治政府はこれら不利な条件を修正する仕事を依頼する目的でデニソンを外務省に招いた。(デニソン(Henry Willard Denison 1846-1914)

 

不思議にも我が国では、デニソンの名が広く知られていないのは何故だろうと思えてならない。

 

デニソンは1846511日ヴァーモントに生まれ、その後、ニューハンプシャアー州ランカスターに移り住んだ。

 

その後、国防省に勤務、又、財務相にも勤務した。

 

いつの事かは分からないが、デニソンはオレゴン州のプロ野球団オリンピックス(Olympics,Oregon State)の一塁手を186768年に務めている立派なプロ野球選手であった。

 

ジョージ ワシントン大学で法律を専攻し、1868年(明治元年)アメリカ横浜領事館勤務のため来日した。

 

一度帰国したが、再び日本政府の正式要請で1880年、来日し終世日本の外交業務に尽くした。(参考:Base Ball Pioneers, 1850-1870,, McFarland & Company,

IncP.268

 

デニソンの関わった最初の任務は、日清戦争後の下関条約締結であった。

外相、陸奥宗光の背後にあって、活躍、その後に起こった「三国干渉」事務での補佐の仕事であった。

 

広島で行われた「御前会議」にも参画、当時の日本の国力ではむずかしいが、全く「干渉拒否」の態度には消極的意見を述べたが、結局、デニソンの意見は通らず、ロシア、フランス及びドイツの要請を受諾、遼東半島の返還と決まり、「臥薪嘗胆」の言葉が生まれることとなった。

日露戦争の終結における「ポーツマス条約」にもデニソンは参加していることについても、日本ではあまり知られていない。

英米との外交交渉書類原稿作成、小村寿太郎や金子堅太郎の英文での草稿もデニソンの援助なくしてはなし得ていないのではとも思われる。

 

デニソンは、日本人の作った原稿を修正せよと言われてもとても直せないとも云っている。

英語は正しいかどうかよりも、自分の能力で(英語能力で)書かなければ人に感動を与えられるものではないとも言っている。(梅渓昇著「お雇い外国人」116ページ。

 

ポーツマス条約の会見場でルーズヴェルト大統領に’君はアメリカ人か日本人かと問われたとも伝えられている。

 

金子堅太郎全権が会議の最中に、小村の用意した原稿を、デニソンに再度寄稿させるように進言したことから考えて、デニソンが如何に日本では重要視されていたかがわかる。

 

デニソンは30数年に亘って日本歴代外相の絶対的信用を得、謙虚な姿勢で日本を理解、日本外交に貢献し「影の外務大臣」を貫き、1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発の年、外務省顧問在任中病を得て帰らぬ人となった。

 

このことはその後の世界での日本の立場を考えるとき誠に慙愧に堪えないしだいである。

デニソンは小村寿太郎と同じく青山墓地に葬られた。(幣原喜重郎「外交50年」)

 

| | コメント (32) | トラックバック (0)

目に余る韓国の反日姿勢への

Photo

本日(38日)産経「一筆多論」(佐々木木類氏筆)’見たくないシーンを見てしまった。エド ロイス米下院議員長(共和党)が、韓国系アメリカ人らが設置した「慰安婦」像前で、跪いて線香をあげる姿だ’、これは明らかに政治ショー、さぞかし韓国系の市民を喜ばせたことだろう。

 

ロイス氏は1992年から連続して11回の当選を果たしている政治家。選挙のことなら何でもする人物と映る。

 

韓国は戦時中、約20万人の韓国系慰安婦を強制連行したと言うが、勿論証拠はない。現代史家泰郁彦氏は、陸軍省の資料分析では、慰安婦の総数1万数千人、そのうち日本人4割、半島出身者が2割と結論を出している。

 

先日、NHK会長が、”戦争のあったところ、慰安婦なんか何処にでもいた”と言う発言をして、国会に呼び出されて叱られたが、それでは河野洋平発言の根拠は何処から出てきたのかはっきりしない。又、河野氏へのおとがめもさらさらない。

 

話題は変わるが、パチンコは日本では合法産業だが、台湾でも韓国でも禁止産業となっていることを殆どの日本人は知らないし、日本では一大産業として放任されている

パチンコが何故、台湾や朝鮮半島では非合法なのだろう?

