廃寺「内山永久寺」の扁額発見さる!

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安丸良夫著「神々の明治維新」(岩波新書103)によると、神仏分離や廃仏毀釈は、明治維新史上の奇妙で逸脱的な1エピソードに見えるが、それは狂信的人びとの独りよがりで、一時的にせよ、猛威を振るったとある。

その風潮も一時的で、結局、そうした独断ぶりは避けられ、その後、曲がりなりにも信教の自由は実現され、平静を取り戻したことが書かれているが、一体、このような暴挙とも云える活動が如何にして起こったのか?また、それを扇動した首謀者は誰だったかの詮索は成されていない。

”神々の明治維新”によると、神仏分離の布告が出されたのは慶応4313日、五箇条の誓文発布の前日であったとの事。それなれば、これは尊王攘夷思想とかなり関係があるように思えて来る。

天皇を神格化、そのことを前面に押したてたことで派生的に生じたのが神仏分離政策として現れたのではと推し量られる。

比叡山麓坂本の日吉山王社は、延暦寺の鎮守神で、江戸時代には山門を代表する三執行代の管理下にあった。ここへ武装した一隊が押しかけたのは、慶応441日の昼前のこと。彼らは神官出身の志士たちから成る神威隊50人、人足50人、宮司2o人、彼らは新政府の「ご趣意」と称して本殿の鍵を要求、その後破壊行為に移った。

これがそもそも、廃仏毀釈と云う通達を千載一隅の機会ととらえ、永年僧侶によって虐げられてきた神官のクーデターとも考えられる

その日、日吉神社を襲った一隊の指揮者は樹下茂国と云う人物で、岩倉具視にかなり深く関係がある日吉社の宮司であったことが判明している。

この事件を端緒として「廃仏毀釈」運動は野火の如く全国に広がったと見られる。

京都では八幡八幡宮、北野天満宮、祇園社等において破壊行為が行われ、奈良では興福寺に於いて大きな被害をだしている。

その興福寺大乗院の末寺と知られ、大和の国でも有数の大寺院であった、石上神社の南、山野辺の道沿いにあった内山永久寺はその頃最も甚大な被害をこうむった寺院として知られている。

太平記に依れば、この寺は建武3年(1336)、後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと伝えられ、天正13年(1585前後)には16の坊、院が存在、大和名所図会には池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔や鎮守社を含め、多くの院家、子院が立ち並ぶ寺であり、文禄4年(1595)には豊臣秀吉は当寺に975石の寺領を与えている。

内山永久寺は大和国では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていた大寺で「西の日光」の名で知られていたと云われる。

筆者は先日、大阪市立美術館で開催されている「ボストン美術館秘宝展」を訪れた際、内山永久寺旧蔵とされる鎌倉時代の数点の仏画に遭遇した。

これは明らかに明治初期に来日した、アーネスト・フェノロッサ、ウイリアム・ベゲローにより持ち帰られた仏教美術品の一点で、内山永久寺の破壊で世に出たものであることが判った。

その他、当時「破壊」とともに巷に流出した寺宝の主たる物を列記すると:

国宝、両部大感得図、藤田美術館、重文、木造持国天、多聞天立像、東大寺、

重文、木造四天王像、東博、静嘉堂美、MOA美に分蔵、重文、不動明王、ハ童子像、新潟、中野忠太郎氏蔵、重文、真言ハ祖行状図、出光美蔵、重文、愛染明王坐像、東美蔵 と云った優れた作品を多く所蔵していたkとが判る。

毎日新聞、5月26日の報道では、この偉大な「廃寺」のものと思われる扁額が天理市の農家から発見されたと報じている。

奈良文化財研究所が調査した結果、これには「金剛乗院」の文字が認められ、その書体から、これが鎌倉時代の書家・藤原教家(のりいえ)の書で、宝冶元年(1247)に書かれ、同寺の真言堂に掲げられたものと結論つけた。

この記事にも指摘されている如く、鎌倉時代の扁額の発見は極めて珍しく、永久寺の更なる解明に留まらず、書道史の研究にも役立つ一級史料として重要である。

この扁額は縦:約84センチ、幅:約43センチの長方形で、寺の院号「金剛乗院」の文字が明記され、これは南北朝時代に編纂されたとされる「扁額集」に藤原教家が宝冶元年に揮毫したとの記載に合致する点も興味深い。

