「モリソン事件」について思うこと

Photo モリソン号

アメリカ海軍提督マシュー・ペリーが江戸沖に数隻の軍艦を率いて現れ、それまで、平和に明け暮れしていた日本人の心胆を寒むからしめ、(1853年)15年後に明治維新をもたらす遠因を作った時より遡ること略半世紀の1808年10月(文化5年)、イギリスのフリゲート船「フェートン号」が長崎出島に、オランダ国旗を掲げて突然あらわれた。

イギリスはかねてより日本幕府がオランダと清国に対してのみ港を開放して差別的貿易を行っていることに不満を募らせていたが、フランス革命後、イギリスに亡命して逃げてきた、オランダ、ウイルヘルム5世の承認で、長崎の出島のオランダ東インド会社商館の検閲を強行するべく寄港した。(フェートン号事件)

同年、8月15日フェートン号はオランダ船の拿捕を目的として、オランダ国旗を掲げて(偽装)入港、人質を取り、長崎奉行(鍋島藩)より薪水や米、野菜、肉を調達後、翌日、8月16日悠然と引き揚げた。

これは正に、平和に明け暮れていた我が国の無防備を突然と襲った大事件であったと言える。

ところが、幕府はフェートン号がそれ以上の問題を起こさず、いわば平和的に引き上げたことを良いことに、17年後の天保13年(1825)に「異国船無二念打払令」を発令して沿岸に接近するオランダ船と清国船以外の異国船を見つけ次第、砲撃して追い返す号令を下したのであった。

1837年(天保8年)に”音吉”を含む、日本人漂流民3名を救助の上、送り届けてきたアメリカ商船「モリソン号」(Morrison)をイギリス軍艦と誤認、薩摩藩と浦賀奉行は異国船打払い令に基づき、これに砲撃を加えて追い返すと云う事件が起こった。(音吉の生涯に就いては次号に紹介予定)

実際は、このときモリソン号,マカオで保護した日本人漂流民の送還と通商、及び布教に訪れたことが、それから一年後に判明し、突然として「打ち払い令」に対する批判が高まり改訂される原因となった。

この時の幕府の外国船に行った非礼を糺すべく「慎機論」を著した、江戸末の著名な画家、蘭学者の渡邊華山は、幕府の対外政策を批判した理由で逮捕され(蛮社の獄)獄中で自害した。

その後、隣国の清国でアヘン戦争(1839~1840)が勃発、オランダ人を通じて刻々とニュースが飛来、さすがの徳川幕府も危機襲来の可能性を感ずるに至る。

今から 顧みれば、我が国は「アヘン戦争」以後、イギリが、清国との通商に携わる中、インドでは、シク教徒との二度にわたる戦争(1845~49年)他、中東、アフリカ、ニュージーランド内戦等にかかわる内、時間が経過、アメリカ東インド艦隊の訪問(1853年)を迎えることとなった。

周辺の海で国境を他国と共有しない地理的条件にある日本は、19世紀半ばまで外国の干渉を受けずに平和が保てたことが「幸」であったか、どうかは一概には決められない。

具体的な敵意をもって、武力で我が国に迫ってくる外国の干渉を払いのけるには、やはり相手の力に見合う兵力を持ち合わせなければ,平衡(equilibrium)は保てないことは云うを待たない。

先日決行された北朝鮮の大陸間弾道弾試験や尖閣諸島にむけての中国の積極的攻勢に対して、近い将来において取るべき我が国の手段は限られてくることであろう。

本日(12/16)、衆議院総選挙が行われている、我々国民としては、今後、これ以上、時間を無駄にすることなく具体的に迫ってくる外国のやむなき攻勢や圧力を如何に平和的に避けながら国家の威信を維持することに邁進するほかはないものと考える。

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