パチンコの資本は朝鮮半島から来ていることは殆どの日本人が知っている。

 

パチンコによる利益は朝鮮人の懐に入る、彼らの虎の子収入に違いないが、これを何故国会で問題にしないか、問題に出来ないのか、その辺の事情は微妙な事情があるのかも知れない。

 

日本海を「東海」と呼べとか、伊藤博文の暗殺者の銅像を建て、100年以前に起こったことを今更持ち出す目的で何を日本に言いたいのかを知りたい。

 

断りなく「竹島」に無血上陸を果たし、これを現実に自国に取り入れた行為は、明らかに国際法違反である。

 

これを座視して問題にしない日本政府の態度も不甲斐ないが、それならば、アメリカ、カリフォルニア州が1913年、一方的に決めた「排日土地制定」で、日本人はアメリカでの農地も買えなくなった。これは「国内法」で決まってしまったことであった。

、今後、朝鮮人、韓国人に対して、日本でのパチンコの営業禁止、土地収得の禁止を政令で決め、韓国、北朝鮮に対し、何らかの報復を考えても良いのではないかと思える。

昨年、九州旅行で宮崎の「シーガイヤー」のゴルフ場のホテルに宿泊する機会があった。この広大な地所は既に韓国系パチンコ王の持ち物になっているらしい。

ここに限らず、韓国人は今や、パチンコより日本の不動産取得に注目し、対馬の土地の取得にも関わっているとのこと。

最近国会で日本周辺に存在する離れ島の調査を始めたらしいが、何時になれば日本が「平和ぼけ」から目覚めるのか、不安は尽きない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

狂信韓国

Photo_6伊藤博文

AEI研究所の日本研究部長マイケル・オースリン氏が米誌「ナショナルレヴュー電子版で、最近、韓国が中国の許可をもらって旧満州ハルピンに初代首相伊藤博文を暗殺した重安根の記念碑を完成させたことについて、アメリカ南北戦争(1860年―1865年)が終結後の1865年4月20日、ワシントンのフォード劇場において俳優ジョン・ウイルキス・ブース()John Wilkes Booth)の凶弾に倒れたエブラハム・リンカーンのことを取り上げ、もしも、アメリカの隣国のカナダの狂信者が、アメリカ人が祖国の中興の祖として崇めていたエブラハム・リンカーン大統領を暗殺した愛国者として1世紀も経ってからブース記念碑を建立したとしたら一般のアメリカ人はどう思うだろうと皮肉って述べている記事を見た。(2/1‘14、「湯浅博の世界読解」)

 

 

 

マイケル・オースリン氏は「事件が起こって一世紀も経てば、国家はそれを記憶の彼方に置こうとするものだが、東アジアではそうではない」とし、わけても、韓国の執拗さを嘆いている。危殆に瀕する自国経済、又は、日々に軍事大国化する中国を前にして韓国は他に考えるべきことがある筈。

 

 

 

そんな過去のことを今更もちだして意趣返しをしている場合なのかと、韓国の姿勢を批判している。「靖国」「教科書」「竹島」の諸問題が彼等にとってそんなに国家の重大問題」なのだろうか? わけても「慰安婦問題」とその]銅像を関係のないアメリカの地に造ることは全くの気違い沙汰と云う以外にない。

 

 

 

筆者(日本人)の見解を披歴するとしたら、「韓国併合」に最も同情的姿勢で接していたのは初代韓国初代総統を務めた伊藤博文その人であった。(恐らく韓国では伊藤博文を知る者はすでにいないと考える)

 

 

 

何はともあれ、靖国は日本の国内事情であり、これに就いて他国が無駄な干渉をすべきだないと思っている。

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新発見、(持念仏)金色涅槃像

20140202_091932新知恩院蔵木彫涅槃像

体長12.8センチと云う超小型の木彫の涅槃像が滋賀県」の新知恩院で発見された。胸の部分に水晶がはめ込んであり、材質は貴重な白檀製で、釈迦像の肌は丹塗りの上に金泥が塗られて、着衣は金箔に載金模様が施されている。

釈迦が入滅の際に体から光を発したという経典の言い伝えを表現するかのように胸の部分に水晶が嵌め込まれている。鎌倉以後目や爪、歯などに水晶がしばしば使用されている作例は珍しくないが、胸部分に水晶が嵌められた例は未だないといわれる。

目元や耳の形状、顔の輪郭、着衣の襞 の形状に快慶晩年の特徴も見受けられるとの報道だが、そのことよりも、当時では高価な材質や水晶までも使っていることから考慮して、かならい高い身分の人物が特注で作成させ常に肌身離さずに携帯していたものではないかと見られる。

この像は新知恩院の蔵から最近見つかり、収蔵されていた箱裏に「開山以来重宝秘中の秘也」と墨書され、唐織の袋に入った状態で見つかった。(像を置く台や枕は江戸時代の作)

この像を調査した同志社大の井上稔教授は(非常に出来が良く、芸術的な価値も高い。釈迦の死について非常に厚い信仰のあった僧が、持ち歩く」「念持仏」として作らせたものではないか」と述べている。

新知恩院の由来であるが、本山の知恩院(京都市)が応仁の乱の戦火を逃れて疎開先となった頃から建てられたと思われる。

いずれにしても、浄土宗の教義で説かれる「来生」の思いを象徴する貴重な作品として、宗教上に於いても当作品に附いての更なる今後の研究を待ちたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年1月 | トップページ