前述したように、鎌倉時代の扁額の存在は実に貴重で、さらに永久寺と云う名称に反して、廃寺になった同寺の印とも云うべき扁額が140年も経過した今日、忽然として発見された偶然に驚くほかない。

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ミシシッピーの蒸気船の時代

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19世紀の初頭、フルトン(Robert Fulton,17651815)がニューヨークからハドソン川を遡り、キャピタルのオルバニー(Albany)迄を蒸気船航行を成功させたことで、アメリカの交通事情は急変した。

アメリカ五大湖の一つ、エリー湖迄に運河が完成(Erie Canal)した1825年頃までに完成、オハイオ川(Ohio River)まで船旅、物資輸送ができるようになった。

そこからは、自然にミシシッピーに出ることが出来、定期便でニューオリーンズ迄の交通路線が完成した。

初期の蒸気船は速度も遅く、騒音を発する怪物のような代物だったようだが、これで初めて風向きに関係なく川を上下出来る手段が確立された。

商業的に東部から南部まで蒸気船を導入することを考え付いたのは、第26代大統領、テェオドール・ルーズベルトの祖父の兄弟にあたるニコラス・ルーズベエルト(Nicholas J. Roosevelt)であった。(OhioArchaelogical and historical Quarterly Vol.16,No:3 July 1907,pp 310-315)

1809年に、43歳のルーズベルトは、新婦ラトルーブ(LaTrobe)を伴って、その頃では稀な個室つき平底型の豪華な蒸気船で、5人の乗組員とともに、冒険的新婚旅行を企画、ニューヨーク、ピッツバーグを経て、オハイオ川からミシシッピーに入ってニューオリンズまで下る事に成功した。

ルーズベルトはその途中、川の流れの速さ、川の深さを測定、地図を作製したと云われて入れる。その翌年の、1810年ルーズ、ヴェルトは再、シンシナティーでエンジンを改良して「ニューオリーンズ号を完成、おなじ行程での蒸気船のビジネスを目的とした旅を行って、後に繁栄をもたらしたミシシッピー航路ビジネスの先便を付けた。

ここに至るまでには、ルーズベルトは、ニューヨークの資産家で、第三代大統領:ジェファソンの指名で、ナポレオンとルイジアナ購入の交渉に尽力した、ロバート・リヴィングストン(Robert Livingston1746-1813),ならびに、蒸気船の発明者、ロバート・フルトン(Robert Fulton,1765-1815)等とともに航路の就航の研究を行った。

後にマーク・トウエインが書いているように、ミシシッピーは常にその形態を変化させいる。

上流で大雨が降った場合には、水かさが急に上がって、沿岸の土手が崩れ落ちたり、大雨で流れてきた流木が水底に突き刺さり、いたるところに難所を作って、水先案内人やパイロットを悩ませることが度々起こった。

何といっても、ルーズベルトのニューオリンズ号の就航によって、大河ミシシッピーを遡って物資や人を上流に輸送出来ることが可能になったことは意義深い。

南北戦争後、ミシシッピー・リヴァーボートのビジネスは最盛期を迎えることとなる。

その頃にはミシシッピー川とオハイオ川には1万隻以上の外輪船が運航していたと言われている。

その昔“ショーボート”と云うハリウッド映画を見た記憶があるが、ミシシッピーを上下した豪華船の中には、贅を尽くした客室、バー、豪華レストラン、200人以上」も収容できるメーン・ホールにはクリスタルのシャンデリアに豪華な絨毯が敷き詰められていた。

南北戦争後には最高水準の装備と、エンジンを持った船同士のスピード競争がしばしば行われたそうだが、その中で最も有名を馳せたイヴェントは、当時では          スピード・ホールダーの名をほしいままにしていた、ナチェス号にロバート E・リー号(Robert E,Lee)(挿絵)が挑戦、後者が勝利を博した。(1870)。

間もなく、大陸横断鉄道の完成を見てからは、蒸気船は次第にその数を減らしていき、20世紀を迎えるころにはその姿は見られなくなった。

現在では「デルタ・クイーン号」が歴史指定物として、シンシナティからニュオルリーンズ間を就航しながら、古き良き時代を懐かしむ観光客の人気を集めている。

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