若林亜紀著「ドロボー公務員」を読んで

公務員給与はもともと民間給与を参考にその標準がつくられたと聞いている。

それなのに何故、彼等の給与や退職金が民間のそれらに比較して高額なのか?

このカラクリについて、“泥棒公務員”の著者、若林亜紀サンは、「国の人事院や地方自治体の人事委員会の調査は、民間の課長の給与にあわせて、公務員の課長級の給料を決める。このとき百人以上の民間企業なら課長以上の管理職の割合は平均9パーセントである(連合総研調べ)。ところが、公務員なら、国では三分の一、地方では三分の二が課長補佐以上の管理職待遇である。

民間の出世競争を勝ち抜いた管理職の給与を、年功序列で自動的に昇給する役所の中高年全員に払うのである。役所には部下が一人とかゼロといった、年功序列で給与だけは課長待遇と云う“名ばかり管理職”がたくさんいる。

つまり、若林サンは、民間の場合、数十年、真面目に働いて、経営者に認められた10人に一人以下と云う資格を云うが、公務員の社会では民間での課長待遇と云う資格の認定を無視して、全く良いとこ取りで決めている事が問題だと主張する。

国家公務員の場合、三分の一、地方公務員の場合、三分の二が課長補佐以上の管理職待遇で、そこには競争の理念はなく、ただ「年功序列」で、自動的に時の経過とともに昇給し、リストラの心配もない。

最近IMFとEUから資金援助を受けることとなったギリシャの財政破たんについて、若林サンは、2010年5月10日の「アエラ」記事を引用して、ギリシャと我が国の公務員待遇の類似点を以下のように指摘している。

我が国の公務員の給料には、基本給のほかに、さまざまな手当てがつき、おおむね基本給の1.5倍に手当額が膨らむ。(ギリシャの場合:3倍)

その主なものは、配偶者手当や住居手当、役職手当が主だが、地方によっては,精勤手当、窓口業務手当、外回り手当などあまり民間では聞いたことのない待遇が入っている。

公務従業者の平均年収は一千万円を超えて、民間平均の2倍以上で、その源泉は国民が支払う税金である。

ランドセル・メーカのクラレの調べでは、親が子供に希望する就職先が「公務員」である。

我が国の財政を圧迫している二大要因は、高額な公務員人件費と高齢化にともなう社会保険給付であるが、後者の場合はなかば不可抗力、しかし、公務員の待遇については人為的な変革が可能で、これを是正しなければ日本も将来ギリシャのようになるのではと恐れる。

民主党は政権交代時のマニフェストで、「公務員の数は減らさないが、総額人件費を二割削る」と公約したが官公労の反対で未だ実現されていない。これに付いても若林サンは、“国際的な常識からみれば、公務員を大胆に首切りし、人件費は四割減にすべき”と主張する。

これも「官公労」の援助をもらって、2年前に政権を奪取した民主党に期待する方が無理な話、それを自党のマニフェストで公務員給与を二割減らすと発言した時点から民主党は国民を欺いていると云わなければならない。

戦後日本政府が言い出した特筆すべき大ウソは二つある、一つは「非武装中立」と、それに「終身雇用」であると筆者は思っている。

終身雇用ならば、競争のない無風地帯のような「役所」に勤めて、一日でも永く努めれば定年時にはどれ程の退職金がもらえるかは計算機を使はなくとも判る。

若林サンが特に指摘する、“役所の幹部ポストは公募が世界の常識“の意見には筆者は賛成の立場である。

世界の主要国では、役所の課長や部長などの上級ポストは、原則として公募である、組織内だけで公募されることもあるが、インターネットなどを通して外部に開放されることの方が多い。

アメリカでは入庁して、そのままいられるのは係長クラスまでで、課長以上のポストは、政府任用で決まらない限り、公開の試験で採用される。

従って、それ以上のポストを得たければ、一度退職して、公平な立場と資格で上級職を目指せるシステムには賛同したい。

明治以来営々と築き上げた日本の官僚のシステムはトーチカのように堅固でありおいそれとは外部からは入れないように守られている。

「許認可」付与こそが役人の持つ既得権であり、その牙城はおいそれとは崩れないものである。

国民の税金で生計をたてていながら、システム上、彼等は国民より上司の立場にいるかのように錯覚している公僕達のメンタル矯正は難しい。

(若林亜紀著”ドロボー公務員”、2011年発行、ベスト新書)

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メール・オーダービジネスの元祖

MONTGOMERY WARDMontgomery_ward_catalog_of_1895,"Mail-Order Catalog"の元祖はアメリカ、中西部で1872年にスタートした「モントゴメリー・ワード」である。

1872年頃は所謂”フロンティアー”の時代であった。東部、ニューイングランド地方は既に大都市が多くあり、交通さえ便利なところであれば自分の好みの商品はたやすく手に入ったが駅馬車からようやく鉄道の時代に入った頃のシカゴやセント・ルイス以西は交通の便は未だ皆無に近く町の雑貨屋(general stores)で仕入れるのが当たり前であったころである。

そこえ出現したのがAaron Montgomery Wardがシカゴで開始した雑貨品のカタログ販売事業で地方からの注文を挿絵入りの商品カタログによる大量販売事業となった。

彼は最初地方の都市を巡り歩いてセールスをしていたが、この事業の開始により彼は先ず中間業者を除外してモダンな魅力ある都会の商品をカタログに乗せ、「商品在庫なし」の中間業者の地位を確立したと言える。

商品はそれぞれの町の「駅」まで配達される手法がとられた。

最初は種々の問題が起こり道は決して平坦ではなかった。

それに加えて、シカゴの大火災が事業をますます困難にした。

彼の最初の協力者はただの二人で、資本金は$1600であった。(1872)、163種類の商品に一枚のプライス・リストを挟み込んだ手製のカタログから始まった。

間もなく二人の協力者にも去られ困っていた頃、将来彼の義兄弟となったリチャード・ソーン(Richard Thorne)が共同経営者に加わった。客層はすべて都会の洗練された商品には程遠い人たちであったため、このビジネスは見る見るセンセーション的なものとなったのである。

それに、彼の殺し文言”Satisfaction guaranteed,or your money back"(ご満足頂けなければ料金を返済します)(1875)がさらなる売り上げに加担することとなった。

1883年になるとカタログは240ページに増え、1万アイテムの商品が掲載され、別名”Wish Book”とも呼ばれるほどとなった。

しかも、次第に都会人にも愛用されるほどに成長をとげたのである。しかし、1900年ににリチャード・ワーレン・シアーズ(Richard warren Sears)ーSears Roebuck Company-が商戦に加わることとなり、突如として雲行きに変化が生じた。

例えば、1900年のワードの売り上げが8700万ドルに対してシアーズの売り上げは1億ドルといわれている。

アーロン・ワードは1913年死去、ロバート・ソーンは1920年に彼の後を追ってなくなっている。

その後、今で言うアウトレットビジネスに形を変え全国に531店舗を保持するようになった。

1950年以後になるとSears,J.C.PennyやMacy’sの大店舗の攻勢により規模の縮小を余儀なくされ、1976にワードはモービル・オイルに売却された。

1985年には111年も続いたカタログの出版も中止せざるを得なくなった。

これもアメリカ型商業のたどる栄枯盛衰の一つの物語であるが、イノヴェーションと新しいビジネスで利益を追求する、歴史の一端、”アメリカン・ドリーム”の一例として紹介した次第である。

Richard Thone

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Nature speaks itself

自然美ほど美しいものはない。

Cradle_morning_2 Tasmania

National Park

"Cradle Mountain"